見出し画像

沖縄

愛する沖縄のために・・・(2019年10月31日)

今年の2月7日~11日に、がん闘病明けの韓国の友人と二人で沖縄に行ってきました。長い間心に留めていた沖縄行きがやっとかない、戻って来てからその想いをエッセイに綴らせて頂きました。

今回のエッセイは、地理編と歴史編で分けてみました。

素敵な「沖縄」を共有させて頂けたら、光栄です。

===============================

はじめに

「世界や日本の地域の中で、どこが一番好きですか?」
こんな質問を受けたら透かさず「沖縄」と、この文面からそう想像させてしまうかもしれない。しかし実は「答えることができない。」というのが、正直なところである。
それはその国や地域が持つ独特な個性というものが、他のそれらと比較ができないと思うからだ。いやそもそも、比較する対象ではないと思っている。

— ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン —


随分前だが、こんな歌も流行っていた。
世界に72億人いたとしても、まるっきり同じ人は存在しないように、双子であってもそれぞれの個性やアイデンティティーがあり、どんな人でもその人にしかない可能性が奥深いところに秘められている。それはいくら人工知能(AI)が、真似しようとしても真似することができない「尊厳」の領域なのかもしれない。


そしてそれは、人だけに限らない。この世の中の全ては特別なオンリーワンで、その他の全てと相対比較するなど不可能なことである。
石は石で美しいし、花は花で美しい。
石と花を比較すること自体、石と花に失礼である。
また石の中でも、大きいものもあれば、小さいものもある。また、つるつるした石もあれば、ごつごつした石もある。丸いものもあれば、四角いものもあるように、どれが一番という言葉は似合わない。


結局ナンバーワンを規定することよりも、オンリーワンであることをお互いに認識し、そのような関係性のもとコミュニケーション溢れる社会を創っていくことが、新しい時代を迎える今の私たちに必要とされているのではないだろうか。

それはまた、人や存在だけではない。
沖縄は沖縄だけの美しさがあり、北海道は北海道だけの美しさがあるように、世界各地域どんな場所でも、そこでしかない美しさがある。
特にその地域の美しさとは、時間の流れを通して経験してきたその地域の「歴史」と、独特で個性的な構造であるその地域の「地理」に由来するのではないだろうか。


もしもその地域の美しさを最大限に引き出すことができたら、そこで生活する人たちはもちろん、それを全世界の人たちと認識し共有することができたら、今の時代を生きる私たちにとって、これほど励みとなり、後ろ盾になることはないだろう。


海の中の魚は海という環境があってこそ泳ぐことができ、その海の状態に影響を受けて生活をする。
そして魚自身も、どんな認識を持って海と出会うのかによって、海との関係性が変わるだろう。現在泳いでいる海がきれいであっても「汚い」と認識するか、多少いろいろあっても「こんな素敵な海はない」と認識するかによって、魚の一生が変わるかもしれない。

地球という母なる大地のもとに、私たち人間は生きている。
私たちはどれだけ母なる大地を意識し、認識しながら生活しているだろうか。
そもそも、母なる大地の一部分である地域のストーリーを、どこまで知っているだろうか。
もうそろそろ、この関係性を回復して、その温かい懐の奥深い全てと出会い、時空間共に新しい時代を創出する時が来たのではないだろうか。

だからこそ、母なる大地であるその地域の「歴史」と「地理」のストーリーを通して、その地域の「尊厳」という無限なる可能性に焦点を当て、紐解いていきたい。


その地域の「尊厳」を発見し、それを掘り起こすには、何よりも主体的な意志と深く追及する観方(観点)が必要とされる。
まさしく「尊厳」は、受動的な態度で出会うことはできない。観たいものを観て、思いたいように思うという、受動的な主観性では出会うことができない。
結局、自らの尊厳からくる主体的な意志と、そして出会いに対する謙虚な姿勢と、多様な観点による客観性を持って、捕らわれることのない認識の深さが要求される。


石が石としての最高の美しさを表現し、花は花として限りない美しさを表現するように、歴史と地理のフィルターを通して、その地域の個性溢れる美しさをそれらの認識によって捉え、出会い、思いっきり表現したい。

だから、今こそ、沖縄だ!

世界中のどんな人をも陶酔させてしまうほど美しい「沖縄」には、さらに計り知れない美しさがあるに違いない。
そんな「沖縄」の深甚なる「歴史」と独特なる「地理」を通して、私たちの認識をよりもっと深めることによって、さらに美しく輝かしい沖縄と出会うことができるのだ。

太平洋と東シナ海の間に浮かぶ、宝石のように光る「沖縄」を
無限大に輝かせて、全世界に発信したいから・・
まだ誰も出逢ったことのない、そんな「沖縄」へ・・
今こそ、あなたと一緒に、出逢いたい!!

地理編

雲ひとつない晴れた日は、最高の飛行機日和だ。
韓国の大邱から出発し、機窓に顔を張り付けながら、海を見下ろす。

「昔だったら、船で何日もかけて、沖縄に行っただろうに・・。」
上空から九州の佐賀・長崎・熊本・鹿児島の、きれいな山々や海岸線を見つめながら、そんなことを想った。

この世に飛行機という鉄の塊が空を飛ぶようになったのは、今からわずか120年前のライト兄弟からだ。それよりも前の時代は、世界への移動手段は全て船だったということである。
特に移動手段の中でも船の操作は、難しいだろう。それは風力・風向や海流などによって常に変動し、海底地形をも熟知していなければならないからだ。
特に海底地形は、一般人の生活の中ではほとんど意識したことのない領域である。


そういえば以前、山口県の萩市を訪れ、明治時代に書かれた海底地形地図をみつけた時には、興奮させられたことを思い出す。
確かにその頃は、大型船などを港に着けるにしても、海岸線の海底地形の構造を熟知していなければならなかっただろう。今は機械で調査が可能だが、当時は泳いで海底地形を調べたのだろうか。
とにかく、未知なる海は浪漫を掻き立てる。

では、沖縄の海底地形は、いったいどうなっているのだろうか。
それは特に、飛行機が沖縄に接近した時、上空から見える海の色が均一ではないのを見て、強くそう思った。

これが、海なのか。  こんな海の色が、あるのか。

思わず地球全体の海の水をひっくり返し空っぽにして、海底地形を観てみたいという妄想までも誘発した。

調べたところによると、沖縄本島を含む琉球諸島は、太平洋側の「琉球海溝」と東シナ海側の「沖縄トラフ」に挟まれる、とあった。
(ちなみに6,000m以上の深さのものを海溝と呼び、それより浅いものはトラフと呼ばれる。)

琉球海溝は、フィリピン海プレートが、ユーラシアプレートに潜り込むことによりできたもので、これは南海トラフと同様の成因である、という。
なるほど、これは科学館などでよく見る、地震の原理の模型と同じ地形が沖縄の太平洋側の海底にもあるということだ。
そして沖縄トラフは、ユーラシアプレートが、新しい時代に引き裂かれて陥没した1000〜2000mの窪みである、という。


上記の地図の、表記の違いの意味が分かった。
海溝は断崖絶壁のように深く、トラフは台形のように広がる窪みだということだ。その瞬間、地球を縦に割って、沖縄海域の断面図を想像する。

この沖縄の美しさの秘密の一つに、この独特な海底地形もあったのだ。
火山がある陸上だけではなく、海底においても、生きて呼吸する「母なる大地」地球の姿を感じることができた。

さらに沖縄島だけを見てみても、地質的に3億〜5000万年前の古い付加堆積(たいせき)物で作られる沖縄島北側と、500万年前に作られた現地性堆積物により構成される沖縄島南側に大きく分けられる、ということである。
沖縄島の北側と南側でも、地質的に北側は南側よりも10~60倍も古いということなのだ。

飛行機が、那覇空港に到着した。
その日は昼頃飛行機に乗ったので、レンタカーを借りて那覇市内のショッピングモールでお土産を買ったら、もう夕方になってしまった。
しかし今日の宿泊場所は、北側の国頭郡本部町だ。
那覇市内の500万年前の土を踏んでから、小さな車を北に走らせて、本部町の3億~5000万年前の土を踏んだ。
この地質を通して、まるで500万年から3億年までタイムスリップしたようだ。この旅行はただ平面の空間移動ではなく、3億年分の時間旅行でもあった!

車窓から見える外の景色は、どこにでもある夜の道である。しかし常に地形を意識しながら、車を走らせる。
那覇からの高速道路を降りて、本部半島の海岸線を走った時のことである。
「あっ、ここには海岸線がある!」 
驚いた、そして、とても安心した。
実はそれは以前、対馬に行った時に、とても反省したことがあったからだ。

その時も今回と同じように、島の南北へ車を走らせたことがあった。神奈川県出身者からすれば、海の近くは平坦な海岸線に沿って道路もある、とばかり思っていた。
しかし対馬という島は山だらけで、距離としてはそれほど遠くなくても、走っても、走っても、行っても、行っても、上がったり下がったりの坂道だらけ。
両脇の景色も変化がなく、どこまで行っても山道の木々しかない。
「ちゃんと目的地に、向かっているのだろうか。この路は、さっき通った道では・・。」

甘くみていた。私は地理という存在を、完全に軽くみていたのだ。
その時自分の生活範囲を基準にして創られた、地理に対する固定観念が破壊される瞬間だった。
ちなみに、調べたところによると、全国約1741の市町村のうち、山の数が一番多いのが対馬市の177山で、2位の栃木県日光市・新潟県阿賀町の129山を大きく引き離しダントツのトップ、だという。

旅行前、地図で見ると同じように南北に長い沖縄も、もしかすると対馬のような地形かも知れないと、今回は低姿勢で臨んでいた。
もちろんドライブに関しても、行っても、行っても・・かも知れないと、決意して臨んでいたのだ。


ありがたい、感謝の想いが込み上がる。
夜の車窓からぼやけて見える海岸線を悠々と走りながら、昼輝く沖縄の青い海を想像してみる。

しかし、なぜ同じ島でも、ここまで地形が違うのだろう。
また本土とも地質が違うというが、どう違うのだろう。

まず沖縄は北部に最高峰の標高504mの山があり、対馬の最高峰の山は標高648.40mを始めとして、500mを越える山が勢ぞろいする。
国土交通省国土地理院のホームページを通してみた沖縄と対馬の大きな違いは、対馬のほぼ全域が「海の作用によってできた地形」だったが、沖縄のそれは北部の一部と南部の細かい部分にしか過ぎなかった。また対馬は独特で、隆起と沈降を繰り返して現在の姿になっただろうといわれている。

何よりも大きな違いは、沖縄独特の地質にあるようだ。
沖縄歴史教育研究会編による「高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化」によると、
「日本列島は酸性の火山灰土が多く、石のようにかたい人間の骨も、1万年以上たつと地中で酸化して溶けてしまい残りにくい。じつは、日本の旧石器人の全身像を明らかにしたのは、沖縄県から発見された港川(みなとがわ)人であった。琉球石灰岩の洞穴はカルシウム分が多く、中性かアルカリ性のため骨が酸化しにくい。そのため、日本人の旧石器人の多くは、沖縄で発見されているのである。」
結局日本列島は酸性の「火山灰土」でできていて、沖縄は中性かアルカリ性の「石灰岩」だという。(写真上:火山灰土、写真下:石灰石)

それも石のようにかたい人の骨が酸化してしまう本土の土と、酸化しにくい沖縄の土によって、旧石器人の保存の状態が変わるという。

いろいろな、妄想がよぎる。
酸性の土の上で生活する本土の人と、中性かアルカリ性の土の上で生活する沖縄の人とは、いろいろな違いが出るのではないだろうか。
例えば土自体が変われば、同じ作物であっても成分が変わるので、それを食べる本土の人と沖縄の人とは、もしかして性格なども変わってくるのではないだろうか。
「なんくるないさ」という言葉は、アルカリ性によるのかも知れない。
(*なんくるないさ:琉球語の「自然と(あるべき様に)なるものだ」という意味。)


またこの教科書によると、例えば沖縄が日本の一部ではなかったら、日本人の旧石器人は証明されなくなるということになる。
そもそも、近代国家の歴史はここ170年にしか過ぎない。わざわざ旧石器人に「日本人の~」と付ける必要性がどこまであるのだろうか、と思ってしまう。

日頃思うことだが、考古学などは国家の境界線を越えて、できれば、完全に無くして、世界合同で研究してもらいたい学問だと思う。そうすれば、もっと進展的な研究が期待できるのではないだろうか。
それは韓国の金海博物館と、福岡県の宗像大社の神宝殿や、糸島市の伊都国博物館が、ほぼ同じ展示がされていることを通してそう思った。
本来古代において私たちの先祖が、出会いを求めて海を越え活発な交流をしていたことを、元海洋民族としてのDNAレベルで、無意識的に感じていることなのではないだろうか。

次の日の朝、外を見ると天気は曇り。
しかし、ホテルから見える本部町の海は、太陽のスポットライトを浴びなくても、何色もの青にそれぞれが輝いていた。
このまま一日、ホテルでぼーっと海を眺めていてもいいと思ったが、一緒に来た韓国の友人のためにも、観光に勤しむことにした。


午前中から、近くの美ら海水族館に行く。
中学校の修学旅行らしき団体や、台湾か中国からと韓国からの観光客の団体も来ていた。さすがにアジアトップ、世界第9位を誇る水族館だ。
昔から泳ぐ魚が好きでよく水族館には行ったが、ここには圧巻させられた。水槽の大きさはもちろんだが、魚の種類の豊富さに驚いた。
あまりにも鮮やかな南国の熱帯魚など、見たこともない色や形の魚の美しさに、私たちが生活しているこの地球の偉大さを、また感じた。

その秘密もやはり、海にあった。
ここでは、イノーや珊瑚礁、黒潮の海と深海という、様々な海の姿が紹介されていたからだ。(*イノー:琉球語でサンゴに囲まれた浅い海(礁地しょうち)のこと)  

イノーは初めて知った、こんな海もあるのか。


また沖縄の海には、世界の4分の1の種類の珊瑚があるという。沖縄の海の色がエメラルドグリーンできれいな理由は、珊瑚礁と黒潮によるらしい。
そして琉球海溝の深海の存在が、今まで出会うことができなかった領域の生物たちとそのドラマを再現してくれた。深海はとても神秘的である。

次にまた、海岸線に沿って車を走らせ、古宇利(こうり)島に行く。
絶景とは、このことだろう。白い砂浜と透き通った海に、言葉を失う。
沖縄の海の砂が白い理由は、珊瑚や岩が砕けた残骸と、魚が藻と一緒に珊瑚も食べて消化できず糞になったものだという。
「残骸」という単語や「糞」という単語のイメージが、すっかり変わってしまった。

今日という一日がゆったりと流れる中で、時間がこんなにも贅沢なものなのかと思えたのは、生まれて初めてかも知れない。
 
そしてまた、先発で訪れた同僚達の勧めで、小高い丘の上にあるカフェへ向かった。対向車が来たらどうやって避けたらいいのかと思うぐらい、狭い山道を走る。
しかしこの土地では、そんな心配は一切いらない。しぜんと「何とかなるものだ」と、思ってしまう。

そして、目的地に着いた、
そこもまた、別世界だった。 夢でも見ているのではないかと思った。
高台から眺める、今帰仁(なきじん)の海もまた・・・・・表現できない。
この地形は、日本ではここにしかない。国土地理院によれば「地質を反映した地形」で、石灰岩の溶食によるカルストの凹凸地域の凸部分に位置しているようだ。


そんな大地に両足を付けて立っていること自体、奇跡を感じる。
また、そこから見える海には、波が常に白く線を描いているところがあった。
あぁ・・あそこまでがイノーという、サンゴ礁の浅瀬なのだろうか。


時間がゆっくり流れる。 
本来、旅行とは、こういうものだったに違いない。

風が出て来た。
12月に来た同僚は暑かったと言っていたが、2月の私たちは少し肌寒い。
また車を走らせて、海岸線を行く。
時速40キロの速度が、気持ちいい。

走っていたら、先ほど行ったカフェから見える海が突然見たくなった。
方向を変え、畑の間の小さな道に入り海に向かう。
やはりあった、誰もいない静かな海が。
その海を、韓国の友人と・・・二人占めにしてしまった。

次の日、今日から500万年前に創られた土地である、南側に移動する。
車のナビもこの大自然の影響を受けているようで、あまり仕事をしない。移動しながら、有名な観光地である万座毛(まんざもう)に寄る予定だが、すっかり道を間違えた。
しかし沖縄での迷子は、なぜかワクワクする。想定外の場所に出会えるからだ。
本来ならば高速道路に乗る必要のない位置だったが、乗ったおかげで沖縄島の真ん中部分に値する、太平洋側の海に出会えた。
またそこから、万座毛のある東シナ海の反対側まで山を越えて横断する。
だから、沖縄島の「おへそ」を通過した。このお得感は、いったい何だろう。
寄り道、回り道、迷い道、脇道。それらに浪漫を感じてしまうのは、私だけだろうか。

万座毛に着いた。今日はすっかり晴れて、少し汗ばむ。
ここも有名な観光地で、周りからは日本語よりも韓国語や中国語が聞こえる。
万座毛といえば、韓国の観光ガイドに「코끼리바위(ゾウの鼻の岩)」とあるように、その岩がメインではある。
しかし、そもそも万座毛は、琉球王朝の尚敬王が「一万人が座れる広い原っぱ(毛=原っぱ)」と評したことに由来するらしい。


ここは隆起珊瑚礁で、ゾウの鼻の岩やその近くの洞窟は、雨と地下水と海によって浸食され創られた形だという。沖縄の石灰岩が、一目で確認できた。
またこの天然のシバ草原である万座毛には、ここだけにしか見られない特殊な植物がいくつか生育し、万座毛石灰岩植物群落として県の天然記念物にも指定されているそうだ。


自分の呼吸が、沖縄の土や草や木の呼吸と重なり、空と海と大地の呼吸と重なる。
人間も大自然の中のほんの一部にしか過ぎないことを、実感する瞬間である。

次に向かうのは那覇市内にある、沖縄県立博物館だ。
車を南に走らせながら、すべての時空間を、この沖縄で満喫する。

歴史編

那覇市内に近づくと、立ち並ぶビルを眺めながら友人が一言いった。
「原始時代から、現在に戻ってきたみたい。」
今回はいろいろな角度での、時間移動の旅行でもあるようだ。

沖縄県立博物館に着いた。ここは、美術館も併設されている。
壁に囲まれたこの建物は、沖縄のグスク(御城)をイメージしてデザインされたという。シンプルな中にも、自然の温かさを感じる。


この博物館では、海によってアジアや太平洋地域と深く結ばれた沖縄の「海洋性」と、 海によって隔てられながら独自性を築いていった沖縄の「島嶼性」という二つの側面を、「海と島に生きる」というコンセプトで表現していた。
ふと、そんな沖縄の人たちにとっての「海」とは何かが気になった。


それは入り口の、プロローグにあった。
一つ目は、海のはるか彼方に『二ライカナイ』という神々が住む場所があると信じ、豊かな恵みを与えてくれる海に感謝したそうだ。またその海は、同時に人々を島に閉ざしてしまう絶望の海でもあったという。そして三つ目は、黒潮の流れに沿って船で貿易を行い、世界に開かれた「海の路」でもあったのだ。


神のいる感謝の対象としての「海」、そして閉ざされた絶望の「海」、また世界行きの路としての「海」。 
感謝と絶望の海が・・・「路」となった。
まさしく、そこには「意志」があった。
海洋民族にとって主体的な「意志」こそが、生命の「路」を開いたのだ。
思わずディズニー映画「モアナと伝説の海」が、頭の中で展開される。
観光客である私の「海」に対する概念が、すごい勢いで変わっていく。

またそこには、イノーについての説明もあった。
沖縄の人々にとって、最も身近な海がイノーだそうだ。そこは珊瑚礁が荒波を遮ることで、海藻が茂り、魚や貝、ウニ、タコなどの生き物を支える豊かな「海の畑」であるという。
なるほど、確かにイノーは、わざわざ捕りに行かなくても魚などが勝手に来てくれる「海の畑」なのだろう。
沖縄の人たちにとって、ある意味イノーまでが「作物が生る」陸上なのかも知れない。
入り口の展示に、「 イノーに広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験できる。」とあった。やはりイノーからは「陸」に上がるようだ。足元のガラスの中の珊瑚を意識しながら、館内に入っていった。

もう入り口だけで、この博物館にやられてしまった。
そんな沖縄の人たちの、特に博物館を運営する人たちの熱い意志に感服だ
ホームページを見ると「広く内外に沖縄の独自性や、優位性の良質な情報を発信する。」とあった。

この博物館の常設展示は、大きく8つに分かれていた。
はじめの「海で結ばれた人々」では、旧石器時代から10世紀までの貝塚時代を表し、化石の宝庫である沖縄として港川人や多様な化石などと貝塚時代の生活を表していた。
次に「貝塚のムラから琉球王国へ」では、11世紀ごろからグスク(御城)時代になり、御嶽(うたき=聖域)を構え複合農耕を始めて、海外交易も活発になる。按司(アジ=首長)達の権力争いで北山・中山・南山の三山時代の末、1429年に統一され琉球王国が形成された。
まずここまでの沖縄の歴史に、驚いた。


それは時代的に北海道博物館の展示と、この沖縄県立博物館の展示が似ていたからだ。
下記の「北海道・本土・沖縄の歴史展開の概念図」でもあるように、
日本本土では、縄文時代から農業や鉄器などを使用した弥生時代、のち平安時代を経て江戸時代の時に、北海道では続縄文時代・擦文時代・アイヌ時代という狩猟のほか一部農業・漁労をしていた。
同じく沖縄でも、貝塚時代が11世紀まで続き、12世紀ごろから稲作農耕が始まるグスク時代~三山時代・琉球王国の尚氏時代となるという、独自の文化が展開されていた。


日本本土とは全く違う性格を持つ、北の北海道と南の沖縄の共通点の中に、それぞれの島のアイデンティティーを想う。

また、博物館に戻ろう。
3つ目の展示は「王国の繁栄」として、 中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球が、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行い、東アジア有数の貿易国家として繁栄し、より強固な国家体制がつくられていた。


日本本土は中国との冊封・朝貢貿易は、ほぼ無かった。一方朝鮮半島の朝鮮王朝は紀元前から、琉球と同じように中国との冊封・朝貢貿易を確立していた。特に琉球は、東アジアの「中継貿易」の貿易国として繁栄したという。小さいながらも王国を維持し、独特で個性的な歴史を持つこの島に魅了させられる

4つ目の展示は、「薩摩の琉球支配と王国」として、1609年に薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれたが、中国との関係は引き続き維持された、とあった。


さらに5つ目の展示では「王国の衰亡」とし、 中国・日本という両大国との関係を維持してきた琉球が、19世紀に財政難などが原因で王国の経営が行き詰まる。さらに欧米諸国の外圧が押し寄せ、王国は危機的な状況に陥る、とあった。


似ている、そう思わざるを得なかった。


6つ目の展示は「沖縄の近代」だった。 1879年、明治政府による琉球処分が行われて王国は消滅し沖縄県が誕生。その後旧慣温存の措置によっておくれをとるが、徐々に整っていったという。また日清・日露・日中戦争を経て、太平洋戦争の進捗とともに、沖縄も戦争体制に組み込また。1945年住民を巻き込んだ日米両軍による地上戦がこの沖縄で行われ、23万余りの尊い人命と多くの貴重な文化財も失った、とあった。


想像はしていたが、やはりそうか。
大日本帝国の影響を同じように受けた韓国のソウルにある徳寿宮と重明殿や、時期的な違いはあるが熾烈な戦場となった、慶尚北道の漆谷郡多富洞が脳裏をよぎる。

7つ目の展示は「戦後の沖縄」で、大きな戦禍をこうむった沖縄は住民たちがゼロからの出発をした。また施政権は日本からアメリカに移り、27年間のアメリカ統治に入った。米国民政府は東アジアの戦略基地として沖縄を重要視し、基地の機能強化が進められるなか住民への被害も続出し、日本への復帰運動が起こる。その結果、1972年に沖縄の施政権は日本へ返還されたが、多くの基地が残された。
戦後27年間もアメリカであった沖縄。その後返還されても、多くの米軍基地が残っている。


最後の展示には「エピローグ沖縄の今、そして未来へ」として、復帰後に沖縄文化の優位性は認知され、より発展する沖縄を表していた。

この沖縄旅行が決まった時から、ある意味祈るような想いで生活してきた。
明日行く首里城や平和記念公園へその想いを託して、その日はこのまま那覇の地に身をゆだねた。


空の雲は重く雨を含み、風も強くなってきた。
「もう泣かないで下さい!」と、思わず空に向かって囁いた。
一日目の那覇の夜は、長かった。

昨日の夜の強風は、いったいどこに行ったのだろう。
次の日、穏やかな朝を迎えた。
今日は午後から、雨になるという。  今日のコースには、雨もいい。
車で首里城に向かう。小高い丘を登って行く。
同時に来る前に読んだ本の、一節を思い出す。


「琉球王国時代の都・首里は、守備軍が首里城の地下に司令部を置いたために、沖縄のどの戦場にも増して破壊し尽くされた。(略)1945年5月31日、首里城跡に星条旗がひるがえる。」


唯一日本で地上戦が展開されたのが、沖縄である。そしてここは、首里城の丘。今日訪れる土地が持つ全ての「痛み」は、私たちの想像絶するものだ。

首里城の赤い色彩が、青い空に美しく浮かぶ。
想像していた以上の荘厳さに、韓国の友人と共に感嘆する。

1372年、琉球に明からの使者が入貢を促し、それにこたえた中山王は貢物を納め中国の冊封体制のもとに入った。その後北山・南山もこれに続き、三山時代を形成。1429年に三山は尚巴志によって統一され、中国から派遣された冊封使が皇帝の確認のもと、新しい国王の任命する式が行われ「琉球王国」が成立した。


琉球の王は勝手に「琉球国王」を名乗っていたのではなく、中国の皇帝から任命されて初めて国王になったということだ。
琉球国王はこれによって、正式に朝貢・冊封体制下の東アジア社会の一員として大交易をすることが認められた。
特産品のとぼしい琉球は、中国への進貢品や交易品を日本から調達し、同時に日本には中国や東南アジアから仕入れた品物を売りさばいていた。


そして15世紀まで東アジア・東南アジアを舞台に、大交易を繰り広げた琉球の気概を、首里王府は「万国津梁(しんりょう)の鐘」の銘文として首里城正殿前の梵鐘(ぼんしょう)に刻み込んだ。万国津梁とは≪世界を結ぶ架け橋≫という意味だ。

まさしくこの琉球王国は「世界を結ぶ架け橋」という、関係性によるアイデンティティーで成立していた国なのだろう。

16世紀には大航海時代の波が押し寄せ、ポルトガル・スペインが進出してきた。中国では海禁策が緩み中国商人が盛んに活動をし、16世紀半ばから日本商船も東南アジアに進出するようになり、国際競争のレベルになっていった。独自の交易品を生みだせなかった琉球は、1570年以降は中国への渡航のみとなった。


1609年に島津氏による琉球侵略により、琉球が幕藩体制に組み込まれていく。同時に明への朝貢国のトップである朝鮮の次の地位を維持することで、「異国=王国」としての体制を保つことができた。そのためにも、中国への安定的な進貢を続ける必要があった。近世日本にとっても、アジアの情報を得るために重要なシステムだったという。
首里城の北殿は赤く冊封使の接待場所でもあり、南殿は薩摩藩の役人を接待する場所として木造で創られている。
大国に挟まれつつ、関係性によってこそ成り立つ国の知恵なのかも知れない。

東アジアの秩序は中国の朝貢・冊封体制下で成り立っていたともいえるが、西洋列強の帝国主義におけるアジア進出により、特に1840年イギリスによる中国とのアヘン戦争によって崩れて行った。琉球にもイギリス・フランスや、1853年にはペリー率いるアメリカの艦隊が那覇に到着していた。
1854年ペリーは浦賀に来る前に、沖縄に寄っていた。
1868年明治政府の樹立後、1871年の台湾漂着琉球人殺害事件をきっかけに、1879年に廃藩置県=琉球処分によって500年続いた「琉球王国」の歴史が幕を閉め、琉球は沖縄県となった。


同時に頭の中には、同じような歴史を持つ北海道・韓国・台湾の博物館がそれぞれ浮かぶ。
西洋列強たちがこのアジアに叩きつけた帝国主義・近代国家の条件は、主権と領土と国民であった。その近代化の流れは、沖縄・北海道・朝鮮半島・台湾などを日本の領域へと化し、そこで生活している人たちを日本人としていった。

その後、首里城は1945年の沖縄戦によって焼失。1950年には、米国民政府令により首里城跡に琉球大学が開校し、1972年日本本土復帰後、1980年琉球大学移転に伴い本格的な復元が行われ、2000年には首里城跡として世界遺産に登録された。

城壁を歩きつついろいろな時代が、いろいろな地域・国家が、頭の中を駆け巡る。
そして両足で触れている、この地面に想いを馳せてみる。
これらの土地の痛みを、ねぎらい労わることなんて、できるのだろうか。
今はとにかく、これらの全てと主体的に出会っていくことだろう。

次に車を、太平洋側の海へ走らせる。
琉球王国最高の聖地である斎場御嶽(せーふぁうたき)に行くためだ。
休日だというのに、車が少ない。
のんびりと、ゆっくりと、歴史の余韻を感じながら目的地に向かう。

駐車場近くの広場で、露店がでていた。
今日は何かのイベントが、あるようだ。
韓国の友人が「帰りにここに寄って、露店でご飯を食べよう。」と言った。
今回の旅行は、病気上がりの友人のためでもあった。
それがある意味、ありがたい。

琉球開びゃく伝説でもある斎場御嶽(せーふぁうたき)の「せーふぁー」とは、最高位という意味で「最高の聖地」という意味だ。
御嶽の中には6つのイビ(神域)があり、首里城内の部屋と同じ名前を持っているものもある。


キリスト教の信者であるその友人も、沖縄で一番印象的だったのは 斎場御嶽(せーふぁうたき)だと言っていた。
大自然の中で、長い時代をかけて祈られてきたその清らかさは、あらゆる宗教の枠さえも超え、心を揺らしてしまうのだろう。

凛とした空気に、心も体も浄化される。
ふと思う。
もしかして、斎場御嶽を含む沖縄全土が、この地球の「聖地」なのかも知れないと。

戻って来てから、友人と一緒に、沖縄産の海産物などを頬張った。
地球の恵みに感謝する瞬間だった。


少しすると、雨が降ってきた、それも激しく。
さっきまで晴れていたのが、うそのようだ。
4月~8月だった沖縄戦は蒸し暑く、雨もひどかったに違いない。
韓国の友人が一言つぶやく、「沖縄の雨のドライブも、味があっていいね。」と。
喜んでくれる横顔を見ながら、心が落ち着く。

沖縄県平和祈念資料館は、糸満市摩文仁(まぶに)にある。
本の一節を思い出す。
「喜屋武(きやぶ)半島・摩文仁丘一帯はどこもかしこも戦傷者があふれ、葬るすべもない死体が倒れたままになっていた。(略)沖縄戦では13万人に近い膨大な数の住民が犠牲になったが、その8割以上が6月以降のこの南部の戦場における犠牲であった。」


この地に足を下ろす。それが少しでも、この地の土となった方々への供養になれたらと、静かに黙祷する。

この資料館は、2階が常設展示となっている。 
まずこの展示のプロローグでは「かつて琉球の先人は、平和をこよなく愛する民として、海を渡り、アジア諸国と交易を結んだ。海は豊かな生命の源であり、平和と友好の掛け橋として、今なお人々の心に息づいている。」とあった。


ここでもう一度、主体的に海を渡り、アジア諸国を交易で結んだこの沖縄の「関係性」に焦点を当てたアイデンティティーを、確認させられた。

第1展示室では「沖縄戦への道」として沖縄戦にいたるまでを、第2・第3・第4展示室は住民から見た沖縄戦を、それぞれ「鉄の暴風」「地獄の戦場」「証言」として展示されていた。ちなみに「鉄の暴風」とは、沖縄戦では約3か月にわたって米軍の激しい空襲や艦砲射撃を受け、その無差別に多量の砲弾が撃ち込まれるさまを暴風にたとえたものである。
そして最後の第5展示場は「太平洋の要石」として、戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄が展示されていた。
その資料館を訪れる全ての人たちは、ひとつひとつじっくりと見入っていた。

朦朧としながら展示室を出ると、そこには大きな窓の先に太平洋の海が広がっていた。
今からわずか70年前、ここが熾烈な戦場だったということを、忘れさせるぐらい静かな海だった。


雨でかすれた前方には、平和の礎(いしじ)が見える。
沖縄戦で亡くなられた、国内外20万人の名前が刻まれているという。
外の雨は、今まで以上に激しく降ってきた。

次に資料館と平和記念塔の間にある、韓国人慰霊塔に向かう。
戦争当時日本だった朝鮮半島からも、この沖縄戦に日本軍兵士として多くの人達が送り込まれ犠牲となっていった。


以前「ほたる」という、高倉健主演の映画を観たことがある。それは日本軍として戦った韓国人兵士が、沖縄へ神風特攻隊として戦い散っていったストーリーだった。映画の一場面が、目に浮かぶ。
「私は日本のために特攻に行くのではない。愛する人を守るために行くのだ!」

今回の旅行には、もう一つの目的があった。
実は私の義理の父も、沖縄戦に駆り出された人だった。だからいつか必ず、当時の現状を直接沖縄に行って知りたいと、結婚当初から想っていたのだ。


義理の父は当時「光田容吉」という名前で日本軍として戦い、捕虜となって無事帰還することができたが、耳の横にピストルの弾のかすれ跡があり、防空壕の中で激しい煙に巻かれた後遺症で、肺の病気に長い間悩まされ、最終的に肺がんで亡くなられた。
それは上の子がまだ2歳の時、今からちょうど25年前の話である。

生前、義理の父は、日本語で「日本人でも良い人はいた。逆に韓国人にも悪い人がいたしね。みんな同じ人間なんだよ。」と、日本人である私が沖縄戦について尋ねた時、やさしい笑顔でそう答えた。
そこには日本人や韓国人という国家・民族の壁は無く、義理の父が嫁を想う人間の深い愛情しかなかった。
まさしく義理の父は私に人間の「尊厳」そのもので、出会ってくれていたのだ。

ちなみに夫は、義理の父が帰還されてから生まれた子どもである。義理の父があの時もしも、この沖縄の土になっていたとしたら、夫は存在することなく、子どもたちはもちろん、私も今ここでこうしてはいないだろう。
今私がこうして、こんなにも尊い沖縄と出会えるのも、すべてはそんな義理の父がいてくれたからこそだと、深く想う。

この資料館設立理念の中には、「沖縄の心」という言葉があった。
ここには「人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心」であるという。

「沖縄の心」


これはある意味、地球上全ての人たちが持っている「心」であり、人間の尊厳そのものからくる「心」なのではないだろうか。
またそれは、石は石として美しいと思い、花は花として美しいと思う「心」であり、どんな国の人でも、またどんな民族であっても、人は人として美しいと思う、そんなオンリーワンの「心」なのではないだろうか。


この「沖縄の心」を人類すべてにとっての「世界の心」とし、これを共通の土台として関係性に焦点を当てた交流によって、それぞれ国家や地域そして民族などが持つオンリーワンの文化を無限大に生かし合う、そんな世界を創っていきたいと心から思う。


この沖縄の地で、土になり、草になり、花になり、木になり、風になり、海になり、空になっていった先人たちを前に、
また同じように、全世界のあらゆる先人たちの前に、それらの地域に脈々と流れる熱い想いを決して無駄にはできないから。

資料館を出て、近くの海に行った。
雨は小降りにはなったが、灰色の雲が重く摩文仁の海を覆っていた。

そんな、海と空と、自然たちの前で、強く思った。
尊厳そのものに、もどりたい!
もう、尊厳そのものに、もどろう!!と。

すると、目の前の海と、空と、風と、木と、草と、花と、土が、にっこりほほ笑んだ。

そう、尊厳の時代は、今この瞬間、この場から始まっている!!!

                 

                 完

ここから先は

0字

¥ 100

拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡