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国際女性デーの上野千鶴子氏の発言に、戦争終結の難しさを思う

3月8日は国際女性デーです。1977年に国連で議決されました。
ジェンダー平等の実現を目指した女性たちをたたえるこの日、東大名誉教授の上野千鶴子氏が「おっさんたち既得権益集団が・・・」とあるインタビューでお答えになっている。
私は、この発言に違和感を覚えました。それについて記載したいと思います。


国際女性デーのインタビュー記事

昨今、ジェンダー平等のみならず、多様性を受け入れることが、現代社会に生きる私たちのテーマの1つになってきている印象があります。
多様性、ダイバーシティという言葉は、「人種や国籍、性別、年齢、障がいの有無、宗教、性的指向、価値観などの違いを受け入れ、それぞれがそれぞれそのままでよいことを認めることが大切」という文脈で語られることが多くあります。

これをもっと身近な言葉で言いかえると、私たちは、日ごろ気心の知れた「私たち」と、得体のしれない「彼ら」の2つでものを考えがちです。
この2軸に分けるときに、「境界」が発生し、「境界」は世界の分断面となり、争いの火種になります。
2極は、例えば上の記事で言えば「女性」と「おっさん」、そのほかにも「リア充」と「非リア充」、「都会」と「田舎」、「富裕者」と「貧困者」、「既婚者」と「独身」、「キリスト教徒」と「ユダヤ教徒」、「社会主義」と「資本主義」・・・・様々な分け方があります。

二極に分けることをやめ、「それぞれがそれぞれでよい」と認め合うことが多様性を受け入れることであり、男女平等も、その方向性を持った活動である、と思います。

しかしながら、上野氏のインタビュー記事からは、「女性」vs「おっさん(既得権益集団)」を分断する意図を感じました。

おっさんたち既得権益集団が、現状を変えたくないからでしょう。彼らは危機感が圧倒的に足りない。グローバルスタンダードから考えれば、世界に太刀打ちできない。日本は泥船だと思います。余裕を失うと守りに入る。本物の危機が来てそれを実感したときには、もはや手遅れかもしれません。

yahooインタビュー記事

二極のどちからの旗頭的存在になった方々が、もう1極を否定し続ける限り、そこには対立、争いが生じます。戦争がこの世の中から消えることはない。
これは、様々な少年漫画、小説、映画、ゲームなどで語り続けられているテーマでもある。
克服が難しいテーマであるからこそ、普遍的な題材として様々な作品でも取り入れられているのでしょう。
「女性」も「おっさん」も、両方いとおしいよね、というパースペクティブが存在したその先に、本当のジェンダー平等があるように思うのです。

(とはいえ、これまで(というか今もなお)おっさん(既得権益集団)が有利であることは、大企業の幹部の男女比率1つとっても明らかなので、その事実に対して上野さんは苦言を言いたかったのかもしれない。
たまたまイライラした心理状態で上野さんがインタビューに臨んだのかもしれない。
インタビュアーがキャッチーな記事を書きたかったのかもしれない。
それ以前に、私もインタビューで上野さんの発言を切り取った一部メディアの記事のさらにごく一部を解釈しているだけなので、現場にいた人間以外がパーツを切り取って騒ぎ立てるのもまた意味のない行為。
つまり、引用記事の上野さんの発言が「いい」「悪い」は私が今回伝えたい主題ではない。念のため。
ちなみに、日本に対する上野さんの危機意識はまっとうで、その通りだと思います。すでに手遅れ感満載ですよね)

ここで、今回は傍観者である「私」や「あなた」が気を付けたいポイントを2つ。
・「二極化の視点でものを見る人たち」と「そうではない私たち」という2軸で見た時、そこに再び極が生じ、争いが生まれるということ。
・「そうではない私たち」と思ったその瞬間、「私は統合へ向かう素晴らしい人間だ」と自身のエゴが肥大化しはじめるという罠。
(この罠は、発達段階を上に登り始めた人が陥りがちな罠でもある。)

「それって2極のどちらかの極に立っているよね」という指摘、他人の活動を俯瞰しているときには指摘が簡単なのですが、自身が渦中に巻き込まれたとき、そこで「多様性」を担保したパースペクティブを維持することは、本当に難しい。

だから、私たちが「2極化している例」を見つけた時、できることは、それを自身の身に照らして、同じような事象がないか内省すること。
たとえば、「営業部」と「マーケティング部」と「システム部」、「保育園組」と「幼稚園組」、「受験組」と「非受験組」、「上司」と「部下」・・・日ごろ、そこかしこに、分断の種は転がっています。
(こんなことを書いている私自身も「幣部としては・・・・」と会議で発言することも多々あります。本当に、難しい。)

今を生きる私たち一人一人が、この二極化の罠にはまらず、少しづつでも、冷静に自分自身を見る目を養えるようになったら、世の中はかなり素敵になると思うのです。

「自分の立っている極」と「自分自身」を、私たちは日ごろ同化し、執着しがちですが、その「自分の立っている極」と「自分自身」の距離を保つのに有効なのが、ヨガである、というのも、私がヨガを実践している理由です。
(ヨガでなく、マインドフルネスでも、自然の中に身を浸すでも、自身の思考を止め、「無意識」に働くスキを与える営みであれば、同様に有効ですので、ご自身にあったものを、ぜひ見つけてみてください)

世の中が、少しでも、(マーケティングのためのキーワードとしての多様性ではなく)真の多様性の視野に近づき、平和になりますように。

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