第15話 ペンギンの巣立ちと山盛りご飯|2017年8月

 幸彦は泣いていた。ずいぶん久しぶりだったのですっかり忘れていたけれど、泣くというのは全身を使うハードな行為だ。目から涙が溢れてくるのは当然だが、鼻水が垂れ、体が震え、気を抜くとヒックと情けない音を出してしゃくりあげてしまう。肩も震える。 
 幸彦は必死で体が不自然な動きをしないように耐えていた。背後にいる母に泣いているのを悟られたくなかったからだ。そのためには今すぐ泣き止むのが得策だが、目の前のテレビの中ではヨチヨチ歩きのペンギンたちが次々と冷たい荒波の中へ飛び込んでいき、幸彦の心を揺さぶり続ける。彼らは親に置き去りにされ初めて自ら海に入るのだ。波が砕け散る。音楽が盛り上がる。ナレーターが静かにそして厳かに告げる。 


——彼らを守るものはもういない。これからは自分の力で生き抜かなくてはならないのだ。彼らはひとりで旅立たねばならない。危険でいっぱいの南極の海へ。 

「幸彦、返事しなさい。寝てるの?」
 幸彦は母に背を向けたまま、片手を上げて起きていることを示した。
「出かけるときはクーラー消して戸締りちゃんとしなさいよ」
 幸彦は母の不満そうな声に答えて、わかったわかった、今いいとこだから黙ってて、というような不遜な動きで手をひらひらさせる。母は幸彦の意図通り、まったく就活生なのに気楽なんだからと憤慨して、幸彦の顔を覗きこむこともなく出かけていった。
 ドアが閉まる音が聞こえた瞬間、幸彦はティッシュケースに手を伸ばした。鼻をかむ。かんでもかんでも鼻水が溢れてくる。嗚咽が漏れる。うおおと変な声も出る。画面の中でペンギンたちは既に小さくなっていた。小さな体がアザラシもシャチもいる海の中に消えていく。涙に霞む目でその姿を追いながら、幸彦は自分の中の迷いが消えていくのを感じていた。
 今までは面接で何を答えても嘘をついているような気がしていた。志望動機はその最たるものだ。なぜなら、幸彦は働くこと自体を志望していないからだ。志望していないのに動機を話さなくてはならないのだから、誠実に答えられるはずがない。しかしもう幸彦に迷いはなかった。幸彦は熱く燃えていた。とにかく大海に出なくてはならない。独り立ちしなくてはならない。働くべきだ。働いて生活の糧を稼ぎ独り立ちするべきだ。それは理屈ではなかった。生物としての掟だと幸彦は思った。

「ペンギンですか」
 年配の面接官がゆっくりと顔を上げて幸彦を見た。面接官はあきれていたのだが、興奮している幸彦はその微妙なニュアンスに気づかない。自分に興味を示したと解釈し、勢いづいた幸彦は、朝見たばかりの感動を面接官に対して一気にまくしたてた。ペンギンがいかに厳しい自然に耐え、工夫して子供を育て、やがてその子供たちが試練を経て旅立っていくかを熱く語り上げた。ここが何の場であるかも半分忘れていた。面接官は困ったように隣に座っている若い男を見た。
「室田君は南極で本物のペンギンを見たことがあるんだっけ」
 幸彦は初めてそこによく知った顔が座っていることに気づいて青ざめた。室田は面接官よりさらに困った顔になって苦笑いした。

 この世の終わりのようにうなだれて部屋を出ていく幸彦を見ながら室田は、
(これで落ちたらまるで俺のせいみたいじゃないか)
 と、思った。事前に履歴書を見ていたから幸彦が現れることは知っていた。義甥のよしみで、知らぬふりを装いながら、幸彦が有利になるように誘導してやろうと考えていた。それなのに、いきなりペンギンの話をされてはお手上げだった。とっさに話を振られても何も言えなかった。これが見知らぬ相手ならまだ面白がったりフォローしたりもできただろうが。
 隣を見ると上司のほおはゆるんでいた。
「ペンギンの巣立ちか。よっぽど感動したんたろうなあ。室田くんのときのテーマは『普通の幸せ』だったっけ」
 やはり思い出していたか、と室田はため息をついた。室田がこの出版社に面接に来たのは、つい半年前だった。室田もテレビドラマで見て感動した内容を今の幸彦のように面接の場で力説したのだ。
「しかし妬けるなあ。やっぱり本はテレビには敵わないのか」
「そんなことないですよ」
 と、言ってみたものの、本をまったく読んでいないのに、この出版社の面接に来た室田の言葉にはまるで説得力はなかった。
 面接は続く。ようやく最後の一人を終えて二人は顔を見合わせた。
「誰をみても氷の海に飛び込む前のペンギンに見える」
 まったく同意だった。上司の言葉に室田は何度もうなずいた。

 電車に乗り込み帰宅時間を果穂にメールする。数秒後、「了解」とシンプルな返信が室田のスマートフォンに届けられる。それを見るともう室田は家に帰ったような気持になる。以前の室田はこんな結婚にまつわる儀式のひとつひとつを嫌悪していた。自分の行動をいちいち誰かに報告するなんて束縛されているようで嫌だった。誰かと一緒に住むということも考えられなかった。仕事やつきあい以外の時間はひとりでいたかった。思考の邪魔をされたくなかった。
 だが、本当にそうだろうか、と室田は満員電車の中でぼんやりと思った。あのとき俺は一人で何を考えていたのだろう。酒を飲んで夜遅く家に帰り、テレビで報道番組を流しながら、自分がかつていた土地の情報をひたすらネットで集めていた。情勢はよくなっていない。毎日のように死者が出る。そんな状況をモニター越しに眺め、情報を集め続けることだけが平和な場所で暮らしている自分の後ろめたさを消してくれるような気がしていた。何もできない自分に絶望しながら、ただただ魂を奪われたように眺め続けていた。それは誰も幸せにしない、どこにもたどりつけない行為だった。
(ひとりで考えたいだなんて、勘違いもいいところだ)
 思考というのは健全な精神からしか生まれない。地に足をつけ、自分の日常を生き、身の回りの人を幸せにして、生きる実感を得て初めて、正しい思考ができる。果穂と暮らし始めて室田はそれがわかった。果穂が隣で正しく生きている。それは、まるで灯台のあかりのようであり、時を刻む時計の針のようであり、移ろう四季のようだった。言葉も理屈もいらない。ただ一緒にいるだけで自分の中の何かが正しくおさまっていく気がした。

「今日、うちの面接に幸彦が来たよ」
 室田が言うと、果穂は面白そうに顔を輝かせた。果穂は甥の幸彦を実の弟のようにかわいがっている。
「どうだった? どうだった?」
 ペンギンの話をしようとした室田は、思い直して、
「情熱的だった」
 と、だけ答えた。万が一、幸彦が室田の務めている出版社に入社して、室田の面接の様子を誰かから知らされたら、と考えたのだ。もしここで室田がペンギンの話を果穂に話し、果穂がそのことで幸彦をからかったとしたら、きっと仕返しをされるだろう。黙っていれば恩義を感じてくれるに違いない。
「へえ。ゆきちゃん、出版社に入りたかったんだ。知らなかった」
 果穂はしきりに感心している。幸彦の情熱は出版社の仕事ではなくペンギンに向けられていたのだが、それを言うわけにはいかない。ようやく働く覚悟が決まったんじゃないかなと適当なことを言って、室田はその場を濁した。
「今日、新しいやり方を試したいから実験台になってね」
 室田に異論はない。果穂のリフレクソロジーは気持ちがいい。本来はお金を払ってしてもらうようなことを、ただで受けられるのだから贅沢だ。夫の特権だ。
「でも、俺でいいのかな、実験台」
「どうして?」
「だって、いつも気持ちよくて途中で寝ちゃうから。ちゃんと感想とかうまく言えないし」
 果穂は首をかしげて微笑んだ。
「大丈夫だよ。寝言でわかるから」
「えっ? 寝言?」
 室田は口を手で押さえて青ざめる。自分の意識がない時に発している言葉ほど恐ろしいことはない。
「自分じゃ気づいていないと思うけど、ゴウ君いつも寝ているときうなされているんだよ。何語かわからない言葉を叫んで。でも、リフレのあとは黙って幸せそうに寝てる」
「……実験成功?」
「そう」
「確かにそれはわかりやすいな」
 はい、と山盛りのご飯が盛られた茶碗が手渡される。室田はそれを受け取ると、照れ隠しにがつがつと食べ始めた。

(つづく) 

初出:日本リフレクソロジスト認定機構「Holos」2017年9月号

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寒竹泉美

【連載小説】ちょうどよいふたり

日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」で連載中の連作短編小説です。1年に3話更新されます。作中の人物も4カ月ごとに成長していきます。
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