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村上春樹『アフターダーク』


エドワード・ホッパーの絵みたいな小説だ。村上春樹はいつもわたしの興味の先にいた。ギャツビー、ホッパー、モダン・ジャズやオールディーズ。だからいつかは作品を手に取ってみようと思ってはいたのだけれど、それが「いま」だとは思いもしなかった。

 

「いま」、というくどい書き方をしたのは、わたしが身なりのいいルンペンにでもなったようなひどい気分のまっただ中であるからだ。

文中で、わたしたちは真夜中の都市で交差し、そしてまた離れていく人々の「傍観者」になる。何かとっておきに大切なものが抜け落ちたかのように進行していく物語は、これ以上ないくらいに「ホッパー的」と言える。そしてほとんどの場合「ホッパー的」というのは「都会的」と同義だ。

文中で提示された謎は、信号機の配電盤に貼られたステッカーのように、その意味も、そしてもちろん答えも示されることはない。すべては夜明けとともに消えていく。

物語の始まりで、夜中の都市は生命のように描かれる。顔のない、アノニマスな生命だ。そしてその匿名性は夜明けとともに剥奪される。「いま」、到底一人では解消することのない矛盾をかかえた「わたし」によって読まれることで、この物語にも夜明けが訪れる。

 都市というのは生命であると同時にひとつの鋳型のようだ。「わたし」という熱い意識が流し込まれることで、無機質にならぶ蛍光灯に温かみがもたらされる。

都市の主題は「わたし」、あるいは「 ___ 」だ。「 ___ 」であるときの物語の一つが『アフターダーク』であるならば、「わたし」であるときは「いま」が物語と言える。

 しかし、いまのわたしが「わたし」という主題になれるかといえばノーであるし、「 ___ 」というあいまいな主題を回収せずに放っておきたいわけでもない。

半覚醒のまま、心地よい宵闇の滑らかさを味わっていたい。僅かな「予感」とともに。都市ならばそれが許されるのだから。


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doukin

酒とバラの日々を気取っても、実情は半ば世捨て人。白黒映画の彼にあこがれ、タイプライター代わりのキーボードに向かう。
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