安心安全は一理の殴り書き

 人や社会や自分や他人と関わる時に「安心と安全が保証されている」ということがいかに重要で必要かを、最近改めて感じている。

 仕事でも趣味でも普段の生活でも全てそうだ。経済的な面でもそう。経済的な安心があるから、何かをするときに行動の選択肢が増えたり、そもそも行動ができたりする。
人との関わりでもそう。攻撃されない安全があるから相手とコミュニーケーションがとろうと思えたりするし、話を最後まで聞いてもらえるという安心があるから、関係を持ってみようと思える。単純に、人体について言ってみてもそう。睡眠を取れていたほうが考えがまとまるとか食事を取れているほうが体が動くこともそう。全部そうだ。 
自分がいま安全で、安心な状態にあって初めて、社会に興味を持てると思う。

 僕は会社の代表に就任してからのここ1年ずっと、自分の行動について「そんな程度の頑張りでいいの?」という呪いがかかっているように感じていた。
立場や環境が勝手に作られてしまい、取るべき行動や、思い込むべき言動に縛られていたということだ。

だからこそ僕は努めて「安心安全を担保すること」をとにかく目標にやってきたんだけど、
最近は、仕事で接する部下や後輩は、まず僕に最後まで話を聞いてもらえるという前提があるから自分の意見を持てているように感じるし、タレントや芸人のような自己責任と才能で勝負しなくてはならないような職業の人も、まず自分の考えることが面白いことであると肯定されている環境でより輝いているように見える。
この先どうするんだよとかじゃなくて、「あなたはいま面白いよ」が結果、未来を作ってるみたいな感覚だ。

これは、今までなんとなく「そういうこともあるらしい」と思っていたことが、自分の生活で実際に立ち現れたことになったということで、だから僕は、「この年になって改めて」安心安全のすごさを感じている。

 しかし僕はこの「この年になって改めて感じる」という感覚について考えてみたいとも思った。
僕はいま、今日時点の感覚で、安心と安全が担保されていることは何よりも大事で必要なことだと感じているが、この年になって改めて感じるということは、そう考えていない時期もあったということで、そう考えない人もいるだろうとわかったり、その人たちからすれば僕の意見も「そういう意見もあるよね。一理ある」のなかに絡め取られてしまうという社会状況があるのではないかと思ったのだ。
僕は安心安全を、水や酸素と同じくらいの意味での大事さと感じているが、
「甘いこと言ってんじゃないよ」とか「それは理想論でしょ」とか「リスクを取らなきゃ得られないよ」など、「君のいうことも一理あるよね」くらいの軽い感覚で捉えられて、軽くまとめられてしまいそうなときがある。

 いや違うって、マジで水くらい、ちょうど水くらい大事だって。

 僕自身も過去に、恐怖や圧力で自分にプレッシャーをかけて(もっと、こうしたほうがいい、このままじゃダメ、こんな現状でこの先どうする)、それを原動力に、恐い色の結果や金額を手に入れたりしていた。だから、今になって改めて思うのだろう。

 結果を出したい人や、結果を出させたい人は、次や未来が大好きなようだけど、いまが安全じゃなきゃ未来はその時点でないんだって、なぜわからないのか。そして僕はなぜわからなかったのか。
僕は何を信じて思い込んでいたのか、そして周りの皆は今も何を信じて思い込んでいるのか。
いま安心安全であることは、「それも一理あるよね」で片付けていいようなことでじゃない大事さを抱えていると思うんだけど、身体や他人を恐怖で縛ってまで達成しなくてはならないと思っている自分は誰なのか。

答えはまだ簡単には出ないのだが、それでも僕は、次や未来だよと煽ってくる社会に対して、「嘘つけ!今だろ今!」と打ち返したい感覚がある。

安心安全が1番という、「ご立派な考え」を、一理あるに絡め取られずに、普通に実現させてみたいなと思っている。

サブウェイのアボカドベジー食べます