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発表前に売り切れた限定499台1億7000万円のフェラーリ


 2013年2月14日、フェラーリ社に招待された。その数カ月前に受け取った招待状には、「あなたを、F150プロジェクト・プライベートプレビューに招待します。ホテルと食事はこちらで用意しますので、前日の2月13日にミラノ・リナーテ空港までお越し下さい」とだけ記されていた。

「F150プロジェクトというのが”エンツォ”の後継車であろうということは予想が付きましたから、すぐにチケットを手配しました」
 翌14日、ホテルに迎えが来て、マラネロのフェラーリ社に着くと、広いホールに通された。向かい側にフェラーリ社の幹部役員がズラリと座り、プレゼンテーションが始まった。

「プレゼンテーションで強調されていたのは、F150のモノコックシャシーは4種類の異なったカーボンを組み合わされている点でした。ライバルとなる、ポルシェ917スパイダーやマクラーレンP1などとは違って、適材適所のカーボンを用いていると言っていました」

 性能面についても説明があった。F150は6.3リッターV12(800ps)エンジンに電気モーター(163ps)を組み合わせた「HY-KERS」と呼ばれるハイブリッドシステムをミッドに搭載している。最高速度350km/h以上、0-100km/h加速3.0秒以下。
「”最高速や0-100km/h加速の数値だけをアピールしても意味がないし、もうそれを競う時代ではない”とも言っていましたね」
 説明がひと通り終わり、イメージビデオの再生が終了すると、ステージ上のターンテーブルが回って、奥からF150が登場した。
「このクルマは499台しか造りません!」
 司会者からコメントがあり、プレゼンテーションは終了した。

 このF150が「ラ・フェラーリ」として世界に正式発表されるのは20日後の3月5日、スイス・ジュネーブでのモーターショー会場でだった。
 筆者は、この時のジュネーブでの発表に立ち会っていたが、当時のフェラーリ会長のルカ・モンテゼモロ会長はいつもの巻き舌の英語でスピーチを行い、美辞麗句で自画自賛した後、すでにすべて売り切れていることを付け加えた。
 発表時に売り切れているということは、つまり小林昌良さん(55歳)のような上得意客に事前に披露して注文を取り、限定台数を売り切ってしまうというフェラーリのスペチアーレ(特別限定車)のいつもの手法だった。
 日本への輸送費やボディ保護のための特別のラッピングなど、すべてを含んだ価格は110万ユーロ。フェラーリ社へは、注文時にその30%、完成時に20%、2015年1月末の納車時に50%を振り込んだ。総額約1億7000万円。
小林さんにとってのフェラーリは、360モデナから始まる。その後、430スクーデリア、458スペチアーレ、458スパイダー、612スカリエッティ、599GTO、FFと次々と乗り変えていき、現在の348とラ・フェラーリに。

 小林さんは長野県千曲市を本拠地にする実業家で、服の製造販売や飲食店の経営、イベントの開催などの事業を幅広く展開している。
 中でも最も有名なのは、『フラットヘッド』というアメリカンカジュアルウェアのブランドだ。ジーンズ、Tシャツ、アロハシャツ、スウェットシャツ、革ジャン、その他を製造販売している。
 フラットヘッドの製品は、現在、世界21か国37店舗で販売されているから、この記事を読んでいる香港や中国の読者諸兄姉もご存知かもしれない。とにかく、どの製品もその凝りようが尋常ではないのだ。そのすべてをここに紹介できないのが残念だが、その範囲が広く、奥も深い。ひとつだけ紹介させてもらえば、ジーンズの染色についてだ。
 フラットヘッドのジーンズは糸を染料のプールに20回以上も漬けたり出したりされて完成する。こんなに多くの回数を行うジーンズは他にない。製造コストを削るために、せいぜい十数回だ。それもプールの深いところまでジーンズを沈め、水圧で繊維に染料を浸透させてしまう。それでは簡単に紺色に染まりはするが、色落ちが楽しめない。
 フラットヘッド製ジーンズが染料プールの浅いところまでで20回以上も出し入れをしているのは、キメ細かく色落ちが楽しむためだ。同じモデルによっても、履き方によって違って段々と色落ちしてくるというから一度履いてみたくなるではないか。
「自分だけの一本を育てていくつもりで履いてみて下さい」

 小林さんに初めて会った時から、質問してみたいことがあった。それは、フラットヘッドで展開しているアメリカンカジュアルファッションとフェラーリが、僕にはどうしてもひとつに融合しないのだ。考え方もセンスも、時代背景もすべて別のものではないのか?
 小林さんの中では矛盾は生じないのか?
「矛盾しませんよ。僕の原点はいくつもあって、映画『アメリカングラフィティ』と漫画の『サーキットの狼』は特に思い入れがあります」
 なるほど!
 ジョージ・ルーカス監督の1973年のメジャーデビュー作である『アメリカングラフィティ』は、1962年のカリフォルニアのモデストという田舎町の高校生の一夜を、当時のファッションとクルマと音楽をふんだんに盛り込んで描いた青春映画の名作である。
 たった11年前の近過去を振り返り、結果的に1960年代前半のアメリカの白人の若者文化を「フィフティーズ」や「オールディーズ」と懐かしがってカテゴライズすることになった映画史上最初の作品として有名だ。
 映画が撮影された頃の現実のアメリカでは、ベトナム戦争も終結しておらず泥沼化し、国内においては人種差別による争いが深刻化し、経済も疲弊していた。
 現実があまりにも酷い状況であったからこそ、アメリカ人にとっては映画があまりにも甘く切なく観えたのではないだろうか。作中に、有色人種はひとりも登場しない。

 一方の漫画『サーキットの狼』も日本では有名だ。1975年から「週刊少年ジャンプ」に連載され、青少年たちの間にスーパーカーブームを巻き起こすキッカケとなった。
 この漫画で、日本の少年たちはヨーロッパには300km/hにも迫る最高速を出し、ため息が出るほど美しいボディを持ったスーパーカーなるものが多数存在していることを知った。フェラーリやランボルギーニのショールームに詰め掛け、高速道路のランプウェイで一日中カメラを構えて写真を撮影していた。”スーパーカーショー”なる即席のイベントが全国各地の体育館や野球場などで行われ、どこも超満員だった。

 スーパーカーブームと出会い、そこから自動車そのものへの興味と関心を膨らませていった少年たちは多い。小林さんもその一人だったのだ。高校を3年で中退し、日産サニーでフレッシュマンレースに出場するためにカラオケスナックを開業し資金を貯めた。
「当時は景気が良くて儲かりました」
 貯まった資金でダートトライアルに出場するようになったが徐々に経営が忙しくなり、レースにも出れなくなっていったが、車は好きだった事もあり、23歳でポルシェ911SとTの2台を持った。
「レースの資金を作るという本来の目的を忘れ、調子に乗って2軒目を出したのが失敗しました。」
 多額の負債を抱えた。損害保険の外交セールスマンとして再出発したのが26歳。三年半で借金を返済し、アメリカンカジュアルファッションの仕事を並行して始めた。
 まずはロスアンジェルスに渡って300万円分の古着を買い集めてきた。それを売り始めたところから、今の小林さんの成功は始まっている。
「まだ、僕は途上にありますから成功とは思っていません」
 現在、従業員は120名。カフェとレストランでも凝りっぷりは変わらず、使っている食材のほとんどすべてを地元千曲市産か長野県産のものを使っている。フローズンヨーグルトは美味しく、生きている乳酸菌の量が多いものにするために、大量には作れない。料理に使う醤油と味噌も地元の農家に作ってもらっている。
 イベント事業もいろいろと手掛けていて、最も大きなものは9月初頭に、長野市内のエムウェーブという長野オリンピックのために造られた大きな競技場を使って2日間行われる「スーパーウィークエンド」だ。ラ・フェラーリを始めとするスーパーカーやクラシックカーの展示、音楽ライブ、フードマーケット、フリーマーケットなど盛りだくさんだ。
「家族連れで楽しめるイベントにしますよ」

 小林さんは、いったい何を目指しているのか?

「自分で作りたいモノを作るだけですよ。強い信念を持って作り続けていれば、結果的に売れるものになっていきます」
 この自信や根拠は、どこから来るものなのだろうか。
「今まで、すべて”ないところから始めて”きて、あまり他人に何かを教わったりしたことがありません。自分で調べ、自分で手を動かすことから始めてきました。小学生の頃からミシンでトレパンやジーンズを縫っていたし、自分でチャーハンを炒めて食べていましたから」
 祖父の代までは裕福だったが、両親の代になると、決して豊かではなかったという。
「だから、最初に乗った自転車は質屋で買ってもらったものでした」
 構えたり、様子を伺ったりすることなく、自分で切り開いていくのが小林流だ。古着を仕入れるために初めてアメリカを訪れた時もまったく英語が喋れなかったが、必要となるであろう文章を144本、まず日本語で定め、それを英訳したものを1年かけて風呂とトイレで憶えて身に付けていった。
 語学学校に入学するとか、既存のシステムに頼るのではなく、まず自分の頭で考え、手を動かす。そこから突き詰めていく。それは英語の習得でも、ジーンズ作りでも変わらない。人生に立ち向かう姿勢も、きっと変わらないのだろう。

 会社の業績を牽引しているのはアパレル部門だが、3か月前に自身の携わる業務の割合を、原点であるアパレル中心に切り替えた。軌道に乗り始めた飲食部門などは他の社員を代表者にして任せることにしたのだ。
「アイテム数を半減させますが、売り上げは倍増してみせますよ」
 最近のカジュアルファッションの分野では、製品が日本製であることが重要視されている。アメリカで生まれたアメリカンカジュアルファッションが日本で独自の進化を遂げたからだ。
「日本製であることが大事なのではありません。日本で造るからこそできるモノ作りが大事なのです」
 小林さんの作っている服は、範を求めた往時のアメリカのものを大きく超えている。同じジーンズであっても、まったく異なった志によって作られている。熱意と愛情の賜物だ。小林さんが次に送り出してくるものに注目したい。

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)

文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂、photo/TAMARU Mizuho(Studio Vertical)
Special thanks for TopGear Hong Kong 


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