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フィクションを書くことのメリット

 小説はフィクションの物語です。もっといえば、事実をそのまま書いたとしても小説として発表すればフィクションの物語として読まれます。私小説や誰かをモデルにした小説は限りなく事実に近いですし、多くの小説は作者自身の思想や経験がふんだんに混じっています。ですが、小説のなかに一部事実と違うことが書かれていたとしても、そのことに怒る人はいません。

 逆にノンフィクションと銘打ってあるものに事実ではないものが入りこんでいたら、作り手の信用問題に関わります。ニュースが間違っていたり、ルポルタージュの記事が捏造されていたりしたら、わたしたちは怒ります。看板に偽りありだからです。

 では、小説がフィクションの物語であることには、どういうメリットとデメリットがあるでしょうか。

 まずメリットは、自由に想像できることです。ノンフィクションだと現実に起こっていないことは書けませんが、小説は起こっていない出来事を書いたり、実在しない人物を生み出したりできます。人間が空を飛んだりタイムスリップしたりすることもできます。

 しかし、一番のメリットはフィクションであることにより、書かれた内容が書き手自身の考え・体験だとみなされないことだとわたしは考えています。もし、エッセイで「人を殺したい」と書いたら友達を失うかもしれませんが、小説の登場人物が「人を殺したい」と考えても作者の人格を疑われることはありません。また、口には出せない微妙な親との確執をエッセイで書けば、それを読んだ親も傷つき、周りから白い目で見られるかもしれませんが、物語のなかで形を変えて想いを書くことができれば、誰かを傷つけることなく多くの共感を得ることができます。

 わたしたちは多くの他人と社会を築いて暮らしていますから、周りの人に合わせて調和をはかることは大切です。心で思っていても口にしてはいけないことがたくさんあります。働きたくないなあ、とか。つらくて死んでしまいたい、とか。好きな人をひとりじめしたい、とか。憎らしいあいつがいなくなってくれないかなあ、とか。

 そのような感情は、口にしないだけで、誰の心にも湧いてきます。親しい友人にだけ愚痴をこぼすこともあると思いますが、友人にもいえない感情もやはりあると思います。そんな感情を抱えてしまうことに悩んでしまう人もいるかもしれません。

 人にいえないような、恥ずかしい、醜い、弱い、情けない感情をそのまま誰かに話したり文章に書いたりすれば、その人自身が恥ずかしい人だと思われてしまいます。ですが、フィクションの物語に昇華して書けば、どれだけ本音を書いても、その人自身の考え方と同じだとはみなされず、書き手は世間の視線から守られるのです。

 今まで読んだことのある小説を思い返してみてください。感動する言葉だけでなく、むしろ、暗くネガティブな言葉にはっとすることはなかったでしょうか。社会的には歓迎されない行動や考え方に、こっそりと共感したことはなかったでしょうか。そこには一番の親友でもいってくれないような、本音が書かれていたはずです。

 小説の書き手は、物語を紡ぐときに心が素っ裸になります。素っ裸どころか、内臓までさらしているような気持ちです。こんな状態で、ちょっとでも外部攻撃を受けたら死んでしまいますよね。でも、小説は、読者がフィクションとして読んでくれるという「お約束」があります。だから、内臓をさらすことができるのです。実際には「本当は作者のこと書いてるんでしょう?」って疑われたりしますが、そのときは涼しい顔で「違うよ」といえばいいのです。

 フィクションの物語には、社会的にこうあらねばならないという縛りを全部取り除いた作者の本当の姿がこめられています。嘘のはずなのに、現実よりも本当だなんて、面白いと思いませんか? さあ、勇気を出して、誰にも邪魔されない本当の気持ちを物語のなかに書いてみましょう。そして、それが伝わったときに、読者も「同じ気持ちが書いてある。自分だけじゃなかった」と救われることができるのです。

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 では、小説がフィクションであることのデメリットはなんでしょうか。次のページで見ていきます。

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