一昨日の続きとして、義について考える。

定義として、義とは、個人や社会の価値観や文化によっても異なる解釈がされる場合はあるが、一般的には、他人への尊重や公正さ、誠実さ、公共の利益の追求などが要素とされる。

また、義のある社会は、道徳的な判断や行動を通じて社会的な秩序を維持し、他人との関係を健全にする役割を果たす。
義に従うこと(義務を果たすこと)は、他人を尊重し、公平さや正直さを実践することにつながる。これは言い換えるならば、義の実践であり、義を実践することは、個人の成長や社会の発展に貢献し、人々の信頼や共同体の結束を強くすることにもつながる。

といっても、義なんてなくて良いという議論も理解できる。
義理、礼儀の強要は、本質を遠ざけるし、
社会を構築する上でも悪く働くことも多々あるだろう。

ただ、義のない人にはやはり深い信頼は置けない。

これは完全に偏見だが、資本主義を否定して、自然の中でヒッピー的な暮らしをしている人たち(資本主義的な搾取を自分たちはしていないと主張してそうな人たち)に、義がないと感じる。
産業資本主義が作り出した市場経済、それらの経済循環により生まれたインフラ、生活用品。産業資本主義経済は、それ以前と以後の社会での包摂性は間違いなく高まっている。
資本主義は、完璧ではない。民主主義だって完璧ではない。
どちらもベストだから採用している仕組みではなく、最悪な状態を作らない為の最善として採用されているものだと思う。

これまでの社会経済を作ってきた人は、
別に感謝されたいわけでもないし、謝罪して欲しいわけでもない。

ただ、市場経済の恩恵を受けた上で、余裕を手にした上で、
今が充実しているのなら、今の環境に感謝をするのであれば、
そこまでのつながりに感謝して生きて行くのが、義だろうと思う。

この考え方は古いと日本では言われ続けている(赤穂浪士の時も)。
ただ、この義を欠いた関係性に、本当の信頼が生まれるのだろうか。

そもそも、礼義、意義、義理など、いろいろな概念に登場する義だが、
その義は人類が長期的な関係性を保つために作り出したコミュニティ原理だろう。
本当の信頼関係とは、義なしでは通らない。
ただ、義は、その人の正しさ、そのコミュニティにとっての“正義“、みたいなものでもあり、正解はないのだろう。ただ、つまり、この義が異なれば、それは同じ集団ではないのだろう。

では、義を共有する為には何が必要だろうか。
それは、勇気だと思う。
義がないなと思う人たちは、重要な局面でチキンさが出る。

人には誰しも欠点があるから、だから全てがダメだということではないが、
勇気がないことと、義がないこと、その集団から信頼を得られないことは、非常に相関があるだろうということである。

これは対人的な勇気もそうだが、内的な勇気もない。
例えば、わからない、ということを受け入れるには勇気がいるが、それができない。
ある人は、分からない事を勇気を持って受け入れられるようになり、ただそれに時間がかかることを経験的に理解し始めているので、少しずつ確実に義、信頼を得ている。
他のある人は、分からないことと、わかることの区別がはっきりしており、その後の行動も決まってくるので、勇気を持って行動ができる。つまり決断する勇気がある。

今思いつく義がないけど自然に感謝していると思われる人は、自分が分からない事を分かったと言ってしまい、本当に分からないのか分かっているのかが分からない状態にしてしまう。
でも分かったと言ってしまっている為、不協和が生まれる。その不協和によって、自信に繋がらない。そして、自分の中でも、他者との関係性の中でも義が蓄積せず、信頼にも繋がらないため、本質的な自己肯定感も上がらない。

これを続けていると、複数の仲間を作るのは難しいだろう。
なぜなら、物理的なつながり、経験的なつながり、地縁的なつながり等諸々あるつながりを保つための最も強いエネルギーに義があるからだろう。
自分が所属する共同体が信じるその強いエネルギー(義)を、“正義“というんだろう。

だから武士には、義が多い。
武士は、社会的に制度化されたつながりではなく、
血筋や地縁などの義によって形成された集団だからである。

話を戻すと、より大きな集団、共同体を作る為には、その義が普遍的に正しいかどうかではなく、信じるに値する“大義“名分があれば良い。
第二次世界大戦まで日本という国は、天皇という“大義“名分を利用して国を治めてきた。幕府が変わろうが、明治政府になろうが、常に天皇という“大義“があったからこそ日本は日本として存続してきた。
義は見えないし、“定義“するのは非常に難しいが、確実に存在する。

改めてだが、義があるということは、そこにつながる理由があるし、信頼も生まれるが、
義がない関係性の中には、最終的に搾取が生まれるんだろうと思う。

ギバー、マッチャー、テイカーの理論からすれば、
ギバーもテイカーも一見したら見分けが付かないが、
一番の基準は、義があるかどうかだろう。

話が色々飛んでしまっているが、
結論として、義がある人と一緒に生きていきたい。
礼儀、義理、意義、義務、
どれも正解はないからこそ、義とは何かを問い続ける関係性の中に、
健全な義、正義があると思うし、そのような共同体でありたいと思う。

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