月野さんのギターkindle書影_大航海_

小説「月野さんのギター」第4章

 
 ナナミとのことをどうするか。一人でいくら考えたところで、結論は出そうになかった。そういえばナナミが何日に来るのか聞いていない。本当なら、明日までは東京で過ごしているはずだったから引越しのバイトは入れてないし、塾も休みだった。だから、いつでもいいよと答えたことは覚えている。
 まあいいや、どうするかは顔を見てから決めよう。俺は、またしても問題を先延ばしにして、そのまま眠った。

 チャイムの音で目が覚めた。どうせ新聞の勧誘かNHKか宗教団体かのどれかだろう、と思って、俺は無視していた。そうしたら、携帯電話が鳴り出した。携帯がナナミの声で、あーけーてー、と言った。それからドアがゴンゴンとたたかれた。


 寝ぐせで髪の毛が逆立って、しかもたぶん目やにがついている状態だったが、トランクス姿のまま、大あわてでドアを開けた。ナナミが立っていた。気に入っていつも着ているワンピースの上に、見たことのないスプリングコートをはおっていて、足元はブーツだった。


 ナナミは、寝ぼけ顔の俺を見て、にんまりと笑った。
「USJ、USJ」
「まじかよ」
 とりあえずナナミを部屋に入れると、俺は急いで支度を始める。時計を見たら七時半だった。夜行バスで来たのだ。それなのにナナミは少しも眠そうな様子を見せず、部屋を勝手に片付け始めている。皿やコップをさっさと洗っては、タオルで拭いて棚に戻している。
「いいよ、片付けは。夜行で疲れてるんだから、座ってなよ」
「座ったら寝るから、いや」
 寝てもいいじゃん、明日にしようよと俺が言っても、ナナミは聞かなかった。きっと明日になったら寝坊して、あさってにしようと言い出すんだから、と言われれば確かにそれがいつものパターンだった。そうやって結局、部屋でだらだらと過ごすことになって、カップルらしいデートをしたことはあまりなかった。


 カップルらしいデートか。東京のデートスポットを西山と回ったりしているんだろうか。それで俺とも行きたくなって、こんなふうにはしゃいで催促しているのだろうか。意地悪く勘ぐってみたが、てきぱきと部屋を片付けるナナミを見ていたら、どうでもよくなった。俺は十分で支度を整えた。そして服のダメ出しを受けて、もう一度着替えて、計十五分で支度を終えて部屋を出た。


「で、USJってどこにあるの」
 俺が訊くと、信じられないとナナミは眉をひそめた。関西に来てもうすぐ一年経つくせに。俺はお前みたいにデートする相手が近くにいないからな、と思った。いちいち心の中で嫌味を言う自分がちっちゃくて情けなかった。


 ナナミは、じゃーん、と言いながらカバンから小さな本を取り出した。表紙にはUSJ攻略ブックと書いてあった。俺は笑った。
「ちょっと気合入りすぎだって」
 げらげらと笑う俺の横で、ナナミは携帯を操作して交通機関の乗り継ぎを確認し、よし間に合うとつぶやいた。開園時間を目指しているらしかった。
「行くよ、真」
 ナナミが俺の手をにぎった。やわらかくて、ひんやりとしていた。この手をほかのやつがにぎるなんて、やっぱり嫌だな、と俺は思いながら、その小さな手を強くにぎり返した。並んで歩く。もう一度強くにぎると、すたすたと歩いていたナナミが足を止めて振り返った。目が合う。微笑みあう。


 ナナミの指示で電車をせっせと乗り換えながら、何とか開園前に到着した。USJの入り口には列が何列もできていた。意欲をなくしかける俺の手を引っぱって、こんなもんこんなもんとナナミは唱えながら、列の最後尾につく。背後では、でっかい地球が水しぶきを上げながら回っていた。列に納まっていられない子供が、はしゃいで走りまわっていた。肌寒かったけれど、天気はすこぶるよかった。俺たちの後ろに並んでいたアジア系の団体が、異国の言葉で楽しそうにしゃべり始める。俺のテンションは少しずつ上がっていく。ナナミは、あちこち見回しながらしゃべりつづけていたが、ふいに俺を見て「あ」と驚いた顔をした。
「熱出してたんだっけ。大丈夫?」
 あ、と俺も思った。そういえば忘れていた。大丈夫大丈夫と言いながら、嘘がばれたかとひやりとしたが、ナナミは「じゃあよかった」と笑って、またおしゃべりに戻っただけだった。


 ナナミはいつもと変わらず元気で明るかった。当たり前だった。西山といつからそういうことになってるのか知らないけれど、今までだってナナミの「いつも」には、すでに西山の影があったわけだ。俺が目撃したことを知らないナナミが「いつもどおり」なのは当然のことだった。引きずられるように、俺もいつもと同じようにナナミに接していた。こんな無邪気な彼女を前にして、違う態度なんて取りようもなかったし、人が多いし値段が高いからと敬遠していたUSJは、かなり楽しかった。大口開けて、わーとかぎゃーとか叫んで大笑いしたのはいつぶりだろう、と思った。


 土産物屋に入ったナナミが、E.T.のぬいぐるみを俺の目の前に見せて言った。
「これ買って。ホワイトデー、どうせまだ考えてもないんでしょ」
 そのとおりだった。
 本物のE.T.も可愛いとは言いがたいが、それを忠実に再現したそのぬいぐるみは、はっきりいって家に置きたくない代物だった。魔よけにならいいかもしれない。もうちょっと可愛くデフォルメされたE.T.人形も並んでいたので、俺はそっちにしようと提案してみる。でもナナミは、これがいいとゆずらない。


「だって真に似てるもん」
「まじで」
「ほら目がおっきいとことか、首のとことか、猫背のとことか」
「俺、オウチカエル」
わたしも帰る、とナナミは無邪気に言った。結局買わされたE.T.人形を持って、俺たちはUSJを出た。


 テーマパークの外に出ても、派手な浮かれた建物が続いていた。俺たちはその中の適当な店を選んで、たこ焼きを食べたりラーメンを食べたりして腹を満たした。


 電車に揺られて京都に戻ったら、もう二十二時だった。京都駅のバス停には長い列ができていた。
「で、いつ帰るの?」
 と、俺は訊いた。日が暮れると凍るような寒さだった。スプリングコートのナナミは小さく震えた。俺は震えるナナミを見ていた。いつものように抱きよせたりせずに、ただ眺めていた。
「明日」
「明日? 何時?」
「夕方からバイトだから、それまでに新幹線で帰る」


 俺が電話に出なかったから、直接会いに行こうと思って、あとのことを考えずにバスの予約を取ったらしい。予約が完了したあとに真から電話があったんだけど、今さらキャンセルするのもめんどくさかったし、真の顔見たかったし、とナナミは言った。
「電話が通じないから会いに行くって、お前なに時代の人?」
 あきれて大きな声が出てしまった。ナナミが照れたように笑った。一刻も早く会いたいと思って新幹線に飛び乗った俺と同じくらい、馬鹿だと思った。息が苦しくなって、ごまかすためにナナミの腰に手を回して抱きよせた。


 ようやくやってきたバスに乗りこんだ。乗ってすぐはぎゅうぎゅうだったが、祇園を過ぎると席に座れた。座って数分もしないうちに、ナナミは寝息をたて始めた。肩に頭がそっと載せられた。香水なのかシャンプーなのか分からないけれど、かすかに花の匂いがした。触れあっている部分が温かかった。やわらかい髪の毛が俺の頬をそっとなでた。俺はナナミが寝やすいように姿勢を変えて、頭が安定するようにしてやって、窓の外を眺めていた。


 すべてが演技だとは、とうてい思えなかった。俺のことを好きだということを、疑う余地はなかった。じゃあ、西山のことも好きというのは本当だろうか。起こして訊いてみたかった。両方好きだなんて、そんなことはあり得るのだろうか。西山の狂言だったとしたらどうだろう。俺が見たのは、たとえば酔っぱらったナナミについ魔が差して起きてしまったことで、本当は西山が一方的に想ってるだけで、俺と不和を起こすために嘘をついたのだとしたら? でも、あの電話の声が演技や計算されたものだとはどうしても思えなかった。やつともそれなりにつきあいが長いのだ、なんて考える俺はお人よしなのかもしれないけれど。


 どちらにしても、あんなことが二度とないように釘を刺す権利が俺にはあるはずだった。でも俺は、それをためらっていた。今、俺とナナミの間は奇妙な平衡状態にあるように思えた。それをくずしたとしたら、どうなるか予想がつかなかった。


 遠距離恋愛を始めてしばらくは、電話ごしにナナミはよく泣いていた。夜中に突然電話がかかってきて、今から来てと言われてなだめたりすることもしょっちゅうだった。バイトで疲れて帰ってきて、ナナミの電話につかまって、ようやく眠れると思ったら朝で、げっそりしたまま授業に出る。バイトをしなければ東京まで会いに行く資金は作れないし、電話代もかかった。当然、犠牲になるのは授業で、俺は何のために大学に来ているのだろうとうんざりした。もう別れようという言葉が喉もとまで出たこともあった。でも別れたあと、ナナミがどうなってしまうか考えると、恐ろしくて言いだせなかった。


 こんなふうに明るいナナミになったのは、昨年の秋くらいからだった。毎晩電話をかける必要もなくなったし、電話をかけたときは、いつも楽しい話ばかりをして笑いあえた。せっかく会いに行ったのに一日中泣きっぱなしなんてことはなくなった。ようやく遠恋のコツがつかめたのだと思った。俺たちはうまくやっていると。俺は、毎日顔を合わせていた予備校時代と同じように、ナナミがいとおしかった。でも、うまく行き始めたのは、もしかしたら西山のおかげだったのかもしれない。


 部屋に着いて、風呂にも入らずにセックスをした。この間の光景がちらついて、俺は裸のナナミを乱暴に扱った。どんなに強く乳房をつかんでも、足を広げて腰をこすりつけても、弾力のある白い体は俺を優しく受け入れる。西山と俺とどっちがいいんだよ、と俺はナナミの体に尋ねる。体は答えない。答える言葉を持たない。言葉がいらないからセックスは気持がいいのだと気づいたころには、俺の頭はもう空っぽだった。感触だけを夢中でむさぼっていた。


 終わったあと、ふと思いついて、ナナミの鎖骨と乳房の間に唇を押しつけて強く吸った。顔を離すと、白い皮膚の上に赤黒いあざが浮かび上がった。きっと一週間は消えないだろう。反応を見るために俺はナナミの顔をのぞきこむ。ナナミはキスマークを指でそっとなでると、にっこりと笑って、うれしいと言った。


 次の日、近所の南米料理屋でタコスランチを食ってから、バス停までナナミを送っていった。昨日の肌寒さが嘘みたいに、ぽかぽかした陽気だった。木蓮が大量に咲いていて、細い枝が重そうにしなっていた。まるで羽を閉じた白い鳥が、たくさんとまっているようだった。


 店からバス停までのわずかな距離を、手をつないで歩いた。バス停に着いてからも、手を離さなかった。バスはなかなかこなかった。京都って意外に田舎でのんびりしてるんだよな、と俺が代わりに弁解すると、こうやって待ってるほうが一緒に長くいられていいよ、とナナミは笑った。


「東京に帰したくないな」
「そういうこと言うの初めてだね」
 ナナミが俺を見て、はっきりとそう発音した。俺は、うろたえた。
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ」
「いつもそう思ってるよ」
 ナナミは黙った。きゅっと結んだ口で、俺を責めていた。


 俺のことが好きなら、西山とそんなふうに会うのをやめろよ。俺はそのセリフを頭の中で何回も練習した。代わりをさせられている西山だって、かわいそうだ。だけどそんなことを言って、俺に責任が取れるのだろうか。足りない部分を俺が埋めてやると言えるのだろうか。


 バスがやってきた。ナナミが手をぎゅっと強くにぎって、好きだよと言った。俺も、と、ささやく。晴れ晴れとした顔で手を離し、ナナミはバスに乗りこんだ。座席に座れた彼女は、窓のところにE.T.人形をくっつけて、バイバイと手を動かした。俺も手を振る。バスが車体を揺らしながら、ゆっくりと去っていった。


 急いで帰るには、もったいない陽気だった。ぶらぶらと歩きながら帰っていく。結局俺は、あの夜について何も言わなかった。先延ばしにした結論は、さらに先延ばしにされてしまった。


 空を仰ぐ。晴れていたが、青とも灰ともつかない、くすんだどっちつかずの色をしていた。東京に戻ったナナミは、西山とまた会うのだろうか。両方を好きだなんて、あり得るのだろうか。


ふと、小さな本屋に目をやると、結婚情報誌のポスターが貼ってあった。ダブルハッピーウェディングという文句に、何事かと思って立ち止まる。お腹の目立たないドレスの特集? どうやらできちゃった婚のことらしい。物は言いようだ、と俺は苦笑いした。両方好きだなんて、いわゆるふた股というやつだけど、物は言いようを応用すれば、同時進行の恋だとも言える。ナナミは二人の男と同時に恋をしているだけなんだ。


 はたして同時に恋を進めることなんて、できるんだろうか。


 コンビニで牛乳とチョコレートを買って、部屋に帰った。ドアを開けると、整然と片付いた部屋が俺を待っていた。床一面に散らかっていた紙や本は、まとめて隅っこに積み上げられ、久しぶりにフローリングの木目が見えていた。服はたたんで置いてあるし、流しに積みあがっていた食器類も片付いていた。ぱんぱんに膨らんだゴミ袋が二つ、増えていた。その中にはカップラーメンやコンビニ弁当の容器やら、ティッシュペーパーやらが、いっぱいに詰まっていた。


 またたいていたはずの照明も煌々と部屋を照らしていた。そういえば、朝、俺より先に起きたナナミがごそごそやっていたけれど、いつの間にか蛍光灯まで買ってきて換えたらしい。
 俺がナナミの体に印を残したように、ナナミも俺の部屋に印を刻んで帰っていく。片付いた部屋は気持がよかった。久しぶりに人間らしい心地がした。でも、同時に体の中が空っぽになったような、空腹に似たさみしさも感じた。


 パックに口をつけて牛乳を飲むと、冷蔵庫にしまう。ぴかぴかの流しに背を向けて、俺は落ち着かないまま、部屋を歩き回る。
 本棚の奥からテープレコーダーを取り出した。テープを巻き戻して再生ボタンを押す。ギターが流れ始める。月野さんが俺の部屋で歌い始める。俺はそれを聞くと、心臓が締めつけられて息も苦しくなる。でも、聞かずにはいられない。


 ベッドに倒れこむ。うつぶせになると、ナナミの髪の匂いが残っていた。ジーンズのジッパーに手を伸ばす。昨夜のことを思い出しているはずが、気がつくといつの間にか顔をゆがめて喘いでいるのは月野さんだった。俺って最低だなと思えば思うほど興奮してすぐにいった。始末をつけてベッドに寝転がった。汚された部屋が、少しだけ俺のところに歩みよってきた。


 そのまま、仰向けになって天井を見つめながら、俺は、ある決心を固めた。ナナミを見送ったあと、何度も頭の中で繰り返し考えてきたことだった。いや、東京で二人を目撃した瞬間に、俺はそれをやろうと決めていたのかもしれない。


 恋は、ある種の化学反応と同じだ。一度好きだと思ってしまったら、もう反応は止まらない。好きになるほうへ進むばかりで、いくら距離を取って忘れようとしても、理性に訴えてみても、少しも嫌いになれない。せいぜい、好きだと思ったその状態で停止する程度だ。しかもこの反応は、立場も都合も、まったく無視してくれる。相手に恋人がいることも自分に恋人がいることも考慮に入れてくれない。体の中に飢えた獣を飼っているようなものだ。そんな獣をどうやって止めればいいんだろう?


 経験上、たった一つだけ獣を鎮める方法を俺は知っていた。胸に隠していた醜い獣を相手の前にさらけ出して、相手の手によって、なるべく残虐に殺してもらう。獣は、恋の相手には従順で抵抗できないから、簡単なことだ。完全にその恋が壊れて絶望してしまえば、獣は二度と吠えなくなる。


 簡単に言うと、俺が決めたこととは、月野さんに告白し、決定的に失恋をすることだった。

(つづく)

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