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炎の中から蘇った狼

 日産GT-Rが、現代の日本を代表するスポーツカーであることは間違いない。だが、その前身である日産スカイラインGT-Rは少数の例外を除いて日本国内だけでしか販売されていなかった。

 初代の日産スカイラインGT-Rは、1969年に発売された。スカイラインGTという中型4ドアセダンに、日産R380という純粋のレーシングカーに搭載されていた2リッター直列6気筒DOHCエンジンをディチューンして積み、サスペンションやシート、燃料タンクなどモータースポーツ参戦を前提とした専用装備が付け加えられていた。

 一見すると地味な4ドアセダンなのにメカニズムは超高性能なものを内包しているクルマのことを「羊の皮を被った狼」と表現することを日本人は好む。

 しかし、正確にはこのキャッチフレーズは、スカイラインGT-Rの前身に当たるスカイラインGTというクルマに付けられたものだった。
 1964年に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリの優勝するために急遽製造されたのがスカイラインGTだった。
 4気筒エンジンを搭載していたスカイラインのホイールベースを延ばして広げたエンジンルームの中に「グロリアスーパー6」という大型セダン用の6気筒とウエーバーツインチョークキャブレターを3基押し込んで造り上げられたのが”GT”だった。レースに勝つために誂えられた特別な100台限定版だ。
 スカイラインGTはGTⅡ部門でポルシェ904GTS相手に善戦し、1周だけトップを奪ってグランドスタンド前を駆け抜けた。
 純レーシングカーでサラブレッドの904GTSに対して、実用セダンを急遽レース用に仕立て上げたGTがたった1周とは言えリードを奪った事実はサーキットを埋め尽くした大観衆だけでなく、自動車新興国日本の奇跡だと国中を狂喜させた。これが、後に続くスカイライン神話の始まりである。続くGT-Rは国内のツーリングカーレースで48連勝を記録し、神話を不動のものとした。
 こうしたスカイラインGT-Rにまつわる歴史を、日本のクルマ好きはみんな諳んじている。

 四国は香川県在住の植村圭一さん(48歳)も少年時代にスカイライン神話を父親から聞かされて育った一人だった。

「街でGT-Rを見掛けたりすると、”圭一、あれがGT-Rだ”と教えられていました」
 植村さんの父親はスカイラインがとても好きだった。
「当時でもGT-Rは珍しかったので、”おっ、箱スカGT-Rが走ってきたぞ”とか、街で見掛けると親子で見惚れていました」
 植村さんが持っているスカイラインGT-Rは、「箱スカGT-R」と呼ばれている。四角い箱を三つ繋げたような3ボックスタイプだから、”箱のスカイライン”を省略して、”箱スカ”というわけだ。初代箱スカGT-Rは4ドアセダンだったが、植村さんの2代目GT-Rは2ドアのハードトップ。ホイールベースが70ミリ短縮され、Bピラーが省かれた。

 1973年にフルモデルチェンジして登場した次のスカイラインGT-Rはガラリと変えてファストバックスタイルのデザインが採用されたために、当時は箱型シルエットが余計に印象強く感じられたのだろう。言い得て妙である。今では、”hakosuka”と外国のファンの間でも流通する言葉になっている。
 植村さんが箱スカGT-Rを購入したのは1988年のことだった。近くの中古車店の店頭に並べられていたのを、前を通るたびに目にしていた。価格は300万円。安くはなかったが、それまで乗っていたスーパーチャージャー付きのトヨタMR2を手放して購入した。
 その前には同じMR2の自然吸気エンジン版に、さらにその前には三菱ランサーターボGSRに乗っていた。
 箱スカGT-Rは4万2000kmを走行していた個体だった。父親はトヨタ・スプリンターや軽トラックを何台か乗り継いでいたがスカイラインには乗ったことがなかったので、植村さんが購入したことをとても喜んでくれた。
「父親から、”箱スカGT-Rは素晴らしいクルマなんだ”と刷り込まれたのかもしれませんけれども、私はこのカタチが好きなんです。Cピラーからリアフェンダーに続く曲面と曲線は優美なのに、一転してオーバーフェンダーが強く張り出して存在感を主張している。そのコンビネーションの妙がこのクルマの個性となっていますね」
 僕もそれに同感する。普通のスカイライン・ハードトップは女性的とも呼べる優しい造形をしているのに、オーバーフェンダーやリアウイングなどで武装されたGT-Rの外観は極めてマッチョである。その二面性こそが、まさに”羊の皮を被った狼”を体現している。

 植村さんは、箱スカGT-Rの整備を日産プリンス香川販売の高松店に依頼している。同店の神原卓見サービス部長は歴代スカイラインGT-Rのエキスパートとして広く知られている。

 特に6気筒エンジンは1気筒当たり4本の吸排気バルブを持ち、ウエーバーツインチョークキャブレターを3連奏しているために調整が難しく、本来の性能を引き出せていないクルマが少なくなかった。そうしたGT-Rのオーナーたちが、遠く県外からも神原部長の長年の経験とノウハウを頼りにして集まってきていた。
 何度目かの車検を依頼し、完成の報告を受けた後に事件は起こった。2003年のことだった。        
 日本では”車検”という制度によって、乗用車は法律の定めによって新車から3年が経過した時と、以後2年毎に点検と整備を受けなければ公道を走ることができないことになっている。安全性と環境性能の確保のためである。
 無事に車検整備を終えた箱スカGT-Rを植村さんに届けるべく、神原部長は市内を運転していた。
「赤信号で停まった時に、ボンネットの隙間から炎が吹き出しているのが見えたんです。すぐにエンジンを切って、横のスーパーマーケットの駐車場に押して入れました」
 神原部長は119番(消防署)に電話し、消火を行った。幸いに火は広がっておらず、エンジンルーム、ボンネット、ダッシュボードなどが燃えただけで済んだ。
「GT-Rが燃えたという電話を受けた時、”ウソやろ!?”と信じられませんでした」
 神原部長が当時を思い出す。
「出火の原因が何なのか、すぐには頭に思い浮かびませんでした」

 納得いかないのは植村さんだ。車検整備に出したのだから、クルマのコンディションは出す前より良くなっているはずである。それが、コンディションどころか原因不明で燃えるとは何事か。それで整備のプロフェッショナルと言えるのか。
「植村さんと2、3回会って、その度に責められて、精神的に凹んでいました」
 神原部長にしてみれば、車検はあくまで法律で定められた部分を点検整備するもので、それ以上のことは行っていない。ましてや、出火の原因となるようなことなど行うわけがない、と腑に落ちなかった。
 結局、神原部長は第3者の判断を仰ぐべく、植村さんが加入している自動車保険会社でもなく、日産プリンス香川販売が加入している保険会社でもない、第3者的な保険会社に鑑定を依頼した。鑑定の結果は明解なものだった。
「メインハーネスのビニール被覆にブレーキマスターバックのオイル受皿からオイルが染み込み、ワイパーを動かした時に出た火花が着火した、という鑑定結果でした」
 植村さんはこの鑑定結果を受け入れた。しかし、燃えてしまった箱スカGT-Rをどうするかという問題はそのまま残っている。
「元通りにして欲しいというのが私の要望でした」

 今度は、弁護士を同席させての面談が行われた。その時の結論は、「第3者が見て、日産プリンス香川販売に責任はない」というものだった。

 この結論も植村さんは受け入れた。しかし、焼け焦げた箱スカGT-Rをどうするかという問題はそのままだ。
「直して乗り続けるか、別の箱スカGT-Rを探して買うか。あるいは、”VスペックⅡニュル”を買うか?」
 VスペックⅡニュルとは、2002年に販売が終了した5代目スカイラインGT-Rの1000台限定モデルのことだ。
「いろいろ考えましたが、直して乗り続けることにしました。うまく直せるかどうかわかりませんし、別の箱スカGT-RやVスペックⅡN¨urを買えばすぐに乗ることができます。でも、私はこのクルマとともに過ごしてきた15年間という歳月を大切にしたかったのです」
 また、出火の際に神原部長が命の危険を顧みずに消火に当たってくれたことなどもわかって、感謝の思いを抱くようになった。
「植村さん、このクルマは貴重なのだからちゃんと直しましょう。お手伝いさせていただきますから」
 燃えた箱スカGT-Rをレストアすることを提案したのは久保智彦社長だった。若い頃は全日本カート選手権に出場するほどの腕前で、今でもJAF(日本自動車連盟)のモータースポーツ委員会の役員を務めている久保社長もまた箱スカGT-Rを愛する一人だった。モータースポーツ界や日産自動車開発陣に知己も多く、顔も広い。
「怒りの気持ちは少し残っていましたけれども、社長に言われて直して乗り続ける決心が付きました」

 最初のプランは、板金や塗装などを行って燃えたところを修復するというものだった。

「始めてみたら、板金と塗装だけでは済まず、エンジンも降ろさなければならないことがわかってきました。”それならば降ろしたついでにオーバーホールも行ってしまおう”ということになったのです」
 久保社長の発案により、レストア作業はNISMO(日産モータースポーツインターナショナル)に任せることにした。レストアに際して、
植村さんから要望が出されていたからだ。
「燃える前の状態に修復するだけではなく、この際だからふだん使いでも乗りやすいクルマにして欲しい」
 具体的には、エンジン始動の改善、ハイオク指定だったガソリンをレギュラーでも使えるようにすること、ブレーキの強化、エキゾーストマニホールドとマフラーをステンレス製に変更、サスペンションのアライメント調整など全域にわたった。

「エンジンが下され、ボディの塗装が全部剥がされたところでした。サスペンションなどはすでに組み上がっていました」

 フロントガラスやダッシュボード、ウエザーストリップなど、入手が難しくなっていた部品は燃える前から植村さんがインターネットオークションなどで少しづつ買い集めていて、それらをすべてNISMOに送って組み込んでもらった。
 また、なかなか手に入らなかったデフケースなども神原部長が知人から譲ってもらって組み込まれた。その他にも、NISMOのスタッフが個人的に所有していたリアウイングなども譲って持って組み込まれた。

「このクルマには、いろいろな人のGT-Rへの想いが部品という形となって組み込まれているのですよ」
 完成には約1年の歳月と700万円の費用を要した。仕上がりに、植村さんは大満足している。
「要望通り、エンジンが一発でいつでも始動するようになったのには感激しました」
 箱スカGT-Rのエンジン始動には、一定の手順が必要だった。
「キーをONにして、電磁ポンプがカチカチッとガソリンを送り出す音が次第に小さくなっていくのを確認してから、2、3回アクセルペダルを煽ってから、さらにもう一段キーをひねるという”儀式”が必要でした。失敗するとプラグを湿らせてしまい、プラグを外して乾かさなければなりません。掛かってもアイドリングは不安定で、切った時にもアクセルペダルを一回煽って混合気を次の始動のためにシリンダーの中に送り込んでおかなければなりませんでした」
 そんな複雑な手順はもう要らなくなった。現代のクルマと同じように、ただキーを回して始動させれば安定してアイドリングを続ける。
「以前は高速道路を100km/hで走っているとハンドルがブレ続けて怖かったけれども、それがなくなりました。とても安定していますね」

 高松市内から少し離れた山の上の公園まで出掛けた。穏やかな瀬戸内海を眼下に見下ろす峠道を走った。確かに、ウエーバーキャブレターからの吸気音や24本のバルブが駆動される高周波音、野太い排気音などが助手席にも響いてくる。箱スカGT-Rのレーシングドライバーはサーキットで、こういう音を聞いていたのだろうか。ちなみに標準のキャブレターはソレックスだったが、レストアの際にウエーバーに交換された。

 植村さんがペースを上げて峠道を駆け上がっていくと、箱スカGT-Rは轍のある路面でハンドルを左右に取られた。
「いま履いている205というサイズのタイヤが太過ぎるので、次はワンサイズ細いタイヤを替えるつもりです」

 植村さんは箱スカGT-Rを新車と同じように蘇らせることに興味はない。現代の交通環境下で日常的に乗れることを目指して、それをほぼ実現している。レストア後も、オリジナルには設定されていなかったパワーステアリングや車高調整式のダンパーなどを誂えて組み込んでいる。
「意味もなくオリジナルにこだわっていたら、安全に安心して乗ることはできませんからね」
 その意味で、不幸にも燃えてしまったことが本格的なレストアにつながり、植村さんの箱スカGT-Rへの想いが深まったのではないだろうか。
「そうかもしれませんね。燃えなかったら、手放していたかもしれません。レストアしたことで、気持ちは高ぶりましたから」
 狼は炎の中から蘇ったのである。

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂、photo/TAMARU Mizuho(STUDIO VERTICAL)

Special thanks・『TopGear』HongKong

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)

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