見出し画像

幻のレーシングドライバー、式場壮吉インタビュー

 このテキストノートは、5月16日に77歳で逝去された式場壮吉さんのロングインタビューです。2007年に発行された『日本の名レース100選』(三栄書房)のためにお応えいただいたものですが、今までほとんど語られなかった第2回日本グランプリでポルシェ904カレラGTSに乗った経緯を詳細に話されています。

 どこまでも優しく、カッコ良い人でした。日本にもこんな紳士がいたことを一人でも多くの人に知ってもらいたい。ジャズバンドやレーシングメイト『カーマガジン』時代の話も伺いましたが、まずはレース編を。夫人の欧陽菲菲さんのご承諾のもとに再掲載させていただき、ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。

衝撃のポルシェ904カレラGTS

 約束の時間ピッタリに、式場壮吉はホテルオークラ本館ロビーにやって来た。
 長身をドルチェ&ガッバーナのジャケット、カシミアセーターとパープルのマフラーで包み、デニムと細身の黒革ハーフブーツでボトムスをまとめた姿はとても68歳には見えない。
 いつものように物腰は柔らかく、口調は穏やかだ。
 式場が運転したポルシェ904カレラGTSでの第2回日本グランプリ・GT-2レース優勝は、創成期の日本のモータースポーツシーンに大きな衝撃を与えた。
 以後、大きなレースに自ら出場することはなく、第4回日本グランプリにチームマネージャーとして生沢徹をポルシェ906で走らせ、優勝して以後はモータースポーツや自動車の世界から忽然と姿を消した。
 同世代のレーシングドライバーの多くがレースを続け、引退後も自らのチーム運営に乗り出したり、またレースから遠ざかったとしても何らかのかたちで自動車と関わりを持ち続けている中にあって、式場は幻の存在となった。
 1990年代に入って、当時のレースを回想するFMラジオ番組とテレビ番組へそれぞれ一回ずつ出演し、市販車の試乗記を男性ライフスタイル誌『ENGINE』へ寄稿している他はメディアへはほとんど登場していない。
 その式場が、改めて第2回日本グランプリについて証言するという。

「何でも訊いて下さい」

 ホテルオークラは、若き日の式場がレース仲間といつも集い、情報交換していた思い出の場所だ。ここのコーヒーショップ「カメリア」や、六本木のイタリアンレストラン「ニコラス」などが彼らの溜まり場だった。

「第2回日本グランプリって、1963年? あっ、 64年ですか。僕は、第1回はコロナで優勝して調子良かったものだから、第2回を前にしてトヨタの副社長さんなんかから、第2回もがんばるように激励されていたんです。でも、僕が乗ったクラウンは、6気筒エンジンを積んだプリンスのグロリアにはかなわなかったなぁ」
 
 1964年5月2~3日に鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリでは、2日間で11ものレースが開催された。フォーミュラカーだろうが、スポーツカーであろうが当時の日本にはレース専用のクルマなどほとんど存在していなかったから、市販車と市販車の改造車を排気量別に細かくクラス分けせざるを得なかった。
 参加する自動車メーカーの思惑も交錯し、主催団体であるJAFが“どのメーカーのクルマも、まんべんなく勝てるよう”配慮した結果でもある。
 有名な904カレラGTSでのGT-2レースの前に、式場はT-4クラス(1600~2000cc)レースにトヨタ・クラウンで出場している。20ラップ、走行距離120kmとツーリングカーレースの中では最長だった。
 第1回日本グランプリで下位に甘んじたプリンスは雪辱を果たすべく、この第2回では新開発のSOHC6気筒エンジンを搭載したグロリア・スーパー6を9台もエントリーしてきた。予選を圧倒したグロリア勢は、ポールポジションの生沢以下、8台がグリッド前方を占めた。トヨタもグロリア勢を上回る10台のクラウンを投入したが、予選順位は式場の9番手が精一杯だった。
 決勝レースは、ポールポジションの生沢が飛び出し、2番手の須田裕弘、3番手杉田幸朗らのグロリア勢がこれに続いた。式場は1コーナー進入で内側から2台のグロリアを抜き、S字コーナーでは4位に上がった。

「スタートはレース前から相当に練習しました。グロリアはパワーがあるので、ストレートの伸びが違っていました。当時は最新の6気筒と4気筒では差が大きかったんです」

 生沢が最終コーナーでスピンしたり、渡辺護のグロリアとK.D.スウィッシャーのいすゞ・ベレルが衝突したりして、荒れたレースとなっていく。
 杉田、大石秀夫のグロリアに式場のクラウンが食らい付いていく展開が続く。当時の自動車雑誌『カーグラフィック』誌64年7月号は、次のようにリポートしている。

〈式場はストレートでは必ず大きくリードされながら、コーナーの度に追いつくという苦戦の連続だ。その善戦はサーキットを見守る7万観衆を沸かせるに十分で、その視線がすべて薄いグリーンがかったグレーのクラウン・スタンダードの上に注がれた。観衆の心理というのは面白いもので、グロリアが圧倒的に強ければ、その中にあって孤軍奮闘するクラウンに声援を送りたくなるものらしい。誰もがクラウンを勝たせたいと考え始めた頃、トップと2位の間隔はますます開き、2位と3位のスペースも徐々に大きくなり始めた。グランドスタンド前を通過する式場のクラウンに、手に汗握る大観衆から地鳴りのような声援が沸き上がる。(中略)式場のクラウンは大観衆の声援にもかかわらず、9秒、約300m遅れて3位でゴールラインを越えた〉

「クラウンは重心を下げ、サスペンションのセッティングに開発の重点を置きました。ですから、ストレートではグロリアに引き離されますがコーナリングが素晴らしく良かったのです。鈴鹿では、ストレートで引き離された分を、1コーナーからS字、デグナーと、少しずつ取り戻していきました。そうしていても自分の後ろからも他のグロリアが迫ってきますから、できればデグナーあたりで追い越したい。でも、デグナーって逆バンクだから、うかつに追い越しできないんですね。スピンしたりして危ないから。だから、その先のヘアピンかスプーンカーブのブレーキングを遅らせて抜くしかなかったんです」

兜を脱ぎました

 43年前のレースのことなのに、式場は昨日のことのように良く憶えている。参考のために、編集部が用意したレース中の写真を手にしながらレース展開を思い出してもらった。

「1ラップだけ2位になったんですよ」

 しかし、ラップチャートには式場の2位は記録されていない。2位でコントロールラインを通過しなかったからだろう。

「ここがヤマ場と思ったので、なんとか抜こうと思ったんです。その時に、前を走っていたグロリアの杉田君がペースダウンするんですよ。すかさず、僕が右から抜こうとしたら右に出てきて、次に左から抜こうとすると左に出て、僕を抜かせまいとするんです。今のレースじゃ、当たり前のことですけど、当時は“スポーツマンシップに反する”と指弾されたり、走路妨害でペナルティの対象になったんです。僕を抜かせないようにしているうちに、後ろからグロリアの大石君が迫って来たのを杉田君は認めると、窓から腕を出して、“先に行けっ!”って指示しているんだ。もう、完全なチームプレイ。自分のラップタイムを落としてまで、僕を抜かせないようにしたんです。杉田君の、粘り腰というか、抑え込み走法には兜を脱ぎましたね。だって、杉田君のリアバンパーと僕のフロントバンパーが軽く2、3回ブツかるくらい接近していたんだから。あの、速度を落としながら、絶対に抜かせない走りには、かなわなかったな」 

 式場は、他人を批判したり非難する言葉をふだんから決して口にしない人である。しかし、口調こそ穏やかであっても、悔しさは明らかだった。杉田幸朗のテクニックとプリンスのチームプレイを打ち破れなかった悔しさを43年経っても忘れられずにいるのだ。“兜を脱いだ”と、式場らしい実にうまい表現を使って、聞く者に不快感を与えないようにしている。

 しかし、式場もこの時はトヨタの契約ドライバーのひとりだ。立場が変われば、チームプレイを行わざるを得なかったかもしれない。当時は、レース戦績がクルマの売れ行きを大きく左右すると信じられていたし、実際にその傾向も認められていた時代だから、自動車メーカーは命運を掛けて参戦していた。だから、規律は軍隊のように厳しく、序列が何よりも重視されていた。チームからの指令は絶対である。

「ライバルチームのドライバーに勝つことよりも、同じクルマに乗る仲間より速いタイムを出すことが大切でした」

 そんな状況にあっても、式場がプリンスのチームプレイにやられたことを悔しがったのは、第1回日本グランプリが行われる前から、SCCJ(日本スポーツカークラブ)に加入し、同好の士とポルシェクラブ・ジャパンを設立していた先達としての誇りではないだろうか。
 販売促進や宣伝の一環としてレースを戦っている自動車メーカーのドライバーたちとは違って、“オレたちはクルマが好きでレースに出ているんだ”というプライドである。
 ライバルの生沢徹は親友のひとりだし、他のクラスに出場した浮谷東次郎や杉江博愛(のちの自動車評論家・徳大寺有恒)、ミッキー・カーチスなども、みんなホテルオークラに集っていた仲間だ。
 たまたま違うチームからレースに出ているだけで、レースが終われば同じクルマ好き同士として付き合っている。ライバル同士が勝負を忘れて仲良くしているのではなく、昔からの仲良しがたまたま別々のチームからレースに出るようになっただけなのだ。
 それ以外に当時はレースで出場する手段がなかったから彼らはメーカーと契約したまでの話で、心はクラブマンやプライベーターだった。組織の一員である以前に、個人として独立した気概が式場や生沢たちには備わっていた。
 だから、メーカーの言いなりになってチームプレイに徹して何が面白いんだ、という怒りにも似た感情が沸き起こっていたのではないか。
 志やモチベーションが違う者が戦わなければならない現実は受け入れても、その連中を打ち破れなかった悔しさは、若かったが故に大きかったに違いない。

「第2回のグランプリでは、クラウンで走ったレースの方がいい印象が残っています。パワーでは負けていたとはいえ、レース用にクルマを作って、僕らも練習を重ねた結果が3位とはいえキチンと発揮できましたから。コロナで勝った第1回や904で勝ったGT-2レースよりも、一番満足しているレースですね」

兼業ドライバー

 当時の日本の自動車メーカーにとって、レースに勝てるクルマを作り上げることと同じかそれ以上に重要だったのが、レーシングドライバーの確保だった。
 多摩川の河川敷にサーキットがあったのは戦前の話だ。本格的な鈴鹿サーキットができるまで、いわゆるロードコースタイプのサーキットでレースが行われるのが初めてなのだから、レース経験者は事実上、存在していなかった。
 ただし、2輪は日本メーカーが世界グランプリに参戦していたので、その出身者たちやオートレースライダーからの転身者などがメーカーに採用されていった。式場が所属していたSCCJのようなマニアの集まりにも、メーカーは食指を延ばしていた。

「ほとんどのSCCJのメンバーには、“ウチのクルマでレースに出ないか”と、どこかしらのメーカーから声が掛かっていました」

 オースチン・ヒーレー・スプライトに乗っていた友人の石津祐介(VANヂャケット創業者・石津謙介の次男)らとともに、式場はしばしば開業間もない鈴鹿サーキットのスポーツ走行に出掛けていた。式場が乗っていたのは、10年落ちの中古を48万円で買ったポルシェ356・1500スーパー。トヨタは、式場たちのようにスポーツ走行にやってくる者もリストアップしていた。

「僕も、トヨタに呼ばれて誘われました」

 豊田市の本社テストコースでテストが行われ、ふるいに掛けられていく。残った者がドライバーとして契約された。

「他のチームと契約した仲間には悪くて言えなかったけれども、トヨタの僕らへの待遇は破格でした。(浮谷)東次郎も、杉江君も、僕がトヨタに推薦して契約しました」

 式場は第1回日本グランプリのC5クラスにコロナで出場し、優勝する。

「トヨタと契約していても、ドライバー専業じゃなかったんです。僕は、当時、早稲田書房という小さな出版社から発行されていた『週刊F6セブン(ファイブ・シックス・セブン)』という青年向けライフスタイル誌の編集者をやっていました。トヨタと契約した時に、“何か、して欲しいことはあるか?”って聞かれたんです。雑誌に広告を出してくれって頼んだら、本当に表4と記事中に何本かコロナの広告を出してくれました。記事ページに〈コロナ優勝記〉を書き、広告まで取って来たから、編集長は大喜びでしたよ。ハハハハハハッ。でも、あとから電通から怒られてね。“直接やってもらっちゃ困るじゃないですか”って。ハハハハハハッ」

ハンシュタインにお願い

 すべてが牧歌的な時代だったのだろう。そうでなければ、トヨタと契約しクラウンでT-4レースに出場するドライバーがポルシェでGT-2レースに出場することなど認められないはずだ。

「あれは、第1回からトヨタと約束していたんです。“トヨタが出場する予定のないGTやスポーツカーレースには、トヨタ以外のクルマで個人エントリーしても構わない”って」

 第2回日本グランプリのGT-2レースについて記した書物や記事の多くでは、“式場の904カレラGTSは、プリンス・スカイラインGTを負かしたくとも対抗するクルマのないトヨタが式場に買い与えたものだという説がある”という記述が必ずなされている。

「ああ、産業スパイ小説まがいの話は、僕もよく聞きましたね」

 購入資金がトヨタから出されたことを否定するのもバカバカしいといった口調で、式場は続ける。

「904を買って僕が第2回に出る話のキッカケは、実は第1回が開催される前からあったんです」

 ええっ!? でも、904カレラGTSが発表されたのは、第1回日本グランプリが終了してからのはずだ。

「僕はオンボロの1500スーパーに乗っていたでしょう。ポルシェのクラブを作ろうという話はずいぶん前から出ていて、僕ともうひとりの若い仲間が連絡を取り合って始めました。でも、ほとんどのメンバーは中年以上の方々でしたよ。初代の会長を大川又三郎さんという日本信託銀行の頭取にお願いしてね。で、第1回グランプリに、招待選手ということでハンシュタインが来ることになった」

 フシュケ・フォン・ハンシュタインは、当時のポルシェのレーシング部門の監督だ。レーシングドライバー出身で、1938年に距離を短縮して行われたミッレミリアにBMW328で優勝している。1956年には、ポルシェ550スパイダーでタルガフローリオでも勝利を収めている。

「できたてホヤホヤのポルシェクラブですから、当時の僕らにしてみればハンシュタインは“ポルシェの神様”なんですよ。レースの前後で食事会をしたり、講演会で話してもらったり、大歓迎したんです。西ドイツへ帰国する日も、羽田空港まで送っていきました」

 式場は、羽田までの道中おそるおそる願いごとを切り出した。

「できたら、僕は来年の第2回グランプリにポルシェで出場したいんです。今回の鈴鹿でハンシュタインさんが乗られた356のカレラ2000GSのような、レースに勝てるようなクルマを中古でも構いませんのでお世話願えないでしょうか」

 ハンシュタインは、一瞬、言葉を飲み込んでから答えた。

「今ここでは言えないんだけれども、カレラ2000GSよりもスゴくいいクルマを造っているんだ。帰国したら、それについての情報を送ってあげるよ」

 体よく断れたかと、ちょっとガッカリした。

「やっぱり厚かましかったかなと反省していたら、すぐに手紙が来ました。“カレラ2000GSの中古を探すこともできるけれど、このクルマは100台作る予定だから、ちょっと待ってみたらどうか?” それが、904だったんですよ」

 手紙には、904カレラGTSのプラスチックボディの軽さを強調するために、ふたりのメカニックがボディをつかんで持ち上げている写真が同封されていた。

「そのシーズンの『オートモビルイヤー』に掲載されているのと同じ写真ですよ。言葉も出ないほどビックリして、値段を聞くためにすぐに三和自動車に飛んでいきました」

 当時のポルシェの輸入総代理店である三和自動車は、904カレラGTSがホモロゲーションを取得するために100台以上生産され、一般に売り出すGTカテゴリーのクルマであることを伝える広告を『カーグラフィック』誌に掲載した。

「確か、571万円じゃなかったかな?」

 式場が金額を思い出したと同時に、編集を担当する林信次が当該号のコピーを取り出した。ぴたり571万円である。

「ワハハハハハハッ。憶えているもんですね。当時の571万円はとても高価ですけど、内容を考えれば、僕は安いと思ったんだ。356SCにスライディングルーフを付けると250万円ぐらいだったから、2倍ちょっとで最新鋭のポルシェのレーシングマシンが買えるんだから。904までが、言葉の本来の意味での“GT”ですね。サーキットまで自走して、プラグとタイヤを変えてレースを戦えるクルマだった。この次の906となると完全なレーシングカーになっちゃって、自走はできません。フェラーリの250LMも自走できない」

 ハンシュタインからの手紙は、全部で4通来た。最初の手紙以外は、途中から電報に代わった。

「アメリカ行きの3台のうちの1台を、僕に都合してくれたんだそうです」

白バイとミカン箱

 うまく行く時には、何でもうまく運ぶもので、式場の904カレラGTSでの第2回日本グランプリ参戦に、パンナムがスポンサーに付いた。ボーイング707のカーゴ便で、904カレラGTSは羽田空港に到着した。

「飛行機から降ろされる姿を見て、ドキドキしましたよ」

 鈴鹿に運ばれて来たのが、4月16日。

「最後の電報は、レースが行われる鈴鹿サーキットに届いたんです。ハンシュタインは鈴鹿のどこに送ったのか、三和自動車のスタッフから手渡されました。904の取り扱い方などが綴られた長文の最後に、注意書きがありました。“ヨーロッパでは事故が続出している”との書き出しで、ペダルの位置調整のためのピアノ線が切れやすいことに注意しろとありました。もし切れた場合には、ホンダかヤマハのオートバイのスロットルワイヤで代用が効くからとも、丁寧に指示がありました」

 904カレラGTSのシートは固定式で、スロットル/ブレーキ/クラッチの各ペダルを前後させて位置決めを行うようになっていた。そこにトラブルが発生しているので、虫の報せなのか、ハンシュタインは対処方法を電報で鈴鹿サーキットまで送ってくれていた。親心ではないか。

「5月1日の2日目の予選で、まさかのクラッシュをしたんです。電報に書かれていた通り、ペダル位置を調整するピアノ線が切れて、ペダルが手前に押し出されてきた。エンジン回転が上がると同時に、クラッチも切れた。ノーブレーキでスピンしながら、1コーナーに突っ込んでガードレールにクラッシュです。プラスチックボディって、ショックを上手に吸収するんですね」

 904カレラGTSがクラッシュした瞬間、プリンスチームのピットから「やった!」という歓声が上がって狂喜しているのを、『カーグラフィック』誌編集長の小林彰太郎は、「苦々しい思いで聞きながら」現場に急行したという。
 フロントフェンダーは破れ、ボンネットが外れて、オイルクーラーも垂れ下がった。絶望的な状態の904カレラGTSは名古屋の藤井正行氏の工場に運ばれ、藤井氏とメカニックたちの二晩にわたる徹夜の奮闘で修復がなされた。藤井氏は、『カーグラフィック』誌に「ポルシェ904を修理して」という手記を発表している。

〈(前略)メカニックの立場にあるものに大きな安心を与えたのは式場さんの態度だった。おそらく事故が起きた時のスピードは、200キロメートル時位であったことは想像するにかたくないところなのであり、1回のスピンである程度は減速されたとはいえ、衝突のショック(単に物理的なものだけでなく)は決して軽いものではなかった筈である。それにもかかわらず式場さんの様子にはいつもと変わったところは見受けられなかった。要するに、車は修復できるできる状態にあり、メカニックのファイトは充分で、ドライバーは平静さを失っていなかったのである〉

 プリンスチームのエースとして、このレースでも式場と一戦交えることになっていた生沢徹が修復作業を手伝ったのも、この時代の彼ららしいエピソードだ。ライバルである前に、友人だからだ。

〈一部の週刊誌などで報道されたような、この904の修理に某国産車メーカーが全力をあげて協力したなどということはデマゴギズム以外の何物でもないことを、はっきりと申し上げておきたい〉(同上)

「3日の決勝の朝、名古屋から鈴鹿まで、修復できた904で自走しなくちゃならなかったのですが、渋滞で遅れそうになった。居合わせた白バイが先導してくれて、間に合ったんです」

 決勝レースの映像が記録されているDVD『スカイライン神話』を、式場とともに観る。

「スタートの前に、おかしなことがあったんですよ。高さ14センチか15センチのミカン箱みたいな木箱をまたがせる検査を受けたんだけど、何度やっても引っ掛かるんです。タイヤの空気圧を上げても、ダメ。そうしたら、誰かが“箱の方を調べてみろよ”って言ってくれた。やっぱり、箱が1.5センチ大きかった。そんなことやってたから、遅れちゃったんだ」

〈もうスタート4分前、グリッドに並んだ他の車はエンジンを止めてシンと静まり返っているところへ、辛くも間に合ったポルシェがスレスレで滑り込んだ時には、敵も味方もなく、恩讐を越えた嵐のような拍手が渦巻いた。〉(『カーグラフィック』誌64年7月号)

 決勝レースがスタートすると、冒頭で式場が語ったように、904カレラGTSとスカイラインGTでは、レースにはならなかった。GTとはいえ、競技用に作られたミッドシップカーと、1500ccクラスの乗用車をストレッチし、半ば強引に2000ccの6気筒を押し込んだ特殊なクルマとでは勝負になるはずがない。

「藤井さんをはじめとして、みんなの協力で修復できましたけど、真っ直ぐ走らなかったし、タイヤの状態だって悪かったんです。904の本来の実力の半分も出せていなかった。それでも勝てたのは、本来だったら同じカテゴリーで競い合わないはずのクルマ同士だからです」

 経過はどうであれ、1周だけポルシェの前を走ったスカイラインの“神話”については、今までさんざん書き尽くされてきたことだから、ここでは書かない。

「ハンシュタインは、東洋の島国・日本で行われた第1回日本グランプリを自ら走ってみて、この国でもやがてモータースポーツが盛んになるに違いないと確信したのではないでしょうか。ポルシェクラブもできて、関心だって高い。だったら、1台都合してやってもいいじゃないかって思ってくれたんでしょう。運も良かったんです」

 第2回日本グランプリは、これまでスカイライン神話の誕生といった視点ばかりから語られてきた。しかし、式場の話を聞くと、そうではないことがわかる。自動車メーカー同士の競争が激化していたことは事実だが、それを支えていたのは式場や生沢のような情熱を持った若者たちだった。
 また、神話が誕生したのはスカイラインだけではない。判官贔屓もあって日本人はスカイラインに肩入れするが、第2回日本グランプリで神話を作ったのは、実はポルシェではなかったのか。式場とハンシュタインの1年以上にわたるやり取りが、その後の日本のモータースポーツシーンをつねに外側から刺激し続けているポルシェの存在感の大きさに直結しているのである。(文中敬称略)

文・金子浩久
写真・倉持 壮
編集・林 信次
協力・『日本のレース100選』(三栄書房)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?