ショートショート「愛なき世界」

彼女は女優だった。きらびやかな衣装?明るいスポットライト?称賛の拍手?彼女には無縁だった。場末の劇場、居眠りに酔っ払い、ろくな観客はいない。いるだけまだマシだったが。
もちろん、彼女も小娘の頃には夢も見た。フラッシュ、レッドカーペット、歓声、微笑み、手を振る。プライベートを覗く出歯亀ども。その頃から、まだそれほどの時間は流れていなかったが、もう彼女の胸の奥の夢は萎れ、カラカラに干からび、シワだらけの、老婆の手の甲のようになっていた。
その晩、舞台の相手役は若い男だった。ひどく美しい男、目鼻立ちも、体型も、全てが作り物のようで、それ以前にも稽古で散々あったはずなのに、まったく同一人物だとは思えなかった。
「僕は悪魔だ」と男は舞台上、彼女に近付いた時に耳打ちした。
「そんな台詞無いわ」彼女は小声で返した。
「台詞じゃない」
そして、一度離れ、お互いの台詞、また近付き「君に全てを与えよう」と悪魔は囁いた。
「全て?」
「全てさ。その代わり、君は何も愛せなくなる」
舞台が幕を下ろし、男を探したが、その姿は見当たらなかった。彼女は思った。今だって何も愛してなんかいやしない。
その後の彼女の快進撃、出る舞台出る舞台大当たり、次第に大きな劇場、重要な役をこなし、テレビからも、映画からもお声がかかるようになり、すぐに仕事を選べるようになった。実業家とのゴシップ、結婚、美しく聡明な子供を産み、仕事に復帰、また大ヒットを飛ばす。周囲は彼女を崇め、彼女を羨む。富、名声、なんでも手にはいった。
彼女は歳をとった。歳をとった彼女の前に、悪魔を名乗った男が訪れた。男は若く美しかった。
「久しぶりね」
「全てを手にいれたね」
「下らないわ」
「みんな君を羨んでいる」
「だから?」
「君は幸せじゃないのか?」
彼女は若く美しい悪魔に顔を寄せ言った。「私を幸せにしようなんて、あなたは思ってなかったでしょう?」

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