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この地域で震災前から現存しているのは、このセリカだけなんですよ

トヨタ・セリカGT-FOUR(1994年型)

 東日本大震災で被った被害の大きさは、百万言を費やしても語り尽くすことはできないだろう。
 とりわけ、太平洋沿岸部への津波の被害が甚大だった。津波は、あらゆるものを破壊し、押し流し、剥ぎ取り、奪い去るだけでなく、同時に大量の瓦礫やヘドロをぶちまけ、押し付けてきた。
 宮城県気仙沼市に住む薬剤師の武田雄高さん(42歳)が乗っているトヨタ・セリカGT-FOURは、震災当時、遠くの千葉県で生活していた弟が乗っていたために難を逃れた。
 シャッター付きのガレージに停めてあった、トヨタ・セルシオやフォルクスワーゲン・トゥーランなどはシャッターを破って侵入して来た津波に屋根まで水没してしまった。
 水が引いて、それですべてが終わったわけではなかった。
「むしろ、それからの方が大変でした」
 セリカGT-FOURを前にして、武田さんは当時のことを思い出す。
「津波が運んで来た瓦礫やヘドロの量がスゴかったんです。自分の頭の高さくらいまで溜まりました。とても、簡単にすべてを掻き出せる量じゃありません。この道なんか、しばらくは漂着してきたガレキの上を歩いていたくらいでしたから。そうだったよね、恭くん?」
 武田さんが同意を求めたのは、傍の菅原 恭さんだ。菅原さんは一昨年のこの取材に登場してくれたシトロエンSMのオーナーで、武田さん家族の二軒隣に住み、ずっと近所付き合いをしてきた。
「そうでした。瓦礫とヘドロを片付けるのが震災直後の最大の課題でした」


 武田家のセルシオとトゥーランはガレージ内に止まっていたが、車内に入り込んだ海水とヘドロによって、とても直して乗り続けられるようなものではなかった。
「クルマのことなんか、後回しでした。家も壊れているし、電気や水道も回復していない中で、海水とヘドロまみれになったクルマを直して乗ろうなんて気分にはとてもなれませんでした。仮に修復しようとしても、クルマは電気系統がすべてダメになっていたでしょうし、ヘドロを取り除くのは大変な手間が掛かった上に、臭いなどは除去できなかったでしょう」
 しかし、とてもそんな状況ではなかった。電気も水道も復旧しない極限の状況下で、家族と地域の人々が生き伸びていくことしか考えられなかった。セルシオとトゥーランもまた瓦礫のひとつとして機械的に重機で運び出されていってしまった。悲しむとか寂しがるといった感情を差し挟む間もなかった。
 ガレージの壁に残っている津波の痕跡を武田さんは指し示した。本当に、頭と同じくらいの高さに黒いシミが横一直線に残っている。
「幸いに、ウチも武田さんのお宅も家族は無事でしたが、クルマは全滅しましたね。だから、この地域で震災前から現存しているのは、このセリカだけなんですよ」
 菅原さんも、大切に乗り続けていたBMW2002tiiやケイターハム・スーパーセブンなどが津波にさらわれ、流されてしまっていた。


 セリカGT-FOURは、武田さんの父親が乗っていた。スキーが好きだったので、いつも必ず4輪駆動車があった。セリカGT-FOURの前には、フォード・テルスターや日産サニーの4輪駆動モデルなどがあった。
「岩手県の安比高原にスキーに連れて行ってもらった時に、大雪が降る中をハイペースで走ったセリカの速さに、“こいつ、スゲェな”って驚きました。テルスターやサニーは4駆だとはいっても、雪道だと路面を少し滑りながら走っていたものでしたが、セリカは反対に吸い付くようで、力強く加速して、雪でペースを落としたクルマを次々と追い越していっていましたね。その時の記憶を鮮烈に憶えていますよ」
 その父親は震災の4年前に亡くなっていた。持っていたセルシオ、セリカGT-FOUR、スバル・レガシィの3台を3人の息子たちがそれぞれ引き継いだ。その他の遺品の数々は、いくつかの箱に大切に仕舞って保管していたが、それも津波にやられてしまった。
「オヤジの形見と呼べるようなものが一切なくなってしまったので、僕が乗っていたMINIクロスオーバーと交換してもらうよう弟に頼んだのです」
 弟は千葉県で毎日の通勤にセリカGT-FOURを使っていたが、兄の申し出を受け入れてくれた。


「家も父が亡くなった翌年に建て替えてしまったので、オヤジが触れたものが一切なくなってしまったんです」
 それに気付いた時、武田さんは大きな喪失感に囚われた。
 武田さんと父親は、仲の良い父と子というわけではなかった。父親は厳しい人だった。息子たちはつねに「勉強しろ」と命じ続けられ、学校のテストで良い点を取ったとしても褒められることがなかった。
「あの頃は、オヤジの顔も見たくなかった」
 名門・東京大学を卒業し、兄の眼科医院の事務長を務めていた父は息子たちにとにかく厳しく、それに武田さんは反抗し、反発していた。
 大学入学試験に失敗し、浪人生活に入ったのに勉強に真剣に取り組まなかったことを咎められ、口論の末に勘当を言い渡された。武田さんは反省したり、恐れることもなく、戸籍から離脱すると言い返し、すぐに実行した。感情的にも、法律的にも親子の縁を切ったことになる。
 すぐに家を出て、千葉県のパチンコ屋で住み込みで働き始めた。大当たりした客の1センチ大の鉄の玉が5000個入った箱を運ぶのを手伝ったら、その力持ち振りを認められ、鉄筋工事業者にスカウトされた。その客が鉄骨屋の親方だった。
「力持ちだね、ウチで働かないか!?」
 人手不足だったから、日当は1万5000円。当時の相場の倍だった。
 東京ディズニーシー、幕張メッセ、お台場のビル群などの工事を休む暇もなくこなしていった。


 日本では、毎年1月8日は「成人の日」という祝日に制定されていて、全国的に学校や企業が休みになる。20歳になる若者たちは、着飾って友人たちと市役所などに集まり、成人となったことを祝う。市町村から祝いの品が届いたりする地域もある。
 しかし、武田さんは成人式には出席せず、いつもと変わらず建設現場で働いていた。雪による工期の遅れを取り戻すために休日返上で働かなければ間に合わないということもあったが、武田さんは「成人式なんて、オレには関係ない」と自分から背を向けてもいたのだ。
「おめでとう。成人の祝いだ」
 親方がぶっきらぼうに渡してくれた封筒には1万円札が10枚入っていた。破格の金額だ。親方は成人式に出席できない武田さんの境遇を気に掛けてくれていたのだ。なんて優しい人なのだろう。
「パチンコ屋と鉄骨屋で併せて2年働きました。オヤジから自由になれたうれしさの反面、つくづく“他人に使われて働くのは大変だ”という結論も得ました」
 身体的にも、重労働の負担は大きく、ヘルニアを患ってしまい、そろそろ次の身の振り方を案じる潮時でもあった。
 ちょうどその時、いつものようにアパートに帰ると、アパートの大家から“すぐに来て下さい”というメッセージが届いていた。何事かと、すぐに大家の家に向かうと、そこには5年ぶりに会う祖母の姿があった。父の母親である。
 戸籍まで離脱したわけだから、家族には連絡先は一切教えず、訊ねられもしなかった。しかし、家族は武田さんの友人たちを何人も辿って、アパートを突き止めたのだった。
「元気そうで何より。学問の道に戻ってきなさい。大学に入るための勉強を始めなさい」
 もちろん、祖母は父の意向を受けて訪ねて来たのだった。
「オヤジに詫びを入れて、戸籍も戻し、大学を受け直すことにしました」
 仙台市にある、大学受験のための予備校に入学し、薬科大学を目指して勉強を再開することになった。その予備校は全寮制だったので、引っ越す必要があった。
「その時に、必要な家財道具を気仙沼から予備校の寮までオヤジがこのセリカで運んでくれたんです」


 回り道しながらも、無事に薬科大学を卒業し、薬剤師の資格も取得し、亡き生母が経営していた薬局を継いだ。
 現在は薬剤師として忙しく働きつつ、11歳の長女を筆頭に5女1男の子供たちを妻と一緒に育てている。
 あれほど忌み嫌っていた家族という存在や地域との繋がりを大切に思うようになったのは、自分の家族を持ち、震災で大変な目に遭ったからだろう。
「とにかく瓦礫とヘドロの除去作業が大変で、みんなと力を合わせないと何も進みませんでした。否応無しに、気が付けば多くの人たちと会話をし、知り合うようになりました」
 セリカGT-FOURは、弟から譲り受けてすぐに修理を行った。エンジンの点火系統、サスペンションのアーム、スプリングとダンパー、ブッシュ類も交換した。
「オヤジが乗っていた頃のオリジナル状態に戻したいので、ボディ塗装とシートやインテリア、各部のゴム類を交換します」
 東北にはもうじき雪の降る冬が訪れるから、レストア作業は2018年の春になる。
「オヤジのことが好きになったというわけではないけれど、オヤジが愛用していたものを使ってみたくなりました」
 革が破れ掛かったステアリングホイールやシフトレバーなど、まさにお父さんが触って運転していたものを、痕跡を生かしながらうまくレストアできたら良いと僕も思った。その時には、お父さんも草葉の陰からきっと喜んでくれることだろう。

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
Special thanks for TopGear Hong Kong http://www.topgearhk.com


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