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わたしと音楽


 

 音楽というものは、誰かにとっては金塊よりも価値のあるもので、また他の誰かにとってはごみくずと一緒だ、と、どこかのロックスターが言っていた。  

 たしかにそうだ。もし、わたしがこれまでの生活の中で集め、愛で、何度も繰り返し聴いてきた音楽たちを、もう二度と聴けなくなる代わりに世界中の金塊をやると言われたとしたら、わたしはその提案をしてきたやつを延々と殴り続けるだろう。

 

 狂っているだろうか。音楽とは人を聖人にも狂人にも凡人にもする、そういった力がある。その音楽の「力」と言うものは、体系づけて、理論として考え、理解しようとするととたんにその無限の輝きを失って、それこそ「ごみくず」に成り下がってしまう気がすることがあるのだ。  

 

 例えばジャズについて「抑圧された黒人たち」を軸に考えようとする。そうするとすぐに、マイルス・デイヴィスが立ちはだかる。彼は裕福な家庭に育っていて、しかしそれでも「王朝」を築いた。

一方でロックに注目すると、エルヴィスの「反骨」イメージはまったく副次的であるのに、反体制であることにこだわり、売れたからもうロックはできないとショットガンを咥えて死んだカート・コバーンがいる。

 わたしにとって、どうにも音楽は、ピカソの『泣く女』みたいな存在だ。

 

 

 それでいて、理解を放棄して、本能的に感じるだけで音楽を楽しめるかといえば、全くそうではないとおもう。デヴィッド・ボウイ。ブラック・スターとなったレジェンド。ジギスターダスト。アラジン・セイン。痩せた青白い公爵。まさに『泣く女』だ。

 

 たしかに彼の輝きは永遠で、それを否定するつもりはない。けれどある時まで、彼の音楽はわたしによそよそしかったashes to ashesのリフのかっこよさを「感じる」ことができなかったのだ。

 

 ボウイが突然わたしのもとにやってきたのは、彼の回顧展に行ったときだ。わたしはこの回顧展に、クラウス・ノミ目当てで行っていた。果たして他にそんなやつがいたのかは謎だが、ボウイ本人以外で唯一、ノミの奇妙なLPジャケットが掲げられ、『地球を売った男』のTVパフォーマンスで、コーラスのノミがボウイ以上に目立つ様がリピートされていたのが、まるで自分の事のように嬉しかった。

 

 ほかの客にとっては「ボウイのまわりに一瞬いた変なやつ」だったかもしれない。それでもノミはわたしのロックスターだ。

 

 話がそれたが、回顧展から出て帰り道に、『火星の生活』を聴いた。それはある種革命だった。ボウイのすべてを理解した、と言い放ったら、方方から批難を受けそうだが、そのときのわたしはそんな気がしていた。回顧展で何かピンときたわけでもないのに突然、だ。そして帰り道は延々と『火星の生活』だけを繰り返し聴いていた。

 

 その日の夜、一生ボウイを聴き続けるんだなと確信した。窓から見える星々がいつもより明るく見えた。

 

 理解し、感じ取ろうとすると、そのときどきでさまざまな表情をみせ、音楽というものを理解するのが、まるで愚かな行為であるかのように思うときもある。けれども音楽をきくこと、考えること、感じることが楽しくて仕方がないから、わたしはこれからも音楽に浸り続けるだろう。いつまでたっても自分のものにはならないからこそ、無限の輝きをわたしに感じさせるのだ。

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doukin

酒とバラの日々を気取っても、実情は半ば世捨て人。白黒映画の彼にあこがれ、タイプライター代わりのキーボードに向かう。
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