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箱スカGT-Rを25年間1ミリも動かさなかった理由

日産スカイラインGT-R(1971年型)

Nissan Skyline GT-R(1971)


 東北地方のイベントに怖ろしく程度の良い箱スカGT-Rが現れたという噂は、2016年秋頃から耳にしていた。
 箱スカとは、ご存知の通り、日産スカイラインの通称だ。まるで箱のように四角く見えることから、“箱のようなスカイライン”が縮められ、親しみを込めて呼ばれるようになった。今では、英語圏のマニアの間でも“hakosuka”で通じるようになった。
 そのGT-R版なのだから、とても貴重でカリマティックであることは言うまでもない。噂が駆け巡るのも当然だ。


 箱スカGT-Rは当時のツーリングカーレースに勝つために造られ、エンジンは日産のプロトタイプレーシングカー「R380」用をディチューンした「S20」型を搭載している。2.0リッター直列6気筒DOHC24バルブという当時としてはレース用でしか用いられなかった高度なメカニズムを持っていた。
 エアコンはおろか、ヒーターやラジオですらオプショナル装備だった。マーケティングのためでなく、本当にこのクルマでレース参戦するつもりがある人に向けてだけ開発され、製造された。そうした時代の、そうしたクルマだった。
 僕もその姿を早く見てみたいと願っていたら、東北地方の友人がイベントで見て、オーナーと話をしたと聞いたのが2017年に入ってからのことだった。東北は冬が長く夏が短いから、クラシックカー関連のイベントは夏に集中して開催される。僕の友人も岩手県八幡平のイベントに参加していて、GT-Rと一緒になった。

 教えてもらった電話番号に掛けると、相手は噂の箱スカGT-Rのオーナーに間違いなかった。GT-Rは1971年型の2ドアハードトップで、走行距離がまだたったの2万6000km。1977年に、走行1万7000kmの程度極上だったGT-Rを購入した。
「2016年まで25年間、ずっとガレージに仕舞っておいて、1ミリも動かしていませんでした」
 オーナーである青木 実さん(63歳)と妻の美代子さん夫妻は、電話口で彼らのGT-Rについて親切に教えてくれた。
 ちょうど一か月後に岩手県立博物館でイベントがあるので、そこで会いましょうということになった。
 その日。季節外れの台風の影響で雨が降ったり止んだりしていたが、博物館の中庭にはすでに20台あまりのクラシックカーが集まってきていた。
 青木さんは電話で「雨の日には乗ったことがない」と言っていたけれども、箱スカGT-Rはすでに来ていた。遠くからでもすぐにわかった。
 挨拶もそこそこに箱スカGT-Rを見せてもらうと、噂以上に素晴らしいコンディションだった。とても46年前に造られたクルマには思えないほど、ピカピカで艶々だった。まるで、日産のワークスレーシングチームの倉庫からタイムマシンで舞い降りて来たようだ。


 霧雨がボディの上で細かな粒となって弾かれている。フロントグリルやヘッドライトリング、テールライトのモール、クロムメッキされた前後バンパーなどにも一点の曇りもない。
 S20エンジンが収まっているボンネットの中にも、ホコリやシミなどが付いていない。車内も驚異的に綺麗で、時の経過を感じさせるものがない。黒いシートは艶やかで、傷や擦れなどもない。トランクルームも荷物を載せた形跡が認められない。
 極め付けは、右側リアのサイドウインドウに貼られていた完成検査済みシール。もうずいぶんと、「済」という文字が使われていたが、なんとこのクルマには古い文字である「濟」が貼られていた。それだけ古さが保たれている。
 とにかく、ここまで新車当時のコンディションを保っている半世紀近く昔のクルマを見たことがない。ましてや、単に古いだけでなく貴重なGT-Rなのである。
 長く自動車整備士を務めてきた実さんの手によって、箱スカGT-Rは整備を受けている部分が少なくない。キャブレター、オルタネーター、セルモーターなどはすべてオリジナルパーツを使って仕上げられている。エンジンとトランスミッションはそれぞれのオイルを抜いて灯油で洗浄し、組み直した。ブレーキパイプを固定する金具とネジは安全を考え、全部新品に交換されている。
 最も手間が掛かったのがガソリンタンクだった。タンクを切断してこびり付いていた古いガソリンとサビを落とし、洗浄を繰り返してコーティングを施した。


 実さんは箱スカGT-Rを知り尽くしている。美代子さんも、それを微笑みながら見守っている。聞けば、お二人は同じ高校に通っていて、美代子さんの方が一学年上級だった。卒業後、21歳で結婚。実さんは自動車整備士、美代子さんは看護師として働いていた。
 実さんは子供の頃からクルマが好きで、18歳で運転免許を取得。箱スカを4台乗り継いだ。4ドアセダンのGT、同GT-R、2ドアハードトップのGT-Xと GT-R。他にも、トヨタ・セリカ1600GTやホンダ1300クーペ9、マツダRX-3や同ファミリア・ロータリークーペ、同コスモスポーツなどに乗った。日産フェアレディも3台乗った。フェアレディではジムカーナやダートトライアルに出場し、モータースポーツにのめり込んでいた。
 一緒に出掛けていた美代子さんも走りたくなり、実さんが手ほどきした。
「僕が運転を教えたんだけど、しばらくすると速いタイムを出されて、負けちゃってた。ワハハハハハッ」


 箱スカGT-Rも、東京に一緒に買いに行った。現在のように高速道路が整備されていなかったから、東京へは何時間も一般道を延々と走り続けてこなければならなかった。でも、二人は若かったから苦にならなかっただろう。
「どの店にどんなクルマが在庫されているかは、それまでの経験からだいたいわかっていました」
 目当てのGT-Rはあった。しかし、店が売らないという。当時ですら、手放したら二度と手に入らない貴重なものだったからだ。
「その店には、他のGT-Rも並んでいましたけど、このGT-Rの程度の良さは全くの別物でした。どこも錆びておらず、修復したような痕跡もありませんでした」
 それまで4台の箱スカに乗ってきたし、プロの整備士の眼はごまかせなかった。
「“いくらでも出すから、売って欲しい”と粘ったら、ようやく売ってくれることになりました」
 380万円だった。1971年の新車時の価格が154万円だったから、コンディションの良さが価格に上乗せされていた。
 その時に乗って行ったポルシェ914を売り、不足分を足して買った。
「猫や馬、ウサギの(形をした陶器製の)貯金箱を割って、ふたりでお金を工面して買ったんですよ」
 美代子さんも、当時のことを良く憶えている。夫婦の仲の良さは昔から変わらないようだ。素晴らしいコンディションの箱スカGT-Rと仲睦まじい夫婦。こうしてイベントに参加する姿はクルマ好きにとっての幸せの姿そのものではないか。


 それにしても、なぜ、青木さん夫妻は25年間もこの箱スカGT-Rを動かさなかったのだろうか?
「仕事も忙しかったし、子育ても大変だった。だから、それらが一段落するまでは仕舞っておくことにしたのです」
 実さんは43歳の時にバスの運転手に転職したから、新しい仕事に慣れる時間も必要だったのだろう。
「“やがて引退したら、また乗ろう”と話していました」
 2016年6月に、岩手県八幡平で開催されたクラシックカーのイベントが25年ぶりに箱スカGT-Rで青木さんが出掛ける最初の目的地となった。
「いま、東北でもあちこちでクラシックカーのイベントが開かれるようになり、いろいろな箱スカGT-Rが展示されています。中には改造されているものやオリジナルに忠実ではないものも見られます。でも、私は、“これが本当のGT-Rなんだよ”って、みんなに知ってもらいたくなったんです」
 確かに、箱スカGT-Rは改造されているものが少なくない。
「例えば、オリジナルではオーバーフェンダーは後輪だけに付いているものなのですよ」
 前後輪すべてに付いている方がもっともらしく見えるし、レーシングマシンの中には4輪すべてに付いているものもあった。しかし、オリジナルは後輪だけなのである。
「ホイールも、オリジナルは黒い鉄です。アルミではありません」
 オリジナルを見たことのない人には、どこまでが改造なのか判断が付かなくなる。せっかく完全無改造のクルマを持っているのだから、青木さんはそれを披露しようという気になったのだ。


 子供も、現在、娘は30歳。孫たちは6歳と2歳に育った。実さんは病院の用務員として、美代子さんは老人介護認定調査員として地域のために働いている。
「他に楽しみもなくなってきたから、そろそろウチのGT-Rも起こすか?という気持ちになりましてね」
 雨が再び降り始めてきたので、実さんと美代子さんは他の参加者たちよりもひと足早く博物館を後にした。僕と田丸カメラマンは後を付いていくことにした。市内を抜け、ペースを上げると、前を走る箱スカGT-Rのマフラーから快音が聞こえてくる。ある回転域から上に入ると、音域が上に広がり、甲高い音が辺りを切り裂く。昔のレーシングエンジンに特徴的なサウンドだ。
 雨がだいぶ強まって来て、後ろを走っていてもしぶきで箱スカGT-Rが見えなくなる。郊外の一般道と高速道路を1時間ほど走り、自宅に近付いたところで、実さんはガソリンスタンドに寄った。箱スカGT-Rをリフトで上げ、マフラーなどの下回りをチェックする。異常がないと再び発進し、自宅に戻った。すでに陽が暮れて、辺りはすでに真っ暗だった。母屋の右隣には娘夫婦の家が、左隣にはガレージが立っていた。


 リビングルームにお邪魔して、若い頃の写真を見せてもらった。箱スカGT-Rに乗る前の、セリカ1600GTやフェアレディと一緒に写っている二人が若々しい。
「ラブラブですね~」
 写真を見ながら僕が冷やかすと、実さんと美代子さんは顔を見合わせ、急に真剣な表情で僕に向き合ってきた。
「カネコさん。博物館からここまで走ってくる間の車内で、二人で決めました。“本当のことを話そう”って」
 ええっ、“本当のこと”ですか!?
「はい。GT-Rを25年間1ミリも動かさなかった理由を、“仕事が忙しく、育児が大変だったから”と博物館では話しました。確かにそうなんですけれども、それだけではなくて……」
「“それだけではない”と言いますと何があったのですか?」
「“青木 実”と“読売新聞”で検索してみて下さい」
 その場でグーグル検索してみると、30年前の新聞記事がヒットした。それによると、青木さん夫妻の一人娘は日本で初めて体外授精によって授かった命だった。実さんと美代子さんには結婚以来12年間子供ができず、さまざまな治療を試みた。それでも上手く運ばず、体外授精を研究していた大学教授の指導の元に施術を受ける決心をし、願い通りに娘が生まれた。
「当時は体外授精に対する無理解と偏見が強かったので、私たちもいろいろと言われました。知り合いから酷い言葉を掛けられ、泣いたことも何度もありました。メディアにも不当に追い掛けられ、誤解と偏見に満ちた記事を書かれたりしました。メディアに対して警戒する気持ちが今でも強いんです。だから、博物館では当たり障りのないことしかお話ししませんでした」
 そういうことだったんですか。知りませんでした。

 でも、GT-Rとは関係ありませんよね?
「そうでもないんです。娘が生まれてしばらくはGT-Rに乗せていたんですよ。でも、乗せる度に“ウルチャイ、ウルチャイ”(注:「うるさい」の赤ん坊言葉)って嫌がるようになったから、車検を継続することを一度止めることにしたんです」
 日本で初めて体外授精で生まれたわけだから症例がなく、育児には慎重にならざるを得なかっただろう。箱スカGT-Rをうるさがらなかったとしても、果たしてこの子が元気良く成長してくれるのかどうか、とても心配だったはずだ。クルマ趣味は一時休止して、全身全霊を以て育児に取り組まなければならないと決意したに違いない。
「ええ。幸いに娘はすくすくと育ち、高校ではゴルフ部に入り、日本全国を試合で転戦するまでになりました。その頃の私たちの生き甲斐は娘の応援でしたから、ミニバンで娘の試合を追い掛けて全国を回っていました」
 美代子さんが「1ミリも」と箱スカGT-Rを動かしていないことを強調したのは、ようやっと授かった娘の育児に全力投球したことの表現だろう。同じ立場に立ったら、誰だってそうしたはずだ。
「娘が生まれるまで、私たちの宝はGT-Rでした。でも、娘が生まれてからは、宝は娘に換わったのです。」
 前述の通り、その娘さんも今では2児の母親だ。
「私たちも若くはありません。だったら、運転できるうちに本当のGT-Rの姿を皆さんに見ていただこうかと、初めて昨年の八幡平のイベントに参加することにしたんです」
 その後、東北のもう一つのイベントに参加し、岩手県立博物館に行ったのは3回目のイベント参加となった。
「ああ、すべてお話しできて良かったです」
 いえいえ、お礼を申し上げるのは僕の方です。
「じゃあ、ご飯食べに行きましょう!」
 東北の秋の味覚を楽しみながら僕らは大いに打ち解け、盃を重ねていった。

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久 text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
Special thanks for TopGear Hong Kong http://www.topgearhk.com


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