ヘルシンキ郊外の小さなギャラリーで芸術の本質を垣間見た。

二月中旬、友達を訪ねフィンランドはヘルシンキに向かった。

極夜は終わっていたが、日は短い。気温も-10度前後で外に出ると息は真っ白。

ヘルシンキ国立美術館HAMでムーミンをはじめとして、ヘルシンキで生まれた現代アートを堪能したあと、トラムに乗って郊外にある古着屋が集まる地域に向かった。

古着屋やアンティーク雑貨のお店をふらっとして、中心地に戻ろうとトラムを待っていると向かいにギャラリーがあるのに気が付いた。

カラフルな丸い形のものが飾ってあるよう。せっかくなので立ち寄ってみることに。

何かの抽象作品だろうか。よく分からない。

作品の前に立ち止まって作品の意味を考えた。正面からじっと眺めた。何種類かある作品を見比べてみた。隠れた規則性があるのかもしれない。

だが、結局よく分からなかった。

じっと作品を真剣に眺めていたからか、窓際にいた制作者が声をかけてくれて、軽く挨拶を交わすと作品について熱烈に語り始めた。それもとびっきりの笑顔で、イキイキとした声で。

「この作品は、私の体を表しているの!スポンジに絵の具を染み込ませていて紐で縛ったりして形を作ったの。
制作に6ヶ月かかったわ。触っても大丈夫よ。」


彼女に作品に対するパワーに圧倒されてしまった。作品に対する自信、愛、特別な感情。

奥の窓際に座っているのが作者。写真を見てわかるように、彼女はふくよかな体をしている。

彼女は自分の体をモチーフに作品を作った。

その想いの根源は何なのか。

自分の体が好きだからか、強いコンプレックスからその思いをぶつけるためなのか、苦しい葛藤があったのか。

半年間も時間をかけてその作品を作ったわけだ。そんなことを考えていると、彼女の作品に対する強烈な思いが溢れるように感じられた。

はじめにこの作品を見たときの印象とは全く違う。

究極は自己表現。

芸術は、自己表現である。できるだけ大勢の人に賞賛されるために作品を作るわけではないし、お金を稼ぐために作品を作るのではない。

最初に彼女の作品を見たとき、作品の意味が捉えられず、良さが分からなかった。

でもそんなことはどうだっていい。

究極は、自己表現である。自分の思いをのせて、時にはその思いを否定し壊しながら、作品を作る。そこに他者はいない。

バルセロナにあるピカソ美術館で、ピカソの作品をたくさん見た。年代順に並べられており、イメージしていたピカソははじめにいなかった。写実的な絵ばかりだ。いわゆるその時代での一般的な画風だ。

ブースが移り変わるに連れて、画風がどんどん変わっていく。時に苦しそうに、もがきながら。そして行き着いたのが、ご存知のピカソの画風だった。

その一連の流れにはピカソしかいなかった。


自らで生み出すとき、ベクトルを中に向けよう。圧倒的に中に矢印をさそう。鋭く刺さり、熱い何か溢れてくるまで。

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遠山寛治

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