【短編小説】土のうつわ-1

 帯に書かれたそのキャッチフレーズを、わたしは小さな声で読み上げる。『米谷瑞穂のおいしい家庭料理』というタイトルの下で、瑞穂は、両手で鍋を持って立ち、カメラに向かって笑っている。白を基調にしたカントリー調の台所。この写真を見た人は、瑞穂の料理を楽しみに待っている幸福な家族を思い浮かべるだろう。
――おいしい料理はひとを幸せにする。
 ひととおりぱらぱらとめくってから、本を飾り棚に戻す。視線を店内にめぐらせる。
 隣のテーブルでは、女ふたりが向かいあって瑞穂の料理を食べていた。わたしと同じくらいの年齢だろうか。ひとりは長い髪をゆるくサイドで束ね、ひとりは頭の高いところで小さくまとめている。化粧も服も爪もアクセサリーも、隅々まで注意が行き届き、精巧な細工のように美しく整えられているのに、次々と食物を口にくわえこみ、口を動かして咀嚼し続ける彼女たちは、どうしようもなくだらしない。幸せそうに細められた目。ゆがんだ唇。その奥の闇。人はどうして、食べているときはこんなにも無防備になるのだろう。
 ここは、料理研究家でありわたしの母でもある米谷瑞穂がプロデュースした家庭料理の店だ。すべての料理を米谷瑞穂が監修し、プロのシェフに作らせている。しゃれたカフェか気楽なレストランのような垢抜けた空間で、体にもいいおいしい家庭料理を食べさせる店として人気を集めており、ランチのときには行列ができるし、週末は予約を取らないと入れない。
 店内にいるほとんどの客は、米谷瑞穂の熱狂的なファンだ。瑞穂の作る家庭料理に憧れ、それを食べにやってくる。
 バッグからシガレットケースを取り出して、一本くわえる。ライターを探すためにうつむくと、髪の毛がさらさらと流れてきて、煙草に当たった。普段は、邪魔にならないように縛っているのに。耳にかける。隣の女たちの耳で、光を反射する金属が揺れているのを見て、自分がピアスもネックレスも指輪もつけていないことに、初めて気がつく。久しぶりに東京に出てきたから、それなりに装ったつもりだったけれど、明らかにわたしは浮いている。ひとり、土の匂いを発している。
「申し訳ございませんが、お客様」
 顔を上げると、やせた女の店員がわたしに微笑みかけていた。

「当店では、料理の香りや味を楽しんでいただくために、禁煙とさせていただいております」
 煙草をくわえたままで、店員の顔を眺める。化粧気のない、二十代前半の女だ。この慇懃な言い回しは、瑞穂が仕込んだものだろうか。
「じゃあ、煙は出さないわ」
 店員は何かを言いかけた唇を引き結び、失礼しました、とお辞儀をした。そして、顔を上げた瞬間、わたしをにらみ、背を向けた。
 くわえていた煙草をケースに戻して、箸を取る。テーブルに並べられた料理はすべて、乳白色の薄手の陶器に収まっている。有名ブランドの量産品だ。料理人の意図に従順で、食べる人たちを圧倒しない、真っ白なキャンバスに料理がそっと鎮座する。飴色の大根。豚肉のソテー。五穀ご飯。煮豆。味噌汁。
 大根を口に入れる。噛み砕き舌を動かす。あごを運動させる。喉を動かして飲み下す。なつかしい、と、わたしは思った。瑞穂の料理を食べたのは十年ぶりだった。米谷瑞穂が料理研究家なんて名乗る前から、わたしはこの料理を知っている。でも、わたしには、この料理がおいしいのかどうか、分からない。料理の香りや味を楽しんでいただくために、という店員の声を頭の中で再生させる。残念だけど、煙があろうがなかろうが、わたしは料理の味を楽しむことができないの、と言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
 突然、味が分からなくなったのは、十度目の転校をした中学二年生のときだった。感じられるのは、冷たいとか熱いとか痛いとか、そういう感覚だけだった。何を口に入れても、物理的な刺激に還元される。
 今まで知っていた食べ物が、プラスチックか金属の得体の知れない塊に思えて、ものを飲みこむのが恐くなった。おいしくない、とわたしが言うと、瑞穂は静かに腹をたてた。反抗期の一種だととらえたのだ。食事を残しても放っておかれた。お腹が空けば嫌でも食べるでしょう、とも言われた。でも、異物を取りこむ恐怖に向き合うより、空腹でいる方が、よほどましだった。そのうち、倒れて入院するはめになった。病院食でもわたしが同じ態度を示してようやく、瑞穂はわたしの言葉を信じてくれた。
 舌の上にいろいろな薬品を落とされた。わたしが味を言い当てれば言い当てるほど、隣に立つ瑞穂の横顔は厳しくなった。
「味覚自体に異常はありません。何か心理的なものかもしれません。心当たりはありませんか?」
 瑞穂は医師を冷たい目で一瞥し、
「心当たりなんて、ありません」
 と、言った。
「ご家庭のことだけじゃなく、学校で何かつらいことがあったとか」
 顔を覗きこむ医師に向かって、わたしも、ありません、と答える。つらいことなど何もない。学校では害のない転校生として、周りから浮かないように、気配を殺して過ごしている。
「お金だけ取って何も分からないなんて、馬鹿にしてるわ」
 瑞穂は憤慨し、車の中で汚い言葉をまき散らした。わたしは、ただ真面目な顔をして聞いていた。もし、そのとき、わたしたちの車を見た人がいれば、母親が娘に何か大切なことを諭しているように見えただろう。
 以来、わたしは食事を残さないように努力した。おいしさという報酬がなければ、食べると言う行為は、単調で繰り返しの多い苦行だった。毎日毎日こなさなくてはいけないつらい業務だった。
 それは二九歳になった今でも変わらない。
 すべての皿を空にして、義務を果たしたわたしは立ち上がる。
 レジには先ほどの若い店員が待っていた。整った声で金額を読み上げ、ありがとうございましたと言いながら、むき出しの憎しみを体中から発し、それを隠そうとしない。怒っているのだろう。自分たちの店の料理がこんなふうに扱われるなんて屈辱だ、と。吐き出せばいいのに、と、わたしは思う。若いときの瑞穂のように。わたしはそれを受け止めるから。
 店の外には相変わらず、順番を待つ人の長い列があった。入り口にも瑞穂の本が展示されている。写真の中の瑞穂は幸せそうに、わたしではない誰かに笑いかけている。
 店いっぱいに埋まっていた彼女の客たちを思い浮かべて、わたしは微笑み返す。おいしいと顔をほころばせて笑っていた彼らこそ、瑞穂がようやく得た新しい娘たちなのだ。よかった、と、わたしは心から思った。
(2へつづく)

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