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往年のHONDAイズムに想いを馳せる三兄弟

HONDA 1300 77S(1969年型)

 兄弟が揃って健康で、仲が良ければ言うことはない。
 神奈川県横浜市に住む佐伯隆夫さん(77歳)は3人兄弟の真ん中で、兄や弟と今でも仲が良い。共通の話題はクルマだ。
 始まりは、67年前にまで遡る。佐伯さんが小学校3年生、10歳の時だ。近所の人が「陸王」というオートバイに乗っていた。
「ガソリンの匂いとVツインエンジンの排気音がなんともたまらなくて、その時から乗り物好きになりました」
 陸王は戦前に日本で創業された2輪車メーカーで、Vツインエンジンを搭載した大型オートバイを得意としていた。戦後の一時期までは警察の白バイに採用されていたこともあった。
 サラリーマンだった兄が会社の上司から、日産がオースチンを日本でノックダウン生産したA50を譲り受けたのが1966年。A50は1960年で製造を終了しているから、かなりの年季ものだ。


 1967年にトヨタ・コロナを新車で購入し、1969年にホンダ1300 77Sに買い換えた。そのホンダ1300 77Sに佐伯さんは今でも乗り続けている。
 1969年製だから、今から48年も前のクルマだ。なぜ、そんなに昔のクルマに乗り続けているのか?
「やっぱり、兄弟3人がクルマ好きだったから、今でも持っていたいんでしょうね」
 48年という歴史の重みの割には、佐伯さんは淡々と語る。“どうしても、このクルマでなければ”と言ったような特別に強い思い入れなどがあるようには聞こえない。
 では、まだコロナだって乗れたのにもかかわらず、ホンダ1300に買い換えたのだろうか?
「当時、クルマに詳しかった弟が“たった1300ccで100馬力の空冷エンジンを載せたスゴい新型がホンダから出た。これに買い換えよう”と、強く兄に勧めたのです」
 100馬力を可能にしたのは、ホンダの2輪由来の高回転エンジンだった。最高出力は、なんと7200回転で発生していた。
「トヨタや日産だって、1300ccでこんなに馬力は出ていなかったですよ」
 ホンダ1300は、ホンダの創業者で、当時まだ社長を第一線で務めていた本田宗一郎氏
の強い意向で開発が始まり、発売に漕ぎ着けた。
 その意向というのは、「水冷方式だって、その冷却水を冷やすのは空気なのだから、直接的に空気でエンジンを冷やす空冷の方がシンプルで理にかなっている」という理屈だった。
 エンジンフードを開けてもらうと、左側に大きな金属製のエンジンオイルタンクが真っ先に眼に入ってきた。「エンジンオイル」と日本語のカタカナと英語で併記されている。エンジンを回すと、パイプからエンジンオイルが還流してくるのが見えた。
 また、エンジンブロックを真横から眺めると、シリンダーのフィンがオートバイのように見えている。シリンダーを金属製の薄い壁で囲んでいるから、空冷方式特有の騒音を低く抑えることに成功している。


 2輪だけでなく、4輪のエンジンも空冷にすれば万事うまく運ぶというのは、いかにも本田氏らしい発想だ。本田氏は、その発想をホンダ1300で留めることなく、当時参戦中だったフォーミュラ1マシンにまでも導入した。
 本田氏は、これだと決めたら一歩も引かず、猪突猛進する。そのエネルギーが困難な状況を突破することもあれば、そうとばかりは限らないこともあった。
 それまで水冷エンジンを搭載したマシンでシーズンを悪くない戦績を納めていたところに、突然のように空冷エンジンを割り込ませ、ひとつのチームで冷却方式が異なる2台のマシンを走らせるという“暴挙”を断行した。悪い時には悪いことが重なるもので、1968年のフランスグランプリで空冷エンジンを積むホンダRA302はレース中にクラッシュ。ドライバーのジョー・シュレッサーは死亡。
 ホンダ1300にも試練が待ち受けていた。小排気量から高出力を発揮でき、重量を軽減し、メインテナンスも簡単になるというメリット以上に、厳しさを増してきた排ガス規制をパスするための制御が行いにくいという空冷エンジンのデメリットの方が上回っていった。
 4つのキャブレターを装着して115馬力を発生させた「99」なども発売されたが、空冷エンジンは1972年で製造を中止された。その代わりに水冷の4気筒エンジンを搭載された、いわば折衷版の「ホンダ145」が代わりに製造されたが、空冷エンジンほどにハイパワーでも高回転型でもなかったが故に、人気を得るまでにいたらず、すぐに姿を消した。
 ホンダ1300は、“なにごとも常識にとらわれずに果敢にチャレンジする”という本田宗一郎イズムが発揮されたクルマだったが、完全に時代の潮流を読み間違えた結果、悲劇とともに舞台から退かざるを得なかったのが残念だ。
 そんなホンダの昔話は、僕もリアルタイムで知っていたわけではない。すべて後から読んだり聞いたりしたものばかりだ。


 ホンダ1300は佐伯さん家族のクルマだったが、就職して名古屋に転勤した弟が一時期、名古屋に持って行って乗っていたことがあった。
「弟は、毎月、名古屋からこのクルマを運転して帰ってきていました」
 名古屋からだと片道約300kmある。
「弟は、いつも東名高速道路の静岡出口から御殿場出口に掛けての長い登り坂で、排気量の勝るマツダ・サバンナやコロナGTなどをブチ抜いてきたと豪語していましたよ。ハハハハハハハッ」
 富士山の麓に当たるその区間は長くて急な上り坂がずっと続いている。走行車線はトラックが溢れていて、それらを抜こうと追い越し車線に出てもパワーのないクルマだと四苦八苦してしまう。
 弟さんは速かったサバンナやコロナGTなどと競うように駆け上がり、排気量が小さいながらもパワーとテクニックで先んじることに喜びを感じていたのだろう。
 3兄弟はそれぞれ独立し、家庭を持った。ホンダ1300は佐伯さんが管理することになった。
 佐伯さんもずっとサラリーマンだったので、会社には電車で通っていた。だから、ホンダ1300に毎日乗ることはなかった。それでも手放すことは考えなかったという。
「クルマって、走れないと持っていても意味がないでしょう? だから、乗らなくても、いつでも走れるように整備だけは怠らないようにしていたんです」
 しかし、それほど強い気持ちがあったわけではない。休みの日に出掛けるのに便利だというくらいの気持ちで持っていた。本田宗一郎氏の目論見通り、故障もなく維持費も少なくて済んだということもあった。
 しかし、買ってから10年を過ぎた時に、乗り続けることを強く決意させることが起こった。その頃は、まだ車検の期限が現在よりも短く、新車から10年を経たクルマは1年に一回車検を受けなければならなかった。
 ちなみに、日本の車検というのは法律で定められた項目を指定工場や役所で受けなければならない検査のことを指している。当然、その検査にパスしなければ登録は更新されないから、指定工場での整備が伴う。
 現在では法律が改正されて、新車から3年後に1回目の車検が行われ、以後は2年ごとに受けなければならない。
 1年に一度の車検はユーザーの費用負担が小さくないから、佐伯さんは初めてホンダ1300を手放して他のクルマに買い換えることを考えた。
 近くのトヨタのディーラーを訪れ、トヨタ車に乗り換えようかとセールスマンに相談すると、そのセールスマンの口から信じられない言葉が出てきた。
「お客様のホンダ1300を下取りすると、5000円です」
 最初は、5万円の聞き間違いではないかと自分の耳を疑った。いくら、今から38年前にしても安過ぎる。下取り価格5000円というのは中古車として売られるのではなく、スクラップを意味していた。
「どこも故障していなくて、ちゃんと走るクルマがスクラップにされてしまうなんて、間違っている」
 憤った佐伯さんは、乗り続けようと決意した。


 いくつかの会社に勤め、最後の会社では役員として迎えられた。好景気と好調な業績を反映して、会社からは佐伯さんにトヨタ・クラウンV8が与えられた。通常は6気筒エンジンが搭載されるクラウンにV8エンジンを載せた高級版である。それでも、たまにはホンダ1300に乗っていた。
 2年に一度開催される東京モーターショー
には、時々出掛けていた。1999年のショーでホンダのブースを訪れると、NSXが展示されていた。
「“まだ造っているんですか?”とホンダのスタッフに何気なく訊ねたら、“大丈夫ですよ”とすっかり買う気があるような人に思われたんです」
 NSXのことはもちろん良く知っていたが、自分が買うなんて考えたこともなかった。
「10年間もずっと造り続けられているNSXを見て、欲しくなってしまったんですね。他のクルマに眼もくれずに、ずっとホンダ1300に乗り続けてきたのだから、ちょっとぐらい高価なクルマに乗ってもいいんじゃないかなって」
 自分への褒美という意味合いもあったのではないだろうか。仕事からの引退も視野に入っていた頃だ。兄に相談すると、ホンダに勤務する知人を紹介してくれ、その人の勧めでTバールーフの「NSX タイプT」を選んだ。
「横浜のホンダディーラーも紹介してくれ、900万円分の札束を持って契約しに行きましたよ」
 1120万円の価格から100万円も値引きしてくれた。
 ホンダはNSXオーナーのために、鈴鹿サーキットやツインリンクもてぎで頻繁にオーナーズミーティングを開催した。ミーティングではレーシングコースを使ったドライビングレッスンが行われ、夜はサーキットホテルで懇親パーティが催された。1泊2日のスケジュールで、レッスン料から宿泊代、パーティ参加費などすべて含めて、料金は一人10万円だった。
「運転を教わるいい機会だし、ふだんは公道では出し切れないNSXの性能をフルに引き出すことができるのが楽しくて、鈴鹿に3回、もてぎに3回参加しました」
 妻の実家がある岩手県の一関市まで、年に一、二回、NSXを運転して行く。横浜からだと片道500km弱あるが、NSXならば苦ではない。
「東北自動車道を走って行きますが、高速での安定感がとても高いので、快適そのものです」


 NSXを購入した2000年に、佐伯さんは自宅を建て直した。凝り性の大工の勧めで建てたら、写真の通りの素敵な2階屋ができた。    
 妻のトシコさんと二人暮らしなので、二階の入り口を独立させ、「よこはまファミリーハウス」という滞在施設を造った。近くにある県立こども医療センターに入院する子供の家族が宿泊するための個室が3部屋あって、格安で宿泊することができる。
 県立こども医療センターは難病を持つ子供たちに高度先進医療を受診させるための病院で、患者は日本全国と海外からも来る。「よこはまファミリーハウス」は、その付き添いの家族のための宿泊施設だ。病院は街から外れた丘陵地帯にあるので付近にホテルは存在しない。横浜の街中にホテルはたくさんあるが、通うには遠く、経済的負担も大きくなる。
「不慣れな土地での闘病生活は心細いものです。入院のその日から病院の近くに滞在し、治療に専念していただくことが願いです。そして、皆様のお気持ちが少しでも軽くなることが私たちの喜びです」(パンフレットから)
 県や国から委託を受けているわけではなく、自発的に佐伯さん夫妻がボランティアとして始めた。もともと、ホンダ1300を購入した1969年の翌年からトシコさんがこども医療センターに事務職として勤務していて、その様子を良く知っていたからだった。他にそうした施設はなく、つねに満室の状態が続いたので、2009年には寄付を募って、より大きな「リラの家」をオープンさせた。こちらも、すべて佐伯さん夫妻とボランティアスタッフたちによって運営されている。
 利益を目的としているわけではないから、時には支出が収入を上回ってしまうこともある。その差額は、そのまま佐伯さん夫妻が負担している。
「人助けになるならいいんじゃないかと二人で納得しています」
 心が洗われた。48年前のホンダ1300に惹かれて訪れた佐伯さんのカッコいい家が、そんな人助けに使われているなんて想像すらしていなかった。生半可な気持ちで続けられる活動ではない。頭が下がる思いがする。
 季節にはまだ早いが、佐伯邸の庭にはバラの花が咲く。
「NSXで園芸店にバラの苗や肥料を買いに行ったりしていますよ」
 ホンダ1300もなるべく動かすようにしているから、コンディションは万全だ。僕らが訪れた時も一発でエンジンが掛かり、軽快に付近を走っていた。今でも時々、兄弟を乗せることがある。2010年には、兄弟3人でイギリスへ出掛け、オートバイのマン島TTレースを観戦してきた。
「練習日に、レンタカーで1周60kmの公道コースを2周したのが楽しかったですね」
 元気で仲良く、乗り物が好き。佐伯兄弟はずっとそれを続けている。

(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho
Special thanks for TopGear Hong Kong http://www.topgearhk.com


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