カール・ロジャーズの言葉の体験的理解
こちらはLine@によって、黒田明彦がほぼ毎日配信した、カウンセリングの神様、カール・ロジャーズの言葉についての検討のまとめです。
内容はほとんど来談者中心療法についての内容で、ロジャーズの言葉について黒田の体験的理解を書いています。
カール・ロジャーズの来談者中心療法について理解を深めたい人は読んでみてください。
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ロジャーズの言葉の体験的理解1
個人を、現にあるがままで、また将来なるであろうそのままで、尊敬し尊重すること。
人間の成長の可能性―個人がなんらかの促進的な心理的風土にさらされるときに明らかとなるーを信頼すること。
人が、自分自身の経験に対してもっと心を開き、自分自身の感情や知覚に対してもっと敏感であるように激励すること。
人間相互の関係やグループで生きている状況において、もっと深く、しかももっと直接的に気持を通じ合うように激励し、そしてもっと有意義かつ相互的な理解を打ち立てること。
ロジャーズはひとりひとりの人間をあるがまま、尊敬し尊重すること、人間の成長の可能性を本当に信じていた。
そしてひとりひとりの人間が、自分の経験にもっと心を開き、感情や感覚にもっと敏感であるようにと応援していた。
この人間の成長の可能性は、なんらかの促進的な心の状態になるときに明らかになると言っている。
カウンセリングは、個人の成長の可能性が促進されるような心の状態をつくる関係のことだと言える。
ロジャーズの言葉の体験的理解2
私たちの目標は何なのか?私たちの価値はいったい何なのか?私たちは人生へどのようにアプローチしたらよいのか?という疑問に対し、カウンセリングにおける密接な関係があらわにする個人個人の行動を検討することにより、なんらかの光がこれらの疑問に投じられることをロジャーズは確信していた。
ロジャーズは1961年に日本を訪れたとき、アメリカと同じく日本にも工業化され都会化されていく中での内面の危機を感じたそうです。そこから50年以上たった今、上記の疑問は解決され、私たちの心は満たされ、カウンセリングが必要のない世の中になっているだろうか?
ロジャーズの言葉の体験的理解3
ロジャーズは40年にもわたってカウンセリングにおいて何が展開されてゆくかを観察し、その純粋性に基づき論文を書いてきた。
カウンセリングの諸現象を公式化し説明すること、そして教育や哲学の諸問題に対してアメリカの文化や日本の文化にまっこうから立ち向かっていった。
静かな革命家とも呼ばれたロジャーズだが、文化のように当たり前のように経験的に学び、身についているものに、まっこうから立ち向かえることは本当に希少である。
たとえば自分の親、たとえば学校の先生、お医者さんや警察官もそうかもしれないが、ある一定の権威を持った人たち、自分に対して影響力のある人たちが、正しいと強く、当たり前のように主張しているものに、自分の純粋な経験を根拠に抗うわけだから大変である。
「それ違うよね?」「私はこう思う」そんな経験を繰り返し声にして証明していかないとならない。
時代を変えるのは、時代の正しさに負けない純粋性なのである。
ロジャーズの言葉の体験的理解4
もしこの全集によって、読者が、セラピィや教育についての私のスタイルに、あるいは、私のいろいろの考えや理論に、奴隷のように献身的になれば、それはもっとも不幸な成果であるからであります。私は信心深い追随者たちをありがたいとは思いません。私はひとりの主人公であると考えられたくありません。私は、なんらかの礼賛もしくは狭隘な思考学派を打ち立てたくありません。私がもっとも望むこと、それは、私の諸論文が、読者をして自由に読者自身の思考を思考し、なんらかの援助的な関係についての読者自身のスタイルを発展させ、読者自身の価値判断を公式化するのに役立つことなのであります。もしもこの全集の各巻が、新鮮な思考を刺激するのに役立ち、洋の東西を問わず、人間や文化に現存する多くの基本的な諸問題への創造的なアプローチを励ますならば、私は、心から喜ばずにはおられないのであります。(ロジャーズ全集第3巻 サイコセラピィより引用)
上記は、ロジャーズの学習に関する考え方、クライエント中心、人間中心の考え方がよく表れている文章である。ロジャーズはそれぞれの人が、それぞれの人のところで、それぞれの独自的な発展、成長をしていくことを本当に望んでいたようだ。
ロジャーズの言葉の体験的理解5
ロジャーズは、学校の教室で行われている学習を憂いていた。
ある一人の著者の作品から学ぼうとするとき(教科書など教材)、現に生きている学生が、作者のかつては生きている思想や経験であったところ、その活き活きとした生命を喪失してしまっていることに気づくことさえなしに、その断片を持ち歩いていると。
黒田が学校の勉強が面白く感じられたのは小学校低学年ぐらいまでだった。
そこからは生活に必要な学び、自分に必要な学びという実感も薄く、広く浅くものごとを教えられるままに覚えていく感じだった。
黒田にとってそれは、退屈なものだった。それでも暗記が得意な人、ある教科に特別な才能をもらった人などは意欲的に取り組めていたのだろうか。
黒田が学習を面白いと感じられたのはカウンセリングの学習に出会ってからだ。
与えられたものをただ覚えていくようなものではなく、自分で見て、聞いて、自分で探し、やってみて、身につける。
何を学ぶかは、完全に黒田に任されている。
そしていつだって体験が先、理論は後。
黒田の学習のプロセスでいうと、エンカウンターグループの学習を何度も体験した後にロジャーズの論文をまとめ読みした。
すると、体験したことがそのまま書いてある!と驚いた。
おそらく体験が後だったら、文字を追うことはできても、そこに書いてあることを体験的に理解することはできなかっただろう。
学習を重ねている今、ロジャーズの論文集を開くたびに、読める部分が増えていく、読めるところが変わっていくという感覚をもっている。
本から学ぶということはそういうことだと黒田は思う。
ロジャーズの言葉の体験的理解6
クライエント中心療法は変化しつつあるアプローチである。ロジャーズは自らのカウンセリングアプローチを、静的なもの、一つの方法、一つの技術、一つの硬直した体系とはとらえておらず、流動変化、絶え間なく変化してゆく考えの流れにおいてのいくつかの中心的仮説があるだけだといっている。
硬直よりも変化、それがクライエント中心療法に従事している人々にとって最も顕著な特質であるというのだ。
このロジャーズの仮説(プロセス)という考え方は非常に興味深いです。物事を静的なものではなく動的であるととらえること。
流動変化が基本であるから、定説ではものの本質はとらえきることができず、すべては仮説となる。
目の前のクライエントを動的な、流動変化している存在であるととらえられるかどうかは、クライエントがカウンセラーに「わかってもらえた、理解してもらえた」という本心からの感想をもつことと無関係ではないように黒田には思える。
ロジャーズの言葉の体験的理解7
ロジャーズはカウンセラーがお相手する人を「クライエント」と称したはじめての心理療法家である。それまでは、カウンセラーのお相手は、患者、被験者、カウンセリー、被分析者、などと称されていた。
ロジャーズの思いをそのまま引用すると「なんらかの問題について援助をうるために積極的かつ自発的に来るが、しかし、現に生きている状況に対する自分自身の責任を引き渡すような意向はなんら持っていない人なのである。」(ロジャーズ全集第3巻サイコセラピィより)となる。
この辺りの呼称を変化させたのも、ロジャーズが、人間それぞれの独自的な発展、成長を信じて疑わなかったからこそだと思う。
ロジャーズが実施していたカウンセリングは、カウンセラーが、その人に何かをやってあげるとか、カウンセラーの力でその人を導くものではなさそうである。
また、与えるもの、与えられるもの、施すもの、施されるもの、なんかそのような上下関係、力関係で行われるものでもなさそうだ。
黒田自身、心の不調を抱え、苦しんでいたときに、「患者」にはなりたくないという気持ちが強かったのをよく覚えている。
黒田はきっと、自分自身の責任を引き渡すようなことなどしたくない!と強く思っていたのだと今では思えるのだ。
ロジャーズの言葉の体験的理解8
ロジャーズは、セラピーの効果を科学的に証明しようとした一人だが、新しい考え方が批判されがちなのは、その考え方に対する科学(客観的な証拠や再現性)が成長する仕方が理解されていないからだと言っている。
ある一つの考え方が浸透していくには、科学的段階の前に、文化的段階があると。
また、真理はそれまでの歴史的、伝統的な考え方との折衷案、どちらかの譲歩によって生まれるのではなく、いろいろの問題が研究証拠によって解決されるとき、そしてそれに対抗するいろいろな考え方が見事に吸収され消滅するときに生まれるのである、と。
黒田は現代社会に当たり前のようには浸透しているとは思えない経験的発見の一つに、「自分の経験を語り、誰かに聞いてもらうことは、単なる情報のやり取りとは比較にならないほどの充実感を持っている。」ということがあると思っている。
これらの科学的証拠を並べることは黒田には難しそうです。ロジャーズの論文の中でも科学的な考察の部分を読んでいると頭が痛くなってしまう。
「カウンセリングの学習、おもしろいよ。一緒にやろうよ。」
ただ、もうちょっと丁寧にカウンセリング学習の面白さを経験的に伝えていけるようにはなりたいなと思っている。
ロジャーズの言葉の体験的理解9
ロジャーズは非指示的カウンセラー(クライエント中心のカウンセラー)が、自分のクライエントがパーソナリティの再体制化の成果を多く出しながら、ますますカウンセリングの期間が長くなっていることを興味をもって見つめていた。
最初はどのケースも5~6回の面接で終結し、たまに15回以上になることがあったカウンセラーが、10年ぐらいキャリアを積んだ後は、クライエント平均15~20回の面接をし、50回もしくは100回の面接もまれではなくなったとのことだ。
単純にカウンセラーの腕が良くなると、面接効果があがり、面接回数が少なくてすむようになる、そうなるべき、という感じではなさそうだ。
クライエント中心療法は、カウンセリングの期間がかかりすぎるという批判があったような気がするが、ロジャーズはあんまり気にしてなかったみたいだ。
やっぱりカウンセリング面接は治療という側面よりも、学習という側面が強いんだろうなと思う。
自分の学習を助けてくれるパートナーのもとに何度も足を運ぶことは自然なことだし、何度も足を運びたくなるパートナーをもてることは幸せなことだとも思う。
やっぱり、学習ってね、楽しいんですよ。本来は。
ロジャーズの言葉の体験的理解10
クライエント中心療法は、基本的には青年や成人のカウンセリングに役立つ、言葉をのやり取りであると考えられた。
しかし、クライエント中心の考え方は、子供とのプレイセラピーにも、子供と大人どちらの場合のグループセラピーにも、大学のクラスにも、組織の管理や委員会の仕事においても試され、そして効果をあげている。
クライエント中心療法は、カウンセリングのあるひとつの方法から人間関係へのアプローチにまで発展していることをながめている、とロジャーズは言った。
やはり、クライエント中心の考え方は、心に問題を持つ人のための治療のためだけのアプローチではなく、万人にとって効果的な学習体系を提供するものであると黒田は思う。
どういう条件が揃うと、人はより個人的に、より経験的に、より意欲的に、より元気に学ぶことを始めるのか?という知恵であると思う。
クライエント中心の学習の具体的例として、ある小学校の先生が、教室に入って来て、黒板の前に立って、それから一言も話さないという授業をしているという例があるそうだ。
その後どうなったのか…、大きな混乱がしばらく続いた後、児童たちはそれぞれ自分で学習を始めたのだ。自分自身の言葉と意欲をフルに活用して。
そのクラスはみるみる学力の向上を果たしたようだが、その先生の授業方針は学校に睨まれて遠くの学校に飛ばされてしまった。
この話を聞いて、真似したいと思う人がどれだけいるかはわからないが、授業や児童を生き返らすことができるアプローチは確かに存在するようなのだ。
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