ハウスマヌカン --エピローグ(1/3)--

「アパート、二階の一番奥の部屋ね。インターホンないから、ドア、叩いて。すぐ開けるから。」

菊名の駅から、歩いて15分ほどの築40年の彼女のアパートは、街灯も何もない、神奈川の孤島にある。東急東横線の沿線といえど、ここは、大阪の箕面(みのお)のように、車がなければ、何ら、金持ちとは言えない場所である。最も、彼女が、このアパートを紹介されたとき、彼女は、関東の様々な地区のことはよく知らなかったらしいし、菊名駅は、東急とJRの2路線があり、快速も止まるから、非常に便利であると不動産屋に聞かされて引越しを決めたそうだが、その便利な駅に行くまでに必要とする15分は、疲れている日には、30分になることを知らなかった。彼女が、この家を紹介された時、この家は、まさしく、菊名という「駅」の家であって、それは、副都心線に直通して、新宿三丁目駅にも運んでくれ、杏仁豆腐や甘栗のために元町中華街まで、連れて行ってくれる「東急ー菊名」の家だった。後悔しても、二度目の引越しをする余裕はない。彼女は、この家を紹介され、車で不動産屋に、内見させられて以降、一度も、自分の足で、ハイヒールで歩くことをしなかった。望んでも、保証金は戻ってこまい。引越しセンターからの連絡に、初めて、自分の足で、菊名からそのアパートへ向かう時、初めて、神奈川は広大な砂漠であると地団駄踏んだそうだ。いつまでたってもたどり着かないから、横浜は、とにかく人を歩かせるわねとプンプン、怒りながら、Googleマップで表される縮尺と、実態の感覚と大きくずれに文句を言いながら、汗まみれになる夏の日に、彼女は、菊名へと引っ越したのである。キリストが十字架を運ぶ気持ちを、追憶したそうだ。失礼なことよ。

もっとも、菊名といえば、イメージとしては、非常に良い駅である。名前からして、お金持ちの人が多そうではないか。いつぞや、タモリも愛用している駅と聞いた。しかし、そのような「イメージ」よりかは、新宿より、「住みやすそう」という感覚で、彼女は、選んでしまったのだから悲惨である。駅から十五分という距離感は、平和と安全とを住居に与えるが、新宿という、それこそ、日本の、ひいてはアジアの中心地ともいうべき場所から離れることの意味を、彼女は理解していなかった。(新宿と比べれば、どこも、田舎に等しい。東京駅でさえも!)彼女は、両手に荷物を抱えた日には、バスを久しく待つしかない。タクシー乗り場は、闇市のように、暗黙の了解として、どこかの出口にあるそうだが、住宅街を走るタクシーは、さぞ、時間もかかるだろう。彼女は、歩くことを、いつの日も、それこそ、足首を捻挫した時も迫られた。後先考えない、彼女の、衝動性の結果は、いつも、彼女のQOLを少しずつ、しかし、着実に漸減(ぜんげん)させていくのだ。

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