見出し画像

雪童子(ゆきわらし)

 台風もいくつか過ぎ、辺りはすっかり秋らしい装いになった十月の半ば過ぎ、あの人からのメールが七ヶ月半ぶりに来た。仕事の依頼だ。季節労働者のような働き方をしている私の所には、秋口に仕事が舞い込むことが多い。すぐに返信をする。

「お久しぶりです。メール読みました。すぐにその子の詳しいプロフィールを添付して送って下さい。私の方はいつでも動けます」

その晩遅く、少女のプロフィールは送られてきた。

〈少女の名は、片桐凛子。十六歳。偏差値七十一の私立の中高一貫校に入学したが、中二の秋以降、ほとんど学校に通っていない。中三の三学期は何とか頑張って登校はしたが、ほとんど保健室登校。高校には上がれたものの再び不登校になり、現在に至る。沢山の人がいる場所に長時間いることができない。電車などにも長時間乗れない。短時間であっても満員電車だと困難。はじめは親が学校まで車で送り迎えしていたが、教室に座っていることも一時間が限界。行事などには気分が良ければ参加できるが、いたたまれなくなると過呼吸の後失神してしまう。過去に何度かリストカットしており、目を離すと衝動的に自傷行為をする。以上〉

 プロフィールに添えられた写真の少女は死んだ魚のような目をしていた。

 私は彼女に会うことにした。

 外出が難しいというので、自宅を訪問した。呼び鈴を押す。

「あら、先生、よくいらして下さいました。どうぞお上がりになって」
愛想良く忙しなく話しかけてくる母親らしき人物がこちらをリビングへ通そうするのを制し、
「あ、先生ではないので清原でお願いします。それとお構いなく。早速ですが、お子さんの部屋はどちらですか?」
「……あの、二階です。こちらです、どうぞ。清原……さん」
 先を案内した母親が一つの部屋の前で立ち止まると、ドアを二回程ノックし、「凛ちゃん、開けるわよ」とドアを開けた。

 部屋の中には、ほっそりとしていて、いかにも低血圧そうな青白い顔色の黒髪の少女がパソコン机の前に腰掛けてかすかにこちらを振り返って見ていた。昼間だというのに、部屋はカーテンを閉め切っていて薄暗く、部屋の明かりもついておらず、パソコンからの光だけが彼女の顔を照らし出していた。
「こんにちは。私は清原千鶴です。武田先生からの紹介で来ました。少しあなたとお話ししたいのだけれど、いいですか?」とドアの外から部屋に向かって話しかけると、
「あの、先生、娘は大変人見知りでして……」母親が割り込んでくる。
「お母さん、あの、もしお嬢さんが許して下さるならお嬢さんと二人で話をさせて頂けませんか? それと、私は先生ではないので」
「あ、はい。清原さん」
 私はドアの方に向き直ると部屋の中に少女に話しかけた。
「入ってもいいですか?」
「……はい、どうぞ」
少女は蚊の鳴くような声で私を招き入れると、すぐに扉を閉めた。
「話が済んだら下に参りますのでお母さんはリビングで待っていて下さい」と部屋の中から声をかけると、「……はい」と力ない返答がドア越しに聞こえてきて、パタパタと足音が遠ざかっていった。

「さて、改めまして片桐凛子さん、私は清原千鶴です。私は普段は関東に住んでいて、雪が降り出す頃にN県の豪雪地帯に住み込んで仕事をしています。主にその地域に住むお年寄りの世話などをしています。ま、仕事は色々あるのだけれど雪の季節限定の仕事です。若い人手がいないのとお年寄りが多いので」

「あの、武田先生は……」少女が一言、言葉を発した。
「あ、武田先生の紹介だけど、私自身はあなたをどうにかしようという気はありません。第一、武田先生とは仕事の種類が全然違うので。私はただ先生のマッチングによってあなたを紹介されただけなのです。学校に戻るか戻らないか、私は助言をする立場にはありません。クリニックにも通った方がいいかどうかは、専門家の先生や、ご家族と話し合って決めた方がいいとは思います。ただ武田先生が私に連絡してきたって事は、治療は行き詰まっているか、あるいは逆か、その上であなたが『雪童子』に向いていると判断されたのだとは思います」
「『雪童子』?」
「そう……。あ、こっちのことばかり話してしまってごめんなさいね。私の仕事は『雪童子』の派遣、及び指導です。一応……これ、名刺です」

〈派遣会社『雪童子』代表 清原千鶴〉

「毎年、十一月後半位から向こうに住み込んで、翌年三月まで。買い物とか、洗濯とか、雪下ろしとか、玄関周りの雪かきとか、年寄りだと大変な日常の家事しごとをお手伝いさせてもらっています。『雪童子』は人と交流するのが苦手でも大丈夫です。裏方的な仕事はいくらでもあります。過疎地域だから、基本お年寄りしかいません。地域の若いご夫婦やその子どももいない訳じゃないけれど、共働きのところが多いし、ついでにその子どもの面倒見ることもあるかな。まぁそういう例は数としては少ないです。支えを必要としている方が多いのは確かです」

 少女はしばらくの間、手の中にある名刺を見つめていたが、やがて視線をうろつかせながらおずおずと私を見上げると、やっと絞り出すような声でこう言った。
「あの、それで、私に……何を?」
「『雪童子』をやりませんか?」
「む、無理、です」
「うん。そうよね。そう、思います。私があなたでも。まだ時間はあるので、ゆっくり考えて返事を下さい。あ、でもできれば二週間ぐらいのうちに。あと、質問があったら気軽にそこに連絡下さい。メールでもなんでもいいです。夜中でも構いません」
「……はい」
「じゃ」
 その後、母親と少し事務的な話をして、私はその少女の家を後にした。

 約一ヶ月半後。
 スタッドレスタイヤに履き替えた四駆のトランクにスーツケースを詰め込む。
「おはようございます。あなたの荷物はこれで全部?」
「はい」
「うん、よし。じゃあご挨拶して行くわよ」
 彼女の背中を後ろから抱えるように支えながら母親の前に立つ。
「じゃあ片桐さん、お嬢さんをお預かりします」
「よろしく……お願いします」
そう言って深々と頭を下げた母親は、悲しげな、でもどこかホッとしたような表情をしていた。

 高速道路を使って五時間。車内にはずっと古い洋楽がかかっている。長いトンネルを抜けた山あいには雪がちらつき始めていた。先ほどまで後部座席でうとうとしていた少女は目を覚まし、外の景色に目を奪われている。まだそれほど積もってはいないがまもなくここら辺は高い雪の壁に覆われる地域だ。高速道路を降りて駅前を抜け、少し細くなった道路を五分程走ると、小さな川を渡る。そこから少し行くと大きな山を背にした小さな集落がある。そのうちの一軒の民家の前に私は車を止めた。

「ああー!着いた。よし、じゃあまずはご挨拶。降りて下さい」

 首を回し、大きな伸びをしながら車を降りる。家の呼び鈴を鳴らすと、すぐに「はぁい」という返事とともに、中から六十がらみの女性が出てきた。

「いらっしゃい。千鶴ちゃん。遠い所よく来たわね。寒いから荷物下ろして中にどうぞ!」
「はい、こんにちは。こちらは片桐凛子。十六歳です。向こう三ヶ月、よろしくお願い致します」私が頭を下げると、私の様子を横でじっと見ていた片桐凛子も慌ててぴょこっと頭を下げた。

「私は志太皐月と申します。ここで置屋の女将をしていますが、若い芸者もいないし、今時分は不景気でほとんど仕事もないんで、ここに来る途中にあったと思うけど小さなスナックのママもやっています。ま、それももうこの地域は年寄りばっかりでほとんどお客なんか来ないんだけどね。凛子ちゃん、よろしくね。不便な所だけど、困っているお年寄りも多いので若い人の手があると助かるわ」

「あ、はい。よろしく……します」
 凛子は蚊の鳴くような声でやっと一言呟いた。
 
 雪童子の朝は早い。
 夜のうちに積もった雪を下ろす。主要道路は中央から常に水が出ているので雪をかかなくていいが、玄関先と家の前だけは自分でしなくてはならない。足腰が立たない年寄りは無理なので、近所の若い衆が手分けして年寄りの家を回る。後は買い物だ。場合によってはご飯を作ったりもするが、料理の仕方も分からない凛子はお年寄りに教えてもらってばかりだ。

 正直凛子はほとんど使い物にならなかった。体力も腕力もないのだ。力仕事もした事がなければ、気働きもほとんどできない。何をしたら相手に喜ばれるか分からない。ただ、代わりに余計なことや悪さもしない。ただひたすらに気が利かないだけなのだ。頭はいいのだけれど、面白い話で年寄りを和ます術も持たない。ただただ不器用な子だった。
「千鶴ちゃん。あの子、なんもできんのねぇ」
「あら、すみません。世間知らずなもんで……」
「いやあ、*あちこたねぇ(心配いらない)!それが孫みたいにめんこいすけ、色々教えてあげたくなってしまうがぁ」
 住田のおばあちゃんはよくそう言ってひひひと笑っていた。

 一ヶ月程経ったある時、赤くかじかんだ手指に息を吹きかけながら凛子は空を見つめていた。
「凛子?」
「ねぇ、清原さん。私、生きている意味……あるのかな?」
「うん。あると思う。みんなあなたに感謝している」
「うそだ。私は役立たずだ」
「どうしてそう思うの?」
すると今まで文句一つも言わずに言われたことをただこなしてきた凛子は自分の掌を見つめながら、涙をぽたりと一粒こぼした。
「私には他人がどうしたら気持ちよくなれるか分からないんです。よかれと思ってやることが的外れだったらと思うと怖くて身動きがとれなくなる。私がいることで不愉快な気持ちになる人がいる。なるべく、なるべく人目につかないように生きていきたいけれど、誰にも迷惑をかけずに生きていくことができない。ちゃんと食べなければ死ぬ。清潔にしなければ病気になる。誰かの世話をするどころか、息をしているだけでお荷物になる。体力もない。力もない。背も低い。ここへ来れば何かが変わるかと思った。けど、自分が役立たずのいらない人間だということをただ思い知らされるだけだった。雪みたいに一粒一粒は小さくてたわいもないささやかな美しいひとひらが、積もり積もってここの地域の人達を苦しめているように、私のような人間の存在が周りの人達の生活を苦しめているのではないかと思うと、どうしようもなく辛くて寂しくなる」

 凛子は一気にまくしたてた。

「驚いたわね。あなたがそんなに色々と考えていて、そんな風に思ったことをちゃんと伝える事ができる能力があったなんて……」
 凛子は自分が生きていることが辛かった。寂しかった。

 よく考えたら、元々頭のいい子なのだ。気働きはできなくてもものすごく気を遣って生きてきたに違いない。それで自分自身を追い詰めていた。
「あなたには知識がある。うまく生かし切れていないだけ。あなたは役立たずではない」
「できんかったらしんでいい」
「は?」
「さっき、住田さんちのおばあちゃんにそう言われました」
今にも泣き出しそうな、でも涙をこらえるあまり、しかめっ面になりながら凛子はそう言った。

「ふふっ……あっはは」
思わず吹き出した私を見て、凛子は目を見開いたままとうとうぽろぽろと泣き出してしまった。

「ああ、凛子、ごめん。違う違う!住田のおばあちゃんはあなたのことが孫みたいで可愛かったのよ」
「え?」
「だから『できないことはしなくていい』って言ったのよ」
「え……」
瞬間、雪のように真っ白な凛子の顔が真っ赤に染まっていった。それはまるで、秋の日の夕焼けの美しいグラデーションのように耳の裏まで静かに赤く色づいていった。

 それからの残り二ヶ月、凛子は相変わらず不器用だったけれども、みんなに可愛がられて、少しずつ笑顔を見せるようになっていった。最近は仕事から帰ると、小さな手帳に書いた文字を、大学ノートに少しずつ写し取りながら、何かを書き溜めているようだった。
「何を書いているの?」
「おばあちゃんの知恵袋。お掃除の時の知恵とか、お料理の時の下ごしらえのコツとか、聞いてきたことをメモしています。調べてみるととても理にかなっていることが多くてびっくりします」
「なるほど。いいね!ブログでも書いちゃう?」
「あ!」
 凛子の頬がみるみる赤く染まってゆく。
目を輝かせている凛子に生きる勇気を少し貰う。

 私も……もう少し生きていてもいいのだ、と。

 かつて拾って貰った私の命はこうして雪童子によって今日も生かされている。


(『季刊マガジン 水銀灯 vol.1』所収)

#小説
#雪童子
#かねきょ
#季刊マガジン水銀灯

ありがとうございますサポートくださると喜んで次の作品を頑張ります!多分。