連載小説 ジョー・ナポリタンの栄光無き人生 第一回

ジョー・ナポリタンは最高の選手の一人であった。ルースやディマジオ、ゲーリックにカッブ、そうした選手たちと比較してもなんら遜色のない選手だった。

OK、これらの辞書にも載っていそうな名選手に引きかえ、ナポリタンって誰だ?という反応は当然のものだろう。ジョーのことを知らなかったとしても恥じることなどないし、むしろそれが当然である。誰にも知られていないということは、評価されていないということである。しかしながら、評価が正当でないことは往々にありうることなのは説明するまでもあるまい。ゴッホの絵が生前全く相手にされなかったことは有名だし、未だに評価されぬままの誰も知らない画家の名画がどこかの納屋に埋もれているかもしれない。もちろん、そのまま埋もれたままということも大いにあり得る。

とはいえ、野球選手が不当な評価をされるということがあるだろうか、というのはもっともな疑問だ。彼らには評価の基準となる明確な数字、安打数や勝利数がある。不当な評価のしようがない。その多寡はすなわちその優劣を意味し、それは評価に直結するはずである。よろしい、それらはあくまで記録であり、記憶に残る名選手というのもまたいるはずである。たった一つのプレーで人々の記憶に鮮烈に残る選手。劇的なホームラン、絶体絶命の危機を救うビッグキャッチ。残念ながら、ジョーにはそうしたものも無い。

ナポリタン?誰だ、それ?この反応はつまるところ、ジョーの成績から考えれば仕方のないことである。その上、ジョーは人々の記憶にも残らなかった。記録にも記憶にも残らなかった男。だがしかし、ジョーは最高の選手だった。

「ただし」と、舌の根も乾かぬうちにこうして断らざるを得ないのは甚だ残念だが、しかしながら誠実な姿勢を示し続けることこそが誠実な姿勢であるなら「ただし」と入れざるを得ない。

ただし、野球という競技が、木でできた棒切れで革で包まれた球体を引っ叩いたり、その球体の飛んできたのを追いかけ、革の手袋で掴み、逆の手で投げる、という動作を必要としなかった場合だ。その場合において、ジョーは最高の選手だった。最高の選手の一人であったとなどと他にもそれに比肩するものがいたことを匂わせる必要もない。ベスト中のベスト、最高の選手だった。

もちろん、野球にはバッティングや守備、スローイングが必要不可欠であり、それらを除いて野球という競技が成立するはずがない。

お世辞にもジョーのバッティングは良いとは言えなかった。いや、最悪だった。災害に近かった。一応スイッチヒッターということになっていたが、それはどちらの打席でも打てることを意味せず、どちらの打席に立ったところで結果は変わらない、凡打であるということ以外を意味しなかった。実際ジョーは左投手がマウンド上にいる場合でも左バッターボックスに入ることがあった。定石で言えば左投手には右打席である。思うに、ジョーはそうした相手投手、相性云々ではなく、なんとなく打てそうに思えるバッターボックスに入っていたように思える。ちなみにその打席ではぶざまとしか形容のしようがない三振を喫した。

守備位置は外野だったが、そのグラブが存在意義を感じることはまれだった。おそらく、ジョーのグラブは常に実存的不安にさらされていたに違いない。あるいは、実存が本質に先行するという結論に達する直前ですらあったかもしれない。フライを取り落とすことは茶飯事だったし、ゴロを後逸するのも同じくらい頻繁にあった。奇跡的に捕球することがなかったわけではないが、それはどちらかというと取ったというよりも、ボールが勝手にグラブに収まった、と表現した方がよく、そんな時には取った当の本人であるジョー自身が驚いているのが遠目でもわかったほどだ。

目も当てられないのはその後だ。グラブに収まったボールを不器用に引っ張り出し、返球となるわけだが、ジョーの投げ方はぎこちなく、野球をやったことのないお嬢さんみたいだった。その肩の強さもまたお嬢さんがたと五十歩百歩、あるいは劣ったかもしれないのだ。

とはいえ、それらのプレー、あるいは惨事を目にすること自体極めてまれだった。そういう意味では、ジョーは最悪の選手であることを大いに免れていたのだ。ある意味、それら、バッティングや守備はジョーにとって野球ではなかった。もちろん、本人はそれらにも意欲的に取り組んでいたけれど。

それに、これは別にジョーの肩を持つわけでもなんでもなく、そもそも60フィート6インチ先に立つ人物から放たれる、時速90、場合によっては100マイルに達する拳大の球体を木の棒で打つなどということははっきり言って奇跡の部類にはいることで、それをやすやすと、日々やってのけるような人間たちは二度などとケチ臭いことなど言わずに奇跡を起こしているのだから死後確実に列聖、聖人として崇められるのは間違いなく、人々もそれにやぶさかではないだろう。そう考えれば、ジョーのバッティングが悲劇を通り越して喜劇的であるということはつまり、人間的であるということであり、それは彼が劣っていることの印ではなく、むしろ普通の人間であることの証でしかなく、それを補って余りあるものが、彼を最高の選手へと押し上げることだろう。

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兼藤伊太郎

ジョー・ナポリタンの栄光無き人生

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