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文章描写こそ小説の味わい

小説の味わいを演出するのに欠かせないのが文章描写です。描写なんて読むのも書くのもまどろっこしいと思う人もいるかもしれませんが、描写がなければ、小説がほかの分野のエンターテインメント作品に勝てる要素はないとわたしは思うのです。小説を書き始めの人は、セリフの羅列になったり誰が何をしたという説明だけの文章になってしまいがちです。脚本のようなのです。しかし、脚本は絵や演技や映像や音楽が合わさって初めて一つの作品になります。脚本のようなものを小説作品とするのは、ただの手抜きです。絵や俳優さんの演技や映像や音楽がかもしだす味わいを、文章だけでやろうとするエンターテインメント、もしくは芸術。それが小説です。


演劇は何か月も稽古しますし、映画はお金をかけて手間暇かけて撮影して編集します。文章描写はそれに対抗する手段なのですから、そりゃ、大変だし面倒くさいです。受け取る側も、映像や音楽なら受動的に見ていても入ってきますが、文章描写は自分の頭で想像しなくてはいけないのでやっぱり面倒くさいです。どう考えても小説はほかのエンターテインメントに勝てそうにありませんが、小説にしかできないことがあります。文章ならどんなことでも書けます。物理法則に反して映像や舞台では表せないことも詳細に書けます。お金もかかりません。うまく想像力をかきたてる文章を紡ぐことができたら、それぞれの読者にとって最上のものをこの世に現すこともできます。

この記事では、わたしが普段使っている文章描写の技の一部を紹介します。

まず、「 」でくくられたセリフ以外の文章を地の文と呼びます。一人称と三人称の定義は大丈夫でしょうか。一人称は主人公が主人公目線で「私は」「俺は」と語る文章です。三人称は「男は」「山田太郎は」「秋子は」と外側から登場人物を語る文章です。

一人称の小説の場合、地の文は主人公の心の状態と五感と価値観を反映したものになります。描写は主人公ごとに変わってきます。たとえば、主人公がファッションに関心の強い女性なら、出会った人の洋服を事細かにブランド名を挙げて描写するでしょうが、まったくファッションに疎い興味のない主人公なら派手な服を着ているとひとことで済ませてしまうでしょう。

つまり一人称では、地の文で主人公の人柄や生い立ちや価値観を伝えることができるのです。ただ誰が何したという情報を提供するだけではないのです。

一人称の視点は主人公の目なので、主人公から見えないところを書くことはできません。一方、三人称の場合は、視点はどこに置いても基本的に自由です。映画を撮るように、はるか上空から森の様子を説明してもいいわけです(基本的にと書いたのは、規則性がわからないくらいあちこちに移動したら読者がついていけなくなるので、なるべく一定のルールに沿う方がよく、結果的にあまり自由ではなくなるからです)。映画監督になったつもりで、何のシーンから始めてどんなカメラワークをしたら読者の心を掴み、物語を伝えられるか、考えてみてください。

小説の文章はただの説明文ではありません。一文に何種類もの機能や効果がつめこまれています。ビジネス文章や論文などでは、簡潔に情報を正しく伝えることが求められますが、小説の文章は情報を伝えることはもちろん、読んで味わうためのものでもあるのです。ですから、わたしの場合、小説を書くときは、ほかのジャンルの文章を書くときの10倍くらい時間がかかります。何を書くか悩み、どうやって書くかを悩み、どんな言葉で書くかを悩み、どんな順で書くかを悩み、書き上げたものをブラッシュアップするにはどうすればよいか悩むからです。

小説の描写は難しいし時間がかかるし、なかなかできないのが当たり前です。文章を書くのは得意と思っていた人も、それまで書いてきた文章と小説の文章はまったく違うのです。A地点からB地点まで歩いて移動することはできるけれど、美しく華麗に観客を魅了しながら移動しろといわれたら、いきなりはできないでしょう。

わたしも小説を書くたびに、どうやって書けばいいのかわからなくて絶望します。うんうんうなって試行錯誤するその過程で小説を書く力は身についていきますので、自分には才能がないのだと悲観せず、あきらめず、一つ一つ書いていきましょう。

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