「真実は主観で事実は客観」は事実?

弊サイトの1億円チャレンジャーから紹介された記事。元NHKアナの宮本隆治氏が「事実と真実の違い」を論じているが、主客二元論にハマって典型的なミスディレクションを講じていたので反論。
結論から言えば、事実も真実も主観である。どちらがより「客観的か」は、文脈に依る。

>事実とは実際に起こったうそ偽りのない事柄のこと。でも、真実は事実に対する偽りのない解釈のことなのです。

事実もそれを判断する人の解釈・認識である。故に事実認識とも言う。「太陽は東から昇る」も認識であり解釈だ。「誰からも全く認識・解釈されない事実」は、観察者がいない情景の中にしか存在しない。

>「事実」を使う言い回しは、●事実をねじ曲げる ●事実が判明する ●周知の事実 ●事実無根 となります。どれも、絶対的なものとして扱われているのがわかるでしょう?

真実が捻じ曲げられたり判明することもある。「周知」は程度問題であり絶対的という含意はない。また、仮に「事実無根」が絶対的なら「真実無妄」も同様。一方の慣用句しか紹介しないのはチェリーピッキング。

>一方、「真実」は、●真実を打ち明ける ●真実を述べる ●真実を告白する ●真実味がある となります。打ち明ける、述べる、語る、というように、人の口から語られる印象になるのがわかりますか。

事実を打ち明けたり述べたり告白することもある。また、「真実味」「事実認識」があって「事実味」「真実認識」がないのは、事実よりも真実の方が客観性が高いことを示唆しているからとも言える。

>だからこそ、事実には反論できませんが、真実には反論できるということです。

「事実はそうではない」と反論することは可能。反論できない真実もある。

>真実は、人の心の動きであり解釈ですから、人の数だけあります。

解釈が同一なら人の数よりも少なくなる(「日本の首都は東京」など)が、各人の心の動きや解釈は繊細かつ多様で「人一人に一つしかない」事はないので、事実上「無数」に存在する。

>AさんがBさんを殺してしまったのは事実。もし犯人が「殺そうと思っていなかった」としたら、それは犯人にとっての真実です。

この真実と事実は置換可能である。「殺すつもりがなかったのが事実でも、結局はAはBを殺した。これが真実」という具合。
つまり「目に見えにくく後から分かる事の多いより広く深い事実」を真実と称して強調している、というだけのこと。

>真実は人の解釈。だから、事実は「明かす」、真実は「語る」と言うのです。

これも真実と事実は置換可能。「事実を明かす」は上記の「真実を打ち明ける」と重複・矛盾する。

言葉のプロたるアナウンサーですら、このレベル🙄
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。


以下、弊サイトより抜粋。

事実真実現実史実は全てその解釈者の認識、無数、程度問題。故に「真実は一つ」と視野狭窄した者ほどその矛盾(争い等)を体験。
客観は共有された主観。常識普通正義は各人の判断基準・解釈次第。人知は有限。真偽不明な事象は確率や可能性でしか語り得ない。
フィクションの登場人物が真実は一つと言えるのは「物語の神である制作者の創造物」だから。現実は虚構とは異なる。

論破(洗脳)できたら1億円。現在テーマは約20→http://kanjo.g1.xrea.com/mindo.htm#6

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