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論理的文章と文学的文章とサルからの進化

 高校の国語が変わろうとしている。
 国語は、必修の「国語総合」と選択の「現代文AB」、「古典AB」、「国語表現」からなっているが、2022年より、必修は「現代の国語」と「言語文化」、選択は「論理国語」、「国語表現」、「文学国語」、「古典探求」となる。
 そして、選択は、文学を選ばず、聞いたこともない論理国語を、大学入試のために選ぶ学校が多くなるものと思われる。小説、詩歌を学ばず、論理的な説明文だけを学ぶことになるだろう。

 現代の人間にとって、論理的ではない文学作品は重要ではない。それよりもマニュアル的な文章を読めるようになることが大事だというのだろう。
 たしかに説明文の読めない子どもが多いのは事実だ。だが、本当に文学的文章は必要ないのだろうか。



 ヒトはサルから進化した生き物で、草原に生きる他の哺乳類と違い、サルは森の中で生活していた。
 周りが見通せる草原と違い、森の中では急にどこかから何かが飛び出してくるかわからない。そんな急な出来事があったときに、とっさの判断をして、対応をしなければならない。
 あと何メートル離れているからまだ逃げなくてよいと考える草原の哺乳類とは違う生き方をずっとしてきたのだ。

 とっさの判断は、論理的なものだけではなく、非論理的な行動も時には必要である。そうして生き残ってきたのがサルであり、ヒトである。
 コンピュータの二進法のように、右か左かではなく、時には空へ飛ぶことも必要なのだ。
 正か邪かではなく、どちらでもないこともあるのが人間の生活だ。
 先が見えない森の中で生活してきたサルは、あいまいなことの多い中で生活する日本人へと進化してきた。



 科学は、あいまいを嫌い、正しい答えを求める。
 文学には正しい答えが出てこない。作者はこう言いたいのだろうと思っても、それとは別の解釈も成り立つ。
 詩歌など、何を言いたいのか論理的かけらもないものもある。

朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪  (百人一首)

 月が照っているかと思ったら、雪が積もっていた。何のこっちゃ。月明かりかと思ったら雪明かりだった。それだけ。そんな作品が何百年も愛されてきたのだ。心にしみるのだ。

心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花  (百人一首)

 折れるものなら折ってみよう。初霜の白い色の中にある白い菊を。白い雪の中に白い菊がある。見間違えちゃう。そんな馬鹿な。見間違える訳がない。


花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  (百人一首)

 桜の花は、むなしく色あせた、春の長雨が降っている間に。思い悩んでいるうちに私の容姿が衰えたように。

 小野小町の有名な歌だ。でも、これはダジャレだらけだ。花といえば桜のこと。桜の花が色あせる。それを自分の容姿と重ねている。「わが身世にふる」は私が時代を経るという意味と、雨が降る、「経る」と「降る」がダジャレになっている。「ながめ」も「眺める」と「長雨」のダジャレだ。

 日本人は、こういうダジャレを愛し、「竹藪焼けた(たけやぶやけた)」「私負けましたわ(わたしまけましたわ)」「確かに貸した(たしかにかした)」のような、上から読んでも下から読んでも同じ回文なんてものも作ってきた。全く論理的ではない。「新聞紙(しんぶんし)」sinbunsiを逆に読むと、本当はisnubnisとなる。

 あなたの好きな歌の歌詞をよく見てほしい。百人一首の歌だけでなく、メロディーのある「歌」の歌詞でよい。その文は論理的な内容なのか。
 論理的ではない、非論理的なものがあるから、我々は心安らぐことができるのだ。
 かつての非論理的な森の生活を思い出す。するとなぜか安心し、心が安らぐのだ。

 小説を読み、スカッとするのも同じだ。
 論理的文章で書かれたマニュアルや論文を読んでもスカッとはしない。
 スカッとする小説を読むためにも、非論理的文章、小説文を学ばねばならない。小説を読む練習もしなければならない。練習もせずに小説が読める人は、基礎があるのだ。
 どんな作品がおもしろそうか、いろんな作品を知らなければならない。そんな時間が学生時代には必要だ。そんな時間を経て、人は、人として成長していく。



 マニュアル通りの生活の中で、マニュアル通りの文章を読んでばかりいたら、心が疲れる。
 心を病む人の多い現代だからこそ、文学的な言語、AIとは全く違う言語が必要であろう。

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