複雑にしたい

 毎日しんどくて、物事を理解するのにとりあえず「これはこういうもの」と単純化して収めないとパンクしてしまうし、それほど考えなくちゃいけないことが多い。
しかし単純化するほど「それは自分が悪い」という結論に向かってしまう考え方の癖のせいで際限なく自分を痛めつけてしまうため、生活が困難になってきた。

なので最近は、複雑なものを複雑なままに捉えられるようになりたいなと思って取り組んでるんだけどなかなか難しくて困っている。
この困り具合が、複雑な物事を捉えるのに必要な筋道というのはなんとなくわかるし、この難しさが必要な感じもする。
最近は抑うつがひどくて本も読めなくなっているので勉強は捗らないが、それでもなんとか探ろうとする中で一つ、これは新しい捉え方かも?と思えた考え方がある。


 それは、「感情が成熟すると、捉えられる感情が増える」というものだ。

 精神分析の考え方に、感情というのはもともと怖いとか楽しいとか単純なものしか感じ取れなくて、思春期を経て色々な体験を通すとその感情のなかに多くのバリエーションがあることがわかってきて、段階的に感じて捉えられる感情が増えていく、という言説がある。

これを、たとえば「男女の友情は成立するか」みたいなよくある命題に当てはめてみる。

まず、「成立しない」ということについて考えてみると、そこには性差があるから相手を性交可能な異性として見てしまって性欲が挟まってきてしまい、よって成立しない、という考えになると思うんだけど、これはただ単純に好意のバリエーションが自分の中に少ないということを表しているのだ。
自分の中に感情の種類が少ない場合は、好意がそのまま自分の性欲に結びついてしまう。
つまり感情の起伏として未熟な状態といえる。

その好意は、果たして本当に性欲に帰結しなくちゃいけないものなのか、を疑えないだろうか?

この、感情や感覚の未舗装で短い通路が、自分の人生を進めていく中で起きたたくさんの出来事によって影響を受けて成熟をともなってくると、
その「好意」の中にも、尊敬とか親しみとか安心とか友愛とか複雑なものがいくつも絡み合っていることを体感するようになる。
そうすると、性愛や性欲を伴わない好意の関係性というものがあることがわかってくる。
よって、男女の友情は、成立するしないという二元論ではなく、未熟な状態では「しない」と捉えるしかないが、成熟することで「する」と捉えられるようになる(かもしれない)と考えることができる。
成立不成立の二元論ではなくて、直線的に、到達する方向の考え方で捉えられるのだ。


これを僕に当てはめる。

僕は、おじさんはキモいとか、自分が悪いとか、異性がエロいとかなんでも決めつけて、そのままならなさに適応障害のようになっていたが、これはつまり未熟だからで、その先にまだ理解の裾野が広がっていると考えられるのなら、少し希望があるのかもしれないと思った。



 毎日は暗くて、もう自分の私物は本も服も何にもなくなってしまったが、楽器だけはまだ捨てられなくて残っている。
曲を作って少し歌って、自分がしてもいいと思うことを自分でする感覚の糊口を凌いでいる。

サブウェイのアボカドベジー食べます