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逆エンパスの数奇な人生~隠れた太陽~


エンパスという言葉をご存知でしょうか。

なんだか有名刑事ドラマの番組でとりあげられて以降、かなり露出の増えた言葉なのですが、少数の人間のひとつの体質的傾向をスピリチュアルな側面から理解したもののようです。

疲れやすい、傷つきやすい、生きづらい。

他人の感情に敏感、心が弱い、人見知り。

このような自覚から始まることが多いエンパス体質ですが、実際は、相手の感情やエネルギーが自分の中に勝手に流れ込んできてしまうような、厄介な超共感体質を持った人たちのことです。

実はこのエンパス体質の人たちと自覚症状が似てはいるものの、真逆のエネルギーの方向性を持った体質を逆エンパス体質と呼んだりします。

エンパスについてはインターネット上でも情報が出回りつつありますが、逆エンパスについてはなかなか情報のバリエーションが少ないです。

この記事では自分の身体に純粋エネルギーを宿し、その純粋エネルギーを放出し、周りの人の無意識に常に影響を与えてしまうという逆エンパス体質を持つ黒田明彦の人生を書いていこうと思います。

すでに私の公式ブログでは逆エンパスの記事を結構書いていますが、この記事ではより個人的で、コアな人生の記録を書き綴っていこうと思います。

全文字数 11525


NEW!! 逆エンパスの数奇な恋愛~焼かれる太陽~


1、逆エンパスの数奇な人生~幼少期~

人の記憶というのは曖昧なものですが、私が一番小さな頃の記憶を思い出そうとすると、手押し車を押す、祖母と一緒に最寄りの小学校の近くを散歩していたときのことが浮かんできます。

その頃は当然自分が逆エンパス体質であるという自覚はありませんでした。

というのも、私が逆エンパス体質であることを自覚したのはつい最近です。ですから、この記事は逆エンパス体質を自覚した38歳の人間が、それまでの逆エンパス人生体験を一気に振り返っていく記事になる、ということですね。

・・・

幼稚園に入るまでは、ほぼ毎日近所の子供たちと遊んでいました。隣のY君は、私よりも2つ年齢が上で身体も大きく、私は何を勝負しても勝てませんでした。

しばらくすると隣の隣にM君が引っ越してきて、一緒に遊ぶようになりました。M君は私より1つ年齢が上ですが、私と同様に気が小さく、ガキ大将的な存在のY君に対して二人で怯えているような毎日でした。

Y君が当時、かわいい坊主頭のM君に最初につけたあだ名、骸骨頭(がいこつあたま)ですよ。ひどいですよね。ひどいのに、どこかセンスがあるのが悔しいです。

思い出してみると、Y君との遊びは結構こわい思いをすることが多かったように思います。危ないことをするとか、そういうことはでなく、Y君の態度や発言が、なんとなくこわかったのです。

野球をしていてもなんかこわかったし、自転車に乗っても(私は3輪車でしたが)なんかこわかった。それでも毎日毎日一緒に遊んでいました。

Y君はわりと外で遊ぶのが好きな子だったので、私も一緒によく外で遊んでいましたが、外で遊んだ後、必ずファミコンをやる時間があって、その時間が、私は大好きだったことを覚えています。

Y君の家でY君がやっているファミコンを見ているだけなのですが、それがとても好きでした。別に自分がやっていなくても楽しかった。ちびっ子だったので、自分でやっても上手くできないというのもあったと思いますが。

Y君は、私とM君にファミコンをやらせてくれることはほとんどありませんでしたが、私もM君も、Y君にファミコンをやらせてほしいと訴えたことは多分一度もなく、ただ見ているだけで満足でした。

きっとファミコンの時間だけがY君のこわさが和らぐ憩いの時間だったのかもしれないなぁと今になって思います。

あらためて振り返ってみると、Y君と遊んでいたころは臆病で控えめな子供な感じがしますね。

ー幼少期の逆エンパスエピソードまとめー

家で静かに過ごしていたという記憶はほとんどなく、常にY君達と遊びにでかけていた。

Y君の態度や発言に敏感にこわさを感じていた。


1、逆エンパスの数奇な人生~幼稚園時代~

幼稚園に入園。母の自転車の後ろに乗って幼稚園に行くことは大好きでした。母はとても優しかった。いつも小さな私の望みを叶えてくれた。

幼稚園は本当に楽しかったですね。それまで年上のガタイのいいY君が遊び相手でしたので、同年代の子供が小さく、か弱く見えました。

私の身体は当時からとても小さかったのですが、同年代のガキ大将的ポジションの子供には引けを取っていませんでした。Y君とのこわい毎日による修行の成果がでていたのですね。

誰かが何か新しいことをやっていたらすぐに真似をして、いろんな人と遊んでいました。もう、ずっと動き回っていた感じですね。

幼稚園時代が1つの全盛期でしたね。太陽のように輝いていた。そして、なにものにも、それを邪魔されなかった感じです。

幼少期逆エンパス体験まとめ

とにかく幼稚園で遊ぶのが大好きで、夏休みなど家にいるのが嫌でしかたなかった。

あふれるエネルギーのままに何も考えずに行動し、存在自体が太陽のようにキラキラと輝いていた。


2、逆エンパスの数奇な人生~小学生時代~

小学校時代になると、逆エンパスエピソードがチラチラと思い出されてきます。

低学年の頃はまだ太陽のようでしたね。とにかく何でもやる。勉強もスポーツも同年代の子供たちよりもよくできた。小学校1年生の最初の通信簿は、3段階評価で、図工以外が全部3の優等生でした。

ちなみにその図工も、先生が全部を3にするわけにはいかないから、とりあえず図工を2にしたというように説明されました。

それからというもの私は美術、芸術系の類に苦手意識をもちましたので、あそこで図工にも3がついていたら私の人生はまた変わっていたかもしれません。

スポーツでも、長距離を走っても、短距離を走っても1位か2位でした。まさにスターだったのです。

このあたりを惜しげもなく自慢気に語っているのは、ここが人生のピークだからです。ここから先は、転落と苦渋に満ちた人生が始まりますので安心してお読み続けください。

太陽のようだった小学生低学年の頃は、逆エンパスの1つの特徴である、気がつくと教室中のみんなが自分と同じことをやっているという場面が結構多かったような気がします。

本当に何も考えずにガムシャラに活動していて、顔をあげると、ハッとそのことに気づいて、なんか気持ち悪くなって異常に冷静になってしまう。そしてやってることをやめてしまうということが何回もあったような気がしますね。

とにかく人に勉強を聞かれることは多かったし、クラスの輪の中心でした。

ところで、私実は、幼稚園の頃からかなりの偏食家でして、好きなものしか食べられませんでした。白米にはふりかけをかけないと食べられなかったし、その他の食わず嫌いも非常に多かった。栄養バランスは相当偏っていたようです。

さらに、生まれつき扁桃腺が腫れやすく、よく微熱、高熱を出していました。就寝時には無呼吸症候群もあり、数十秒呼吸が止まってしまうこともザラだったようです。「おまえは冬なのに大汗をかいて寝ていた」と、父によく言われました。

それでも、日中はとにかく動き回っていました。学校の授業の他にも、スポーツ、そろばん、習字などの習い事は、誰かがやっていると、とにかく私もやる!と参加しました。

両親もそんな私の過活動に不思議なほどブレーキをかけなかった。

結果、小学校中学年に入ったころですね、大きな病気を2度もしてしまいました。

1つ目の大きな病気は、スティーヴンス・ジョンソン症候群。体中の粘膜がやられてしまうという数奇な病気ですね。あらためて調べてみると結構大変な病気で、大きな後遺症もなかったことがありがたいことです。

ただ、体中の粘膜をやられてしまったおかげで全然食事がとれなくなってしまいました。口の中の粘膜がズタズタで、痛くて物をいれられなかったのです。そのせいか、入院中、空腹感を増大させる薬を飲まされていたようで、異常にお腹が減りました。口の中の粘膜がズタズタで痛くても、食欲増進によって食事をさせるようにするための処置ですね。

そして、いつものごとく母親は、私が欲しがるものを全て買ってきてしまう。

結果どうなったか・・・、小さく痩せっぽちだった私が激太りです。私この時期に明らかに体質が変わりました。おかげさまで酷い偏食はなくなったのですが、体重が倍くらいになってしまった。

1ヵ月以上の入院期間を経て、学校のクラスに別人のような姿でもどったものですから、みんな本当に驚いていました。「誰?」って皆に言われましたからね。

しかし、当時の私はそんなこと全く気になりませんでした。それまで通りの快活さを保っていました。

メンタルが強いとかそういう話ではなくて、全く気にならなかったのです。きっとまだ、そのときは太陽のままだったのでしょうね。

ほどなくして、2つ目の大きな病気にかかります。腎盂腎炎です。

本当に子どもの頃は全く気にしてませんでしたが、これもなかなか大きな病気ですよね。

入院してベットの上から全く動けない、トイレにも行けず尿瓶で用を足す毎日を過ごしました。

2ヵ月以上の入院を経て、退院。また学校生活にブランクが生まれてしまいます。しかしそれでも私は、何も気にせず学校生活を送っていきました。

病気の影響でしばらくは運動禁止にされていましたので、大好きなサッカーができないこと以外はほとんど困ることもありませんでした。

良い意味で鈍かったのかもしれません。ファッションにも疎かったので髪は、父に叱られるまで、だらしなく伸ばしっぱなしのボサボサだったし、困っている人がいれば考える間もなく助けようとし、誰かが楽しそうにしていれば無邪気に参加した。

環境や他者と違和感なく強い一体感があった。そんな毎日でした。

小学校高学年の頃、父の提案で長いこと煩わせれていた扁桃腺を手術によって切除しました。

それ以降また体質が変わり、頻繁だった発熱はなくなり、就寝時無呼吸症候群もなくなりました。身体の負担が大きく減ったのか、それ以来大きな病気になることもありません。ただ、それまで一度もなったことがなかったインフルエンザには毎年のようにかかるようになってしまいました。

ちなみに小学校の最後の成績は5段階評価でオール5でした。

この頃は、私はすでに運動能力も学力もまったくもってスターレベルではなかったのですが、ほとんど学級崩壊だったクラスをなんとか成立させたいと何も考えずに行動していたところを、先生が評価してくれたようでした。

担任の先生が別れの時に「ありがとう」と、申し訳なさそうに伝えてくれたことを懐かしくおぼえています。

小学校の逆エンパスエピソードまとめ

クラス中の人にとにかく頼られる。

教室中の人が自分と同じことをやっているような場面に気づき、ひく。

自他の区別がほとんどなく、何も考えずに他人を助けることが当たり前。

他人が悲しそうにしていれば、自分も悲しくなるので、楽しくなるようにはたらきかけるし、他人が楽しそうにしていれば、自分も楽しくて満足。

自分のエネルギーがその辺一帯を包み込んでいるようなイメージで、個としての認識が非常に薄い。場=自分みたいな感覚。

あふれるエネルギーのままにとにかく活動する。結果、身体を壊す。

しかし、何度身体を壊しても、太陽は沈まなかった。


3、逆エンパスの数奇な人生~中学生時代~

中学に入って、状況はガラッと変わります。私がちょうど初恋に落ちるころですから、まさに思春期ですね。その頃、私の感覚では、周りの人たちがどんどんギラギラとし始めました。

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