第20話 ちょうどよい娘|2019年5月
果穂は病院の中にあるカフェでだらだらしていた。カフェはオープンな構造になっていて、廊下を歩いて行く人たちがよく見える。近所の病院と違って、ここにはいろいろな種類の患者やスタッフがいる。男も女も、赤ん坊も老いた人も、病状も格好もさまざまだ。歩き回っているのは比較的元気な人たちだろうから、ここにいるよりずっと多くの人がベッドに寝て治療を受けているのだろう、と果穂は思った。
支払いも済ませたのにすぐに帰る気にならなかったのは、あまりにもあっさりと診察が終わってしまったからだ。少し難しい状態かもしれないと言われて紹介状を書いてもらって大きな総合病院にやってきたのに、母子ともに健康そのものですと太鼓判を押されてしまったのだ。もちろん何もなかったのはありがたいけれど、それまで気をもんでいた分、拍子抜けした。気分の切り替えのために、カフェで一休みする必要があった。
人間観察に飽きた果穂は、さっきもらったばかりの白黒のエコー写真を取り出した。妊娠五か月。しっかりと人の形が写っている。でも、顔は見えない。両手で覆い隠している。
「ちびこさんは、いつになったらお顔を見せてくれるのかな」
果穂はいつものようにお腹の子に話しかけた。ちびこさんというのは名前が決まるまでの仮の名だ。語呂がいいので「こ」をつけているけれど、男なのか女なのかはまだわからない。
「果穂さん」
ふいに誰かから呼びかけられて、果穂は我に返った。空耳かとも思った。ここでそんな名前で呼び方をする人に心当たりはない。呼ばれるとしたら、結婚後の姓の「室田さん」だ。
「こっちこっち」
隣から声が聞こえる。横を見ると一人の男性が果穂の方を見ていた。
「お久しぶりです」
そこにいたのは甥っ子の幸彦の友人の「佐々木くん」だった。隣に人がいるのは知っていた。ノートパソコンをテーブルに広げて作業していることも。でもまさか知り合いだとは思ってもみなかった。
「聞き覚えのある声が聞こえたから」
独り言を聞かれてしまった。果穂の顔は赤くなる。が、佐々木はそんな果穂の様子に気を留めることもなく、
「おめでとうございます」
と言った。
「結婚したのは幸彦から聞きました。赤ちゃんについては、いまさっき聞こえてきました」
屈託なく言って、佐々木が笑った。
「ありがとう」
果穂もつられて笑った。笑うと恥ずかしさが吹き飛んだ。
「佐々木くんは、もしかして、どこか悪いの?」
「どうしてですか?」
「ここ病院だから」
「ああ。俺、いま、ここで働いてるんです。看護師として。今日は午後から勤務なんですけど、ちょっと早く来てここで勉強してました」
いつか一緒に晩御飯を食べたときに、大学に入る前は看護師として働いていたと言っていたことを果穂は思い出した。また元の職業に戻ったのだ。どんな経緯があったのだろう。と、果穂が思いをめぐらせている間にも佐々木はどんどんしゃべっていく。
「俺、看護師やめて、普通の大学入ったのに、結局また看護師に戻ってきたんですよね。それってどうかなって思ったんだけど、俺的には結構ありだったというか、ようやく納得いったというか」
「うん」
と、果穂は力強い相槌を打った。ようやく佐々木が口をつぐんだ。
「いいと思う」
「本当?」
「うん」
「そっか。よかった」
果穂は続けて言おうとしていた言葉を飲み込んで、佐々木を見た。付け加えることはもう何もない。迷ったことも、寄り道したことも全部いまのあなたを形作っているなんて、空々しいセリフは彼には必要ない。
「果穂さんにそう言ってもらえると嬉しいな」
佐々木が笑った。その笑顔に果穂は自分の人生も肯定してもらった気がした。
東京から電車で一時間半。遠いとも近いともいえないところに、果穂の両親は住んでいる。前に訪れたのは結婚の報告をしたときだ。そして五か月前、妊娠がわかったときは電話で報告した。父は「そうか」と言い、母は「へえ」と言った。それだけだ。別に親子の仲が悪いわけではない。そういう人たちなのだ。大学教授と翻訳家の夫妻。マイペースで他人に関心がないが、他人どころか自分の娘にもあまり関心がないのかもしれない。
だが、果穂はいま、そんな両親宅に予告もせずに訪れようとしていた。病院を出て家に帰るのとは反対方向に歩いていき、電車に乗った。衝動的にこんなことをするのは果穂にとってはめずらしかった。病院で拍子抜けしたことや、看護師としてしっかり働いている佐々木に出会ったことが関係しているのかもしれない。予定にないことをしてみたくなったのだ。
どんな顔をされるのだろうと思いながら、ベルを鳴らした。誰も出ない。おかしい。もう一度鳴らす。音もしない。静かなままだ。
ふと郵便受けを見ると、チラシや手紙が受け口から大量にはみでていた。
(しまった、旅行中だ)
果穂は大きくため息をついた。
イタリア文学を研究している彼らは定期的にイタリアへ旅立つ。それを果穂も知っていたし、この時期だということもうっすらわかっていた。年に一度あるかないかの気まぐれを起こしてそれを決行したのに、あまりにもタイミングが悪すぎる。なんだか泣きたい気分だった。
帰ろう、と思って振り返ったら、タクシーが目の前に留まった。中から父母が降りてくる。
「ちょうどよかった」
と、果穂を見た母は言った。
「お土産、果穂に渡せるわ」
大きなスーツケースをゴロゴロと引きながら、部屋の鍵を開けて中に入っていく。
「ちょうどよかった。果穂、手伝え」
父が叫んでいる。タクシーのトランクから降ろした大量の荷物に囲まれて途方に暮れている。
(久しぶりに現れた娘を、ふたりして、ちょうどいいって……)
不機嫌な顔のひとつくらいしてみようかと思ったが、できなかった。この親たちにちょうどいいと言われるのは、案外悪くない気分だった。
胎児のエコー写真を見せると、果穂の父は意外にも興味を示した。そしてそのまま、ありがとうと自分の部屋に持ち帰ろうとしたので果穂は急いで写真を取り戻した。
「くれるんじゃないのか」
「見せただけ。一枚しかないのに」
「そうか……」
父は心から残念そうにつぶやくとリビングから消え、古めかしい一眼レフカメラを手に再び現れた。エコー写真をテーブルに置いて、撮影し始める。写真を立ててみたり、アングルを変えてみたり、試行錯誤している。それ、スキャンして送ろうか、と言いかけた果穂だったが、父が楽しそうだったのでやめた。孫が生まれたらカメラ小僧ならぬ、カメラじいじになるのだろう。
一方母は、エコー写真を見せると、なぜか赤ん坊の果穂の写真が大量に入ったアルバムを持ってきた。
「果穂だって可愛かったんだから」
果穂がちびこの自慢をするなら、自分だって我が子を自慢して対抗したいという論理らしい。
「ぽちゃぽちゃして目がぱっちりで本当に可愛いでしょ」
なんで自分の自慢を聞かされているのかわからないが、果穂はとりあえずうなずいて母の話につきあった。アルバムにいる母は、当時、二十八歳だったはずだ。今の果穂より年下だ。そして赤ん坊の果穂は母に抱かれているより、姉の腕の中にいることが多かった。母が撮影しているからだろう。母違いの姉は、果穂が生まれたときはもう十六歳だった。果穂がようやく十歳になったときにはもう二十六歳で、そのときに幸彦を産んでいる。
「お母さん、なんでわたしを産んだの?」
アルバムを見ながら唐突に果穂は聞いてみた。こういう質問は不意打ちがいい。本音が出る。ところが母の口からは迷いのない答えがすぐに返ってきた。
「あなたが生まれたがっていたからよ」
(わたしが……?)
果穂は絶句した。そう来たか、と思った。なんだか、ずるい。
「なんでわかったのよ」
「なんとなく。実際、生まれてよかったでしょ?」
自信たっぷりに答えられると何も言い返せない。母は楽しそうに笑いだした。
「果穂は今、何歳だっけ?」
「三十四」
母がなぜ笑っているのかわからないので、ふてくされたような返事になった。
「三十四か。せっかく考えておいたのに、三十四年間、出番がなかったのね。もう一生使わないかと思った。まだ覚えててよかった」
果穂は母を見てため息をついた。人間をひとりこの世に送り出すという責任の重さについて、三十四年前の母も同じように悩んでいたのだ。あなたが生まれたがっていたからよ、なんて、とてもじゃないけど果穂には言えそうにない。でも、生まれてきてよかったと思ってもらえるように全力を尽くしたい。それが母としての覚悟なのかもしれない、と果穂は思った。
(つづく)
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