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第五夜・もしも問題があるとしたら転がっている石コロ一粒にも草葉にも思想があるという事だが君は気にするか?それとも。【後編】

2005年11月23日。


大阪梅田陸橋にて、はじめて路上演劇に挑戦した。初期衝動以外の何物でもなかった。勢いと誠意、そして羞恥心をかなぐり捨ててどこまで広がる空の下、ビル群の中、行き交う人々の中で声を出す事がとても気持ちよく清々しく、演じる事がこんなにも楽しさや心地良さを感じられるものだったのかと気づいた公演だった。

ストリートミュージシャンがカンパを募る箱や缶や帽子を置いている。私たちも置いて、お気持ちどうぞお願いいたします!という事をやった。チケット代があるわけでもなくただひたすら衝動のままに(収支なども当然考えなく)やった公演だった。

終演後の余韻に浸りながら3人で倉垣宅に帰り、その日のカンパ缶を数えてみた。確か1万円近く入っていた。倉垣も本田もCuu-もその額を見て驚いた。想像以上に入っていたからだ。対価をいただいた、それも、こんなに。金額を発表した時3人とも無言になった。申し訳なさや感謝、喜びや報われたような心地、様々な感情が一度にやってきたからだ。その後すぐに「またやろう。今度はもっと、おもろいモンをやって、喜んでもらおう。」誰からともなくそんな話をした。

自分たちのやりたい事をやって、それが誰かの喜びになる。

誰かの楽しみになる。

そのありがたさを実感した瞬間であり、公演だった。

旗揚げの時にはなかった感動だった。

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旗揚げ公演の時は、経費や集客、宣伝の問題などに加え出演者の意識の差も大きかった。技術云々というような年齢でもなかったからこそ結成から1年の準備をして旗揚げをしたわけだが作品の成果以上にメンバーの意識とか制作面でのマイナスが自分の精神に深く食い込んできていた。
大阪からバイクで駆けつけてくれたCuu-は音響と出演をし、本田は照明と舞台監督を兼任してくれた。
この2人の熱意と、旗揚げメンバーとの温度差などもあったし、とにかくいろんな事が気になって仕方なかった。今になればそれも全て自分の力量不足だと言えるが23歳の自分にはそんな余裕はなかった。

とにかく

その旗揚げで得られなかった感動が、初の路上演劇で得られ、この時にSAIは「やりたい事をやり、それを喜んでくれる人たち、楽しんでくれる人たちと、一緒に生きていこう」という信念が定まったように感じる。

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その後も路上公演は続き、翌年はじめて「ケロイド」を東京と大阪とで上演した。この時は大阪では梅田陸橋と大阪城公演で。東京は秋葉原で上演する事になった。

この当時の秋葉原は路上パフォーマンスのメッカであり、ヲタ芸が打たれたりしはじめた頃だった。秋葉原での上演は地下アイドル的な女の子とバッティングしたせいで、30人くらいの取り巻きヲタ軍団にヲタ芸を打たれて上演中そればかりが気になるという内容になってしまった事を覚えている。
もともと路上での公演は精神を削られる要素が多い。人は容赦なく目の前を通り過ぎるし立ち止まった人も、興味を失った瞬間に去る。罵声を浴びせてくる人もいるし、ところによってはダイレクトに絡まれたりもする、警察の介入がないか常に気にしなければいけない。そんな中でストレートプレイをやるというのはかなりの神経と集中力が必要とされるわけだ。
私やCuu-は逆境に燃えるタイプだったので追い詰められるとよりポテンシャルを出していく。本田は追い詰められると深く閉じていきある地点にストレスが達すると「キレる」。劇中に小道具として登場する携帯電話を実際に自分の電話を使って叩き壊したり、そういう危うさが演技に不思議なリアリティを与えていた。

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2007年に路上ツアーをはじめた時は年間で60本を超えるステージを行い、いろんな場所で作品を上演するようになるとよりタフネスが試される局面が増えていった。この頃は秋葉原の路上カルチャーも最盛期を迎えており、闊歩するコスプレイヤーも、発散するヲタクたちも、「ここが俺たちの戦場だぜ!!!」と誇示するような佇まいとパフォーマンスを見せていた。
SAI以外にも路上パフォーマンスをする団体は居て、「鹿殺し」「おぼんろ」などもこの時期だ。鹿殺しは団体で大阪から出て来てゲリラパフォーマンスを都内各所で行なっていた。場所の順番待ちとかで前後したり、お隣さんになる事もあったりしたし、やはり関西出身だというシンパシーも手伝ってか「じゃあ鹿が終わったらはじめようか」などもしていた。撤収手伝ったりとかも、他のトコとでは出来なかったことだと思う。

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作品的には「ROMANIC+GROTESQUE」「贋作マッチ売りの少女」などの後の人気作がこの年に生まれた。路上を巡りながら作品が磨かれていったのも活きているのだろう。しかしこの路上ロングランは修行だった。とてつもない修行だった。こんなに演劇は辛いものなのか、役者は、俳優は、大変なものなのかと感じた時期はなかったと思う。毎週本番があり、その環境は常に過酷だ。安心して出来る環境など一切ないし「今日は出来ないかもしれない」という不安との戦いでもある。(場所が空いてない、警察の見回りが強い、など不確定要素があったためである。)
ただ自分はこのツアーを、60年代のアングラ演劇の世界や、ロックバンドのツアーのようだと考え、燃え上がっていた。憧れの世界にも似ていたから耐えられたのだ。

この時期はよくメンバーとぶつかった。
この頃は、本田良に加えてヒグチナオコ、そして田辺辰樹、Cuu-が、アクティブメンバーとして裏表問わず参加していた。
渋谷局長もこの時期のSAIを観ている。「ストリートファイターズ」という路上アーティスト応援番組などに参加したり、活動自体も変化のある時期だった。だからこそ明確な未来が見えないこの時期の活動がメンバーの心身に、確実なダメージを与えていた。皆飲食店等でバイトしながら稽古と本番を回していた。チケットも物販もなく、カンパのみが活動の資金源になる。団費を集め活動していたがその団費だって皆が稼いだ貴重なバイト代が主だ。
「このツアーが終わって成長したからといって、ボクたちはどうなるのだろうか。生活は?何か大きな仕事につながるのか?」
漠然とした不安は芝居にも影響する。
演出としてそれを指摘するとそこからまたそんな話になる。だが週末には公演がある。

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そんな中、夏のツアー・ロマグロの次に行った秋のツアー「三次元」ではメンバー3人の其々の世界観にこだわった短編作品を上演する事になった。この時期に倉垣がイヨネスコ劇場の演出家ペトル・ヴトカレウのワークショップに参加。それまでの演出観をアップデートする機会を得て、その全てが投入されたのが「贋作マッチ売りの少女」だった。それが結局は初期SAIの終焉に向かっていくキッカケになったと思っている。
明確に、倉垣が、俳優として生きていきたいのではなく、観たことのない世界を提示するために演出家である事を選びたいと思ったからだ。それまでは俳優集団的な側面が強かったのだが、この頃から演出家としてのエゴが出始めるようになったと自覚している。

その後、秋葉原路上大量殺人事件を題材にしてリメイクした生バンド版「ケロイド」

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そして「C」の上演とがあり、

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その終演後、2009年の3月に無期限活動休止を決定することになった。

約5年。8本の作品。

この時の絶望感は尋常ではなかった。自分の命がけで取り組んできたものが、終わるかもしれない・・・いや、終わることになるのだ、と。


今思えば、それは小さな事の連続や積み重ねであり

当時自分は若く愚かで傲慢であったなと、物事を全て白黒で判断し、全ての価値を芸術至上主義的に考え、傷つくことなど恐れず省みず、盲信者のようであったことに気づかずにいた。演劇狂またはアーティスト病。呼び方は色々あるだろうし、それらは現代ならばアウトプットする方法や手段もたくさんあるだろうから救済されていたように思う。その当時の自分には演劇および演劇を通した世界しかなく、狭く濃縮された世界観が、私と周囲を断絶していった・・・正確には、何度もチャンスはあり継続していくための再生の機会があったのだと思う。だが私は、自らの勢いにより、その機微を全て見落としてしまっていたのだ。
どこかで自分と自分以外のように、線引きするような愚かさがあったのだ。ついてこられないやつが悪いんだ、というような過去に葬りこの新時代には持込みたくない旧時代の精神性・・・というのはタテマエ。
それは、おそらく表に出さないだけで誰もが心の奥底に飼っている獣であり闇だ。自分はその闇を、獣を、自覚せずに行使していたのだ。ただそれだけの事なのだ・・・。


ありがちな後悔に、その後約一年程悩まされる・・・事もなく、全く違うフィールドに出た私は、1年9ヶ月後に再起動公演「FOOLS PARADISE〜愚者の楽園」で名称改め“舞台芸術創造機関SAI”として活動を再開するのだった。

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続きはまた明日。

展示の詳細は下記より。
https://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/deathrebirth/

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