同人誌「無駄」計画

「無駄とは無駄であり無意味ではない」

とはいえ、それを無意味としてとらえる人もいるだろう。
価値観は人それぞれと言ってしまうと元も子もない。

たとえば、将棋の棋士たちは無駄であろうか、無意味であろうか。

彼らの優れた頭脳は将棋というボードゲームのためにのみ使われ、それが公共の利益になることはない。

あるいは人はそこから何かの教訓や感動を引き出そうとするかもしれないが、もしもその頭脳を別の使い方をすれば、と考える人がいてもおかしくないのではないだろうか。

その頭脳を用いて、新薬を作るきっかけを見つける、多くの人が幸福になるようなテクノロジーを発明する。

もちろん、そう簡単なものではないだろう。物事はそう単純ではないし、単純でないと信じたい。それに、彼らの頭脳は将棋を指すことには優れているかもしれないが、他の事はからきし、ということだってありうる。

それは「無駄」である。

それはなにも将棋に限らない。囲碁?チェス?いや、そういうことではなく。

音楽も、絵画も、彫刻も、小説も、詩も、野球も、フットボールも、バスケットボールも、すべて無駄である。ダークマターも、ニュートリノも無駄である。少なくとも今のところは。

それらはホモサピエンスという生物種の生存にとって無駄に他ならない。生き、そしてそれを繋いでいく上で、それは全く必要とされない。

無駄である。

過剰である。

浪費である。

しかし、それを無意味といって切り捨てることができるだろうか。

できるかもしれない。

生産性、合理性、能率性、そうした観点からのみ捉えれば、それらは無意味であり、切り捨てる対象だろう。

あるいは、それらは既にシステムの中に組み込まれているのだから、無意味ではない、という擁護の仕方もあるのかもしれない。経済活動の網の目の中に組み込まれることで、それらに意味≒価値が与えられていると考えることもできるのかもしれない。

無意味なもの、無価値なものと、有用なものとを仕分けしたその先の世界は、果たして我々にとっての楽園になるだろうか?

ぼくにはそこは荒涼たる、例えるなら月面のように見える。生命の生存を拒む空間、生無き場所。

この大地の引力を振り払い、宇宙空間へと羽ばたくためにはほんの些細な無駄も許されない。最小限の、生存に必要とされるもの、そして人類に有益な研究に必要なものだけを積み、宇宙船は空へと打ち上げられる。打ち上げるには大きな力が要る。無駄は許されない。そこは永らく選ばれた人間、宇宙船を操作するスペシャリスト、研究をするスペシャリストたちの空間だった。パイロットであり、科学者たちだった。

詩人そこに含まれない。

詩人は宇宙にはいけない。

なぜなら、無駄だからだ。詩人を宇宙空間に送り込むくらいなら、同じ重量の水を持っていくだろう。

しかし、詩の生きられないところで人間は息をできるだろうか?

過剰を楽しむことを人類の専売特許だなどと言うつもりはない。イルカは遊ぶし、タコは自分の住処を飾り付ける。

それでもなお、無駄を楽しむことこそが人間的な行為なのだと、そう声高に叫びたい。

それは無意味などではなく、むしろそこにこそ人間の息をする場所があるのだ。

11月の文フリ目指して作ります。

「無駄」

どうぞお見知りおきを。

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