怒んないで~ ――2024年3月21日

とにかく怒られたくない。だから「怒られそうか否か」が僕の基本的な行動原理になっている。マジでほんとに怒られたくないので行動もしないし人にも会わない。良くはない。非常に。

どうしてこんなにも怒られたくないのか。怒られるとは何か。

僕の中の怒られ観の切れ端を紐解いてみると、どうやら怒られを「他人の気分を害した際の反応」というふうに捉えているようだ。それが客観的に正しいかどうかは置いといて。

誰かを不愉快な気持ちにさせることというのは非常に危険なことだ。つまはじきにされることはほんとうに怖い。もっと直接的に暴力にさらされるかもしれない。つまり僕にとって誰かの怒りを買うとは生命の危機なのだ。

だから時には媚びてしまう。それが嫌すぎるけど、条件反射のようになっている。誰かの目を通した自分を見るときに、それが不愉快に写っていてほしくない。そう思って必死に取り繕った自分は非常に歪でグロテスクだ。

良い人間でありたい。だけど誰かのために良い人間であろうとしたことはあっただろうか。僕は他者から排除されないために良い人間であろうとしている。

そういえば「嫌われる勇気」という本が流行ったことがあった。細かいところはよく覚えてないが、「嫌われる勇気が大切なんじゃよ~」みたいなことが書いてあって「そんな~」と思った記憶がある。

嫌われたってどうってことないと思えたらそりゃいいんだろうけど、どうやったらそれができるんだよ。(ほんとは書いてあったかもしれない)。で、どうして嫌われについて語ったかというと僕は怒られ=嫌われとも思っているからだ。

考えていくと僕は怒りのみならず、他者の感情について、さらに言えば「他者」という概念に対してもバグった認識を持っている感じがする。変なのはわかるけど具体的にどこが変なのかはよくわからない。

考えていくと六法全書とか相対性理論みたいなわけの分からなさに呆然としてしまう。しかし怒られの探求というのは僕にとって避けられないということは確実だ。

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