第17話 開拓とハンバーグ|2018年5月

 駅から少し離れたところにあるマンションの小さな一室が、果穂の運営するリフレクソロジーのサロンである。突然訪れられても対応ができないため、詳しい住所はサイトやパンフレットには載せていない。予約をしてくれた人にだけ案内するシステムだ。
 結婚して二人で住む部屋を借りたので、果穂が住んでいたこの部屋はサロン専用になり、前より広々と使えるようになった。とはいえ、ひとりでやっているので、一回に一人しか施術を行えない。一日あたり、多くて四人の枠は、ありがたいことにいつも予約で埋まっている。サロンを開いて四年目、特に宣伝もしなかった。ただ目の前のお客さんに一生懸命に施術していたら、口コミで広がっていった。初めてのお客さんも時々来るが、たいてい常連の誰かの紹介だ。
 パソコンを立ち上げ、ウェブ経由で記入された申込書を印刷する。
(有田美鈴。四六歳。知人の紹介。誰の紹介かは書かれていない……か)
 これだけでは、どんな人かわからないが、果穂の胸の中は心地よい緊張感と楽しみな気持ちでいっぱいになっていた。
 リフレクソロジーを始める前、果穂は人に会うことが苦痛だった。果穂はいつでも美人で優秀なしっかりものとして扱われ、果穂自身もその期待に添うようにふるまった。でも、人の目に映る自分の姿を果穂は好きになれなかった。だからいつでも人といると、サイズの合わない服を無理矢理着せられているようで居心地が悪く、早くひとりになりたかった。
 今は、そんなふうに果穂を見る人はいない。サロンに来る人は癒されに来る人たちで、リフレクソロジストとしての果穂を信頼してくれている。着心地のいい服を着ているように、果穂は、リフレクソロジストの自分を気に入っている。
 予約の時間より十五分早く、有田さんは現れた。上品なロング丈のワンピースに、薄い麻のカーディガンを羽織っている。外が暑かったのだろう。頬が紅潮し、しっかりとメイクした額に汗がにじんでいた。
 果穂は有田さんに座ってもらうと、今年初のクーラーをつけた。
「マッサージなんて初めてだから緊張してたけど、何だか、お友達のおうちにお呼ばれしたみたい」
 果穂の出した冷たいハト麦茶を美味しそうに飲みながら、有田さんは言った。明るくて率直で何の警戒心もない声だった。果穂は動揺して、うまく言葉が出なかった。このサロンを続けて、いつかは、お客さんに友人の家に招かれたみたいにリラックスしてもらえたらいいなと思っていたのに、初めて来た人に開口一番に言われたからだ。
「お友達って言うには、ちょっと年が違いすぎてずうずうしいわね」
「そんなことないです。そう思ってもらえたら、とても嬉しいです」
「そう?」
 有田さんは屈託なく笑った。果穂も笑った。嬉しさがじわじわと湧いてくる。
 黙って施術を受けたい人と、おしゃべりしながら楽しむ人がいるが、有田さんは後者だった。果穂が会社員をやめてこの仕事を始めたことを知ると、強く興味を持って、あれこれ聞きたがった。
「人生っていつからでもやり直せるのね」
 と、有田さんは言った。
「そうですね。会社辞めるときはやり直すって思ってたんです。でも、今は『やり直す』という感じとは、ちょっと違う感じがしています」
「どんなふうに?」
「それまでは人生は一本の道のようなイメージで、一つの道をやめたら、やり直しで新たにスタートするという感覚だったんです。でも、今は道じゃなくて新たな土地を開拓するイメージです。会社員をしてるときは会社員という土地を耕して発展させていたけれど、リフレクソロジストになった今は、ちょっと離れた場所に移動して新たな土地を開拓している感じなんです。途中まで開拓した『会社員の街』はそのまま自分の中に残っていて、それがあるからわかることもあって、世界観が広がっていくというか……」
 話しながら果穂は自分の饒舌さに驚いていた。同時に、自分がこんなことを考えていたことにも驚いていた。誰にも話したことがないし、言葉にして考えたこともなかった。
 有田さんの返事がないので、果穂は一人でしゃべりすぎたのかと心配になった。
「あの……」
「最近、私、環境が大きく変わって……」
 有田さんがポツリと言った。
「ちょっと不安だったけど、今のあなたの話を聞いて、これからのことが楽しみになったわ。ありがとう」
「いえ、語ってしまって、すみません……」
 少女みたいに微笑む有田さんを見て、果穂は照れくさくなった。有田さんの足に目を落とし、指先に神経を集中させる。
「なんだか旅に出たくなったわ。娘と二人で。ひとり旅もいいな」
 そう言って有田さんは気持ちよさそうに目をつむった。
甲本結季からメールが来たのは、果穂がサロンを出て家にたどり着いたときだった。
『お母さん、すごく喜んでた。気持ちよかったし、いい話聞かせてもらったって』
 果穂はため息をついた。
——ここに来たのは娘のプレゼントなの。この春就職して、初めての給料で。予約もとってくれたのよ。
 予約コースのお代が入っているという可愛らしい封筒を、果穂は両手で大切に受け取った。有田さんの娘にあたるような若い客はひとりしかいなかった。
『離婚したの?』
『うん。でも果穂さんのせいじゃないから、気にしないでいいよ』
(気にするよ……)
 果穂は頭を抱えて、もう一度深々とため息をついた。結季に他意はない。ちょっとどこかずれている。
『お母さんのことは、わたしが幸せにするから大丈夫』
 珍しく絵文字の入ったテンションの高いメールだった。
『よろしくお願いします』
 祈るような気持ちで送ると、親指を立てたマークが返ってきた。

 料理の下ごしらえを終えて、果穂は時計を見た。今日は剛が会社の後輩を家に連れて来る日だった。剛が会社員だということが未だに信じられない果穂は、自分が会社員の妻であることも、どこか「ごっこ遊び」みたいな気分でいた。でも、どうせなら、ごっこ遊びを楽しみたい。会社の人に手料理をふるまうという一大イベントに果穂は張り切っていた。
 お酒を飲むタイプならツマミになるようなものを作るし、一人暮らしなら野菜たっぷりの料理にしようと思ったのに、剛は相手の暮らしっぷりを知らないと言う。じゃあちょっと聞いてみてよとうながしても、現代っ子の私生活に干渉しすぎると嫌われると返された。それならそもそも自宅に招くのもやめたほうがいいのではないか、と言いかけたが、
「いつも通りでいいよ。果穂の得意なもので。ほら、ハンバーグとか」
と剛が言うので、しぶしぶ納得してメイン料理はハンバーグに決めた。
 駅に着いたというメールが来て、果穂は緊張して立ち上がった。リフレクソロジストとしてお客さんに会うことは慣れても、妻として会社の人に会うのは初めてだった。いつも通りでいいよと言われていても、やはり失礼があってはいけないと気合が入ってしまう。
(やっぱり最初は、うちの主人がお世話になってます、かな。でも、ゴウ君、主人って柄じゃないしなあ……)
 ガチャリとドアが開いた。剛の顔が覗く。
 果穂は精一杯とりすまして、剛の後ろにいる会社の後輩にあいさつをした。
「初めまして。室田の妻です。夫がいつもお世話になっています」
(完璧……)
 と、思って顔を上げた果穂は、ぎゃーっと悲鳴をあげた。
「あ、どうも……」
 そこに立っていたのは、甥の幸彦だった。

 幸彦の内定が決まったのは去年の秋だったが、この日のこの瞬間のために剛から口止めされていた。人妻っぽい果穂を見たい、だけど他人に見せたくないというなんだかよくわからない室田の欲望に、幸彦は付き合わされたのだ。幸彦も室田と同じ会社に入ることを果穂に言いにくかったので、黙っていた。おかげで詐欺の片棒を担ぐはめになった。後ろめたいことこの上ない。
「おいしいなあ、このハンバーグ!」
 場をとりなすために幸彦は心をこめて言ってみた。
「ほら、言っただろう? ハンバーグでいいって」
「ゆきちゃんだとわかっていたら、こんなに気合い入れて作らなかったのに」
(それはひどい)
 ハンバーグをほおばりながら、幸彦は二人を見比べた。室田は心から楽しそうに笑っている。果穂はぷんぷん怒っているが、今まで見た果穂の中で一番元気そうだった。会社員の妻の果穂より、こっちのほうが珍しいと、幸彦は思った。

(つづく)
初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2018年5月号

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寒竹泉美

【連載小説】ちょうどよいふたり

日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」で連載中の連作短編小説です。1年に3話更新されます。作中の人物も4カ月ごとに成長していきます。
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