嫌そうにやる 

◯同意なき
 「相手が嫌がってなかったからOK」が、完全に間違っているのはわかる。
自らの優位な立場から判断しているのがフェアじゃないし、相手が断れない状況や背景にあることも考えられない、傲慢で無自覚な態度だ。
これには議論の余地も何もなくて、浅はかな判断をそのまま批判すればいい。


 これの、立場が逆なだけのパターンってあるかなと考えていた。

 先輩とか立場が上の人に何かを頼む状況って、結構ある。
そして、意向を伝えた目上の立場の人が、
めんどくさいと言葉に出したり、表情が不機嫌になったりしながらも「めっちゃ嫌そうに、やることにした」という状況も、結構ある。

 果たしてその行為は、NOなのかYESなのだろうか、と思った。
最終的にはやってるんだからYESっぽいんだけど、嫌だなと思っているのでNOの要素もある。
後輩に対して「NOである感じ」をアピールしてるからNOっぽいんだが、最終的にはやってくれているからYESなのか。
 立場が上の人には、本当は嫌だったのならあの時本当はNOだったと言える権利はあるのか。
現状の社会感覚ではあまりなさそうだし、仕事とか身近な関係性においては、最終的に嫌そうでもやったのだからやはりYESとなるのだろう。


◯嫌そうにやる
 同意における、立場の可逆性について考えてみたけど、目上の人の場合は、最後YESはやはりYESと捉えられるなと思った。
これはつまり、目上の人には「実は嫌だった、NOだった」がないということでもある。
ハラスメントは権力勾配があるところに起きるのだから、目上の人がどう考えるとかは筋違いで、逆とかは特にない。

 同意においては立場が逆とかは特になくて、すなわち権力勾配の話だなとわかったわけなのだけれど、しかしこの立場が上の人が「嫌そうにやる」ということの曖昧さについて今まであまり考えたことがなかったとも思った。
いま僕は年齢的にも立場的にもおじさんになってきて思うんだけど、自分が、おじさんが「嫌そうにやる」ことをちょっと考えてみた。

◯おじさんのNO
 おじさんという言葉の意味を全員で悪くしすぎたせいで、おじさんも自分を大事にすることを放棄しないといけなくなっている、ということはよく書いているんだけど、
それに付随する話で、おじさんはもう「本当は嫌だった」ことすらも言えなくなっているんじゃないだろうか。
権力勾配的に上にいる状態ゆえに、おじさんの応対は常に一発勝負というか、何かが嫌だったとしても、立場や権力が上にいる自分が判断してやることにしたのならもうYESにするしかないというか、自分の中にあったNOの選択肢を殺してしまうのだ。

 また、おじさんは普段からマジョリティ男性として特権的に生きているので、社会の仕組みや大体の物事が自分のためにお膳立てされているため、自分の感覚や考え方が何によって作られたものなのかを考えなくて済むようになっている。
この特権的な仕組みが逆に、おじさんが「本当は嫌だな、本当は変だな」ということに気がつく機会をなくしている側面もある。

「嫌そうにやる」においては、嫌そうにの部分でNOの感情を消費したことにして選択肢から消してYESのみを残し、後から振り返ることができないようにしている、そうして痛めつけている、という動きがある。


「本当はNO」を殺し続けていると、自分は不当に我慢をさせられていてかわいそう、という気持ちが醸造されてくることもある。
自分の行為がただの悪であるときも、本当は嫌だった気持ちを押し殺したのだ、というふうに歪んでくることもあるだろう(例えばセクハラを告発されても、本当はセックスしたかったのに我慢した自分がかわいそうだった、というストーリーに作り替えて理解してるように見える)。


◯雑まとめ
 おじさんの判断は、立場や年齢の権力勾配と、社会的マジョリティ属性のパワーが混ざり合って、自分が何を基準に判断しているのかが分かりにくくなっている状態にある。
「嫌そうにやる」のなかに、自分の判断基準の中にある、権力要素がどのような割合で混ざり合っているのかに、気がつくチャンスがあるかもしれない

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