今更の『伊勢物語』……「行く」と「来」についての考察(2014年1月25日の日記)

以下は今から5年前の2014年1月のmixiの日記の転載です。

ついさっき、Twitterで日本語の「行く・来る」の敬語表現はなぜ「いらっしゃる」または「おいでになる」で同じになってしまうのか、ということについて疑問に思われていらっしゃる研究者?の方の記述を見て、昔似たような事を書いた事あったなぁ…と思ってほじくり返してきたものです。

******ここから******

皆様、センター試験はいかがでしたでしょうか?

ま、新聞に出てたって普通は解かないですよね。新聞のは解きにくいし。

多分、現代文は普通に解けば8割取れる。

古文はまさかの源氏物語。難しい。「あさきゆめみし読んでおいて良かった~」という声をチラホラ聞いたけど、それでも難しかったかも。

漢文は…そこそこ。やる順番の定石は、

**漢文→古文→小説→評論 **

だけども、分からなければ飛ばして、現代文からやったっていいんだ。今回はそれが正解だったかも。

それはさておき。

今は高3生の授業も無いので(4クラス×週2コマ)、中3の古典があるだけです。ここのところ現代文を教えることが多かったので、久し振りに『伊勢物語』の「筒井筒」を教えています。

昔作ったノートで教えてもいいのですが、結構久々なので、一から作り直し、じっくり勉強しています。

有名なお話なので、ざっくりあらすじをまとめますと、

昔、幼なじみの男女がいて、子どもの頃はよく一緒に遊び、やがて年頃になると互いを結婚相手として意識するようになり、女の子の方は親が持ってくる色々な縁談も断り続け、ついには結婚するに至ったという。

ところが、何年か経ち、女の親が亡くなり、頼りなく思った男は、よそ(河内の高安)の女の元へ通うようになります。ある時妻が、高安の女の所へ出かけようとしている男をすんなり見送ったので、「この女もひょっとして浮気してるのでは?」と疑った男は、出かけるふりをしてコッソリ庭の植え込みから覗いて見ると、キレイに化粧した妻が遠くを見つめながら、自分の道行きを心配する和歌を詠んだのを見て、愛しく思って、高安の女の所へ行くのをやめたという。

更に、ある時久し振りに高安の女の家を訪ねてみると、随分とくつろいだ様子で自分の手でご飯をよそっているのを見て冷めて行かなくなってしまう。女は中々訪れない男に和歌を詠みかけるが、男は「行きますよ」とだけ返事して結局、その言葉も守らず通うのをやめてしまう。

というストーリー。

全然ざっくりじゃないな~。

で、問題は三段落目の男のセリフの「行きますよ」なのですが、一般的な現代語訳はみんなそうなっていて、原文はというと「来む」となっています。

これ、生徒は多分10人中8人が「来よう」って訳すよなぁ、と思って悩んだのでした。考えてみれば、現代の感覚からすれば変だなと思って。なんだっけ?この違和感、どこかで感じたことが…。

ああ!

英語だ。

英語で行くはgo、来るはcomeって習って、でも電話なんかで「これからあなたの所に行くね」という時はcomeを使うんだって聞いて、ショックを受けた、あの感覚と似てる、と思ったのですが…。

**少し英語とはニュアンスは違うみたいですね。 **

英語は話題の中心となっている所に近づく事をcomeで表し、遠ざかる事をgoで表現するようです。

日本語の方は、昔は「来」に来るも行くも両方の意味で使った、と古語辞典にはあるのですが、それもあるけど、どうやら相手の目線に立った物言いをした、という事のようです。だから高安の女の立場から見て「来る」という風に男は表現したということです。でも、そのまま「来る」と訳すと現代の我々には違和感があるので、おそらく「行く」と訳すのでしょう。

ちょっと調べると、九州の方では、この感覚の方言(?)というか言い回しが普通にあるみたいです。若い人はテレビなどの影響で、「今から行くね」などと言う人も多いようですが、「今来るね」というのも違和感ないようです。

そう言えば、「でんでらりゅう」の歌も「でんでらりゅうば出てくるばってん、でんでられんけんで~てこんけん、こんこられんけんこられられんけん、こ~んこん」って「来ん」って言ってる(笑)

などと『伊勢物語』の予習をしていて、思ったのでした。

おしまい!

追記

そう言えば、言葉を覚えたての子どもって相手との関係を表す表現「あげる」「もらう(くれる)」、「いく」「来る」などが難しいみたい。よく言い間違う。大人は簡単に思うんだけど、これって難しい概念なのかもね…。

******ここまで******

引っ張ってきたものの、敬語の話ではなかった。ズコー。

Twitterの話で面白いな〜と思ったのは、古語でも「行く・来」の尊敬語は全部「おはす」で言えちゃうというのは、もう日本語って昔からそうで、それを踏襲して今も「いらっしゃる」で全て包括してしまっているのですが、それはひとえに貴人の行為なので、はっきりと明言しないで朧化させることで敬意を表してるんじゃないか、とリプライされてる方がいらっしゃって、それだな!と直感的に思いました。

上記の伊勢物語の話は敬語の話ではなく、

「どの立場の人を中心と見るか文化」

みたいな話なのでちょっと違ったのだけれど、当たらずとも遠からずかも。

敬語を使うような場面での相手の行為や動作って、パキッとはっきりしたもの言いで言わないのが良しとされたのですよね。曖昧婉曲表現という敬意の表し方が現代にもある。

例えば。

ファミレス敬語とか、マニュアル敬語と言われて嫌われている

「そちらの方お下げしてもよろしいでしょうか?」

「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」

などにも、遠回しに言う事で相手に敬いの態度を示す文化が残っていると思うのです。「方」を噛ませて婉曲に、「よろしかった」と時制を一つずらすことで遠回しに、という敬意の表し方です。

気持ち悪いと感じる人がいらっしゃってもそれはそれで仕方ないかもしれませんけど、言葉って面白いよなぁ、と思うのです。

おしまい


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ありがとうございますサポートくださると喜んで次の作品を頑張ります!多分。