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【試し読み】北村紗衣「理想宮か、公共彫刻か?――『アナと雪の女王』」(『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』より)

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なぜ私はディズニーが嫌いなのか

 前のシンデレラに関するエッセイをお読みになった方ならなんとなくおわかりかと思いますが、私はディズニーが好きではありません。このエッセイでは新しいディズニープリンセス像を提示した作品として、二〇一三年に制作された『アナと雪の女王』を分析していきたいのですが、その前になぜ私はディズニーが嫌いか、ということを少しだけお話ししておきたいと思います。

 私がディズニーを嫌いなのは、ディズニーはシンデレラや白雪姫など、人類共有の遺産としての民話や古典を再利用しまくることでお金を稼いできたのに、他のクリエイターにはなかなか自分の著作物を自由に使わせたがらないからです。一九二八年に登場したミッキーマウスはもうとっくにアメリカでの著作権が切れて他の芸術家が使えるキャラクターになっているはずですが、ディズニーはミッキーの著作権が切れそうになるたびに運動して著作権を伸ばしてきました。ディズニーは基本、夢とか魔法の話をするだけで、自由には興味がない会社だと思っています。

 『アナと雪の女王』は一見、自由を訴える作品に見えます。しかしながら、この作品が提示している「自由」は非常に限定されたものではないか、というのが私の考えです。ここでは、『アナと雪の女王』がなぜ見かけほど「自由」な話ではないのかについて分析していきたいと思います。

隠れた力が象徴するもの

 『アナと雪の女王』のヒロイン、エルサは雪や氷、冷気を操る力を持って生まれた王女です。もうひとりのヒロインである妹のアナをうっかり傷つけてしまったことをきっかけに、エルサは城に閉じこもり、力を隠して生きるようになります。シャイなエルサと陽気なアナ、対照的な姉妹が自分らしく生きられる道を見つけるまでを、音楽をまじえてドラマティックに描きます。

 この作品は、王子様と結ばれることを解決としない革新的なディズニープリンセスの物語、姉妹の連帯や友愛をテーマとするフェミニズム的な作品として高く評価されました。エルサの声を担当するイディナ・メンゼルが歌う、主題歌的な位置づけの‘Let It Go’ も覚えやすいメロディとパワフルな歌詞で高い人気を誇っています。興行的に大成功しただけではなく、批評の点でも非常に関心を集めた作品で、二〇一五年にはこの映画だけをテーマにした学会がイギリスのイースト・アングリア大学で開かれました。

 エルサはさまざまな角度から読むことができる芸術的な曖昧性を持ったキャラクターです。良い芸術作品というのは、大勢で観賞してもまるで自分だけに語りかけてくれているかのように感じるものです。『アナと雪の女王』も、見る人によって芸術家の話だったり、身体障害の話だったり、児童虐待にあった子どもの話だったりします。

 こうした中、アメリカのセクシュアルマイノリティのコミュニティでは、『アナと雪の女王』は同性愛や無性愛(アセクシュアリティ)、ジェンダーアイデンティティの物語として受け取られました。私も初めて映画を見た時、エルサはディズニープリンセスとしてはかなり「ゲイ」なヒロインだと思いました。まず、エルサは作中で一切、異性愛とかかわりません。プリンセスなのに求婚者すらいませんし、作中では男性との恋愛に一切興味を示しません。アナが男の子にのぼせ上がっていることについては冷めたコメントをしていますし、最後は異性との恋愛なしに家族愛や友愛だけで幸せで満ち足りた状態になります。アナが恋をしたハンス王子が突然デートDV男に変身するという、一見突拍子もないように見えて十代の若者にとってはひょっとしたらかなりリアルなのかもしれない展開も含めて、この映画は異性愛に対する幻想を打ち砕いているところがあります。

 さらに、エルサが社会から排斥される理由となる氷の魔力は、肌の色や目に見えるような身体障害とは違い、視覚的に「あ、あの人は他の人と違うな」とすぐ判別できるようなスティグマではありません。隠しておけば誰からも気付かれずに暮らせる可能性もあるものです。同性愛者が異性愛者として暮らすなど、差別を受けている少数派が社会的に自分を多数派として通用させることを「パス」あるいは「パッシング」と言います(この言葉は、少し文脈が違いますが、人種やジェンダーアイデンティティにも使います)。エルサの力は隠しておけば十分社会的にパスしうるものであって、これはかなりセクシュアリティによる差別を連想させます。

 同性愛がイギリスで違法だった時代、オスカー・ワイルドの恋人だったアルフレッド・ダグラスが詩「ふたつの愛」で「その名を口にできぬ愛」という言葉を使って以来、同性愛は文芸において「口にできない」‘unspeakable’ ものとされてきました。二〇一一年まで、アメリカ軍では同性愛について‘Don’t ask, don’t tell’、つまり「聞かざる言わざる」という、同性愛者であることを黙っていれば軍に入隊ができるというポリシーがありました。英語圏の文化において、同性愛というのは長きにわたり、隠されたものとして扱われてきたのです。

 エルサが歌う‘Let It Go’ の英詞を見ればわかるように、氷の魔力は「隠しておけ、感じるな、人に知らせるな」‘Conceal, don’t feel, don’t let them know’ というモットーのもとに秘密にされてきたもので、このあたりはアメリカにおける同性愛の扱いを思わせます。エルサはこれを隠すために宮殿の内宮に軟禁されているわけですが、これも「クローゼットに入っている」という英語の表現につながります。英語では、‘in the closet’ とか‘closeted’、つまり「クローゼットに入っている」で「同性愛者であることを隠している」という意味です。「カミングアウト」という言葉は日本語に入っていますが、もともとは「クローゼットから出る」‘come out of the closet’(カム・アウト・オヴ・ザ・クローゼット)で「同性愛者であることを明らかにする」という意味でした。エルサは結局、自分の力をクローゼットにしまっておけなくなり、パスできなくなるわけですが、バレてしまったら化け物扱いされる、というのもエルサの魔力と同性愛の共通点です。

芸術と社会

 エルサは‘Let It Go’ を歌いながら山に引きこもって変身してしまうわけですが、突然ドラァグクイーンかバーレスクパフォーマーみたいなオシャレなドレスに着替え、さらにものすごいクリエイティヴィティを発揮して立派な氷のお城を創作します。ゲイやレズビアンはクリエイティヴだというステレオタイプがありますが、この映画はこのステレオタイプを利用しているように見えます。姉を探しにきたアナはオシャレになったエルサに会った時、その変わりようにびっくりしますが、ここはカミングアウトして家出した家族に久しぶりに会ったらゲイっぽくキャンプでアートな感じに大変身していた、みたいな感じのシチュエーションです。

 こんなエルサを悪役として描かず、魅力のあるヒロインとして最後は解放するあたり、この映画はある程度までは人と違うことに関する「自由」についての映画です。しかしながら、私はこの話はそこまで自由な話ではないと思います。それはエルサの魔力が結局、社会に還元しなければ価値がない、というような方向に着地するからです。

 エルサが人里離れた雪山に逃げ込んで作った氷のお城はびっくりするほど綺麗ですが、一方で異界に属する危険なものでもあります。二十世紀初めに、一切建築の勉強をしたことがなかったフランスの郵便配達人であるフェルディナン・シュヴァルが非常に個性的な建物を自力で作り、これは「シュヴァルの理想宮」として有名になりました。オーソドックスな美術の教育を受けていないエルサが作った氷のお城は彼女の理想宮であり、アウトサイダーがひとりで勝手に作った凄いもの、孤独の産物としての芸術作品です。

 別に人間嫌いなのは悪いことではないですし、そういう人を無理矢理コミュニティに組み込もうとするのは余計なお世話です。エルサが山でこういう個性的な芸術作品を日々洗練させながら、雪だるまを相手にひとりで世間を呪って暮らしていってもいいんじゃないかと思います。でも、この話ではそうは問屋が卸しません。力の暴発のせいで故郷までもが氷に閉ざされてしまったため、エルサはこれをかつての状態に回復させるという社会的責任を負うことになります。エルサは妹との家族愛の絆にも助けられ、どうにか女王としての責務を果たして、公共圏にもとの気候を取り戻します。映画の最後で、エルサは魔力を用いてスケートリンクや氷の彫刻を作るようになります。孤独の中で作った氷の城がどんなに凄くても、結局はうち捨てられる運命でした。

 つまりこの映画では、自由を謳歌し、階級や社会が求める役割から離れて、人と違うことによって生じるものすごいクリエイティヴィティを自分のための芸術作品に費やすよりは、市民のためにちょっとベタな感じのスケートリンクとか公共彫刻を作ることが評価されるのです。これは好みの問題ですが、私はこういう、マイノリティは必ず包ほ うせつ摂して世間に対する責任を果たしてもらわなければいけないし、ひとりは寂しいから社会や家族とかかわってこそ幸せ、みたいな落とし方はちょっと押しつけがましいと思います。

 アメリカの子ども向け映画においては、こういう脅威になりうる特異な才能を持った人を社会に取り込むのが必要だ、というのは繰り返し出てくるテーマです。たとえばドクター・スースが一九五七年に刊行した絵本『グリンチ』はアメリカで愛され、何度も映画化されている作品ですが、これはクリスマスを楽しむ人々からプレゼントを盗もうとする人間嫌いの主人公グリンチを、村人たちがなんとかコミュニティに迎え入れようとする物語です。二〇一八年にイルミネーションが制作したアニメ版の映画では、発明家として素晴らしい才能を持っているグリンチが、その技術を嫌がらせではなく、過労のシングルマザーのための家事自動化に活用するようになるという話にな
っています。エルサやグリンチのようなキャラクターが愛されるのは、おそらく生まれ持った才能、神から賜ったものとしての才能(英語で才能は「贈り物」を表す‘gift’ と言います)は独り占めしたり、悪いことに使ったりするのではなく、人々のために使わなければいけないという考え方が、独自の信仰を擁するキリスト教国であるアメリカに根強いからかもしれません。

北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)より

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