第9回 文学を成功作と失敗作に分けてみよう──リチャード・グレイが提唱するフィクションの好ましきあり方(矢倉喬士)

個人的なトラウマを描いたら失敗?

 文学に成功や失敗はあるのだろうか。エセックス大学教授のリチャード・グレイ (Richard Gray) は、2011年に出された『崩落の後で──9.11以降のアメリカ文学 (After the Fall: American Literature Since 9/11)』(未邦訳)という本の中で、9.11同時多発テロ事件以降に出された文学作品を成功と失敗に分けるという大胆な試みを行った。

 グレイによれば、9.11の被害者のトラウマ描写に拘泥し、男女や家族が結ばれる展開を通して危機を飼いならすような作品は失敗とみなされる(Gray 30)。グレイが失敗作として挙げた作品を以下に列挙してみよう。

・クレア・メスード (Claire Messud)『ニューヨーク・チルドレン』(2006年)
・ケン・カルファス (Ken Kalfus)『その国に特有の病』(2006年、未邦訳)
・ジェイ・マキナニー (Jay McInerney)『グッド・ライフ』(2006年、未邦訳)
・ジョナサン・サフラン・フォア (Jonathan Safran Foer)『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005年)
・ジョン・アップダイク (John Updike)『テロリスト』(2006年、未邦訳)
・ドン・デリーロ (Don DeLillo)『墜ちてゆく男』(2007年)
・フレデリック・ベイグベダー (Frédéric Beigbeder)『世界の窓』(2003年、未邦訳)

 逆にグレイが考える成功作とは、アメリカ内部の亀裂や「異種混淆性」に注目し、テロリストと犠牲者の境界を揺るがし、国家間・文化間・宗教間の相互影響と変化を描き出すような作品である(Gray 32,83, 89)。成功作には以下のようなものが挙げられている。

・アンドレ・デビュース・三世 (Andre Dubus III)『最後の日々の庭』(2008年、未邦訳)
・ジョセフ・オニール (Joseph O'Neill)『ネザーランド』(2008年)
・デニス・ジョンソン (Denis Johnson)『煙の樹』(2007年)
・デボラ・アイゼンバーグ (Deborah Eisenberg)『スーパーヒーローたちの黄昏』(2006年、未邦訳)
・モーシン・ハミッド (Mohsin Hamid)『コウモリの見た夢』(2007年)

 なぜ今になってリチャード・グレイによる成功作と失敗作の仕分けを採りあげているかというと、ドン・デリーロの『ポイント・オメガ』(2010年) の批評においてグレイの文学仕分け作業を引き継ぎ、『墜ちてゆく男』は危機をアメリカ国内の犠牲者のトラウマに貶めて解釈した失敗作だったが、『ポイント・オメガ』はその欠点を克服し、国際的視点すらも飛び越えて宇宙規模の問題を扱うことに成功していると評したピーター・ヴァーミューレンの論考に出会ったからだ (Vermeulen 66-67)。ヴァーミューレンは、何か事件が起こったときに犠牲者のトラウマ・内的葛藤・自己憐憫に執着する作品を失敗とみなすグレイの視点を引き継ぐだけでなくさらに発展させ、国際規模すらも超えて人間性がもはや問題にならない惑星規模の時空感覚に触れることで現実認識を更新するような作品を評価している。一人の人間を中心とする視点を離れて、違ったスケールを、とりわけ大きなスケールを提示する作品が偉いという価値観である。

 このような基準を設定して文学を成功と失敗に分けるグレイやヴァーミューレンの考えを2月8日に福岡天神にある本屋兼カフェの「本のあるところajiro」で紹介したところ、当日お越しくださったお客様からそうした基準には必ずしも賛同できないという声を頂戴した。そのうちのお一人は、「自分を離れたところで物事を考えよというのは半分程度賛同できるが、国際規模や惑星規模で物事を考えるといっても結局自分という中心的視点がなければ惑星規模の問題などどうでも良いとしか思えないのではないか」という問題提起をくださり、もう一方は「作品に出てくる食べ物がおいしそうに描写されているかどうかといったキャラクターにとっての身の周りのものへの感覚を読む楽しみもあるし、自己中心主義や人間中心主義すら脱した作品があったとしても読者に訴えかけるものが少ないのではないか」という主旨であったように思う。

 さらに、3月17日に福岡天神の「酒場のシャトル」で行われた福岡文化系読書会でも同じ内容を紹介してみた。場所と参加者が違えば出てくる意見も違うもので、「商業的に成功したかどうかなど何らかの尺度で作品の成功と失敗を判定すること自体はよくあるし、作者本人が失敗作と断定しているケースもあるので、何か基準を設定して成功・失敗と断じることは別にかまわない」、「自分の琴線に触れたかどうかが自分にとっては成功作の基準」、「何らかの基準に沿って成功と失敗を分けても良いけれど、画一的に成功と判定される作品だけになってしまうとつまらない」などの意見を頂戴した。

天神の「酒場のシャトル」で開催された福岡文化系読書会の様子。課題図書は設定せず、参加者が好きな本を一冊ずつ紹介していくスタイル。毎月開催で20~30人程度が参加しており、参加者の年齢層も10代から70代までと幅広い。

「成功作と失敗作の仕分け」自体は成功しているか

 さて、ここまではリチャード・グレイによる文学的成功と失敗の仕分け作業を紹介してきたが、そのグレイの評価基準自体にはどのような問題があるだろうか。

 まず、「崩落の後で (After the Fall)」 という本のタイトルから明らかなように、9.11をそれ以前とそれ以降という時間的亀裂を設けるにふさわしい重大事件と位置づけ、さらにはアメリカの例外主義的自己認識を揺るがす限りにおいて文学的成功を判定するグレイの評価基準自体が、グレイの意に反してアメリカの特権的な立場を強化する懸念がある。マスメディアの報道や人々の反応が9.11を一大イベントに仕立てあげ、数で上回るカンボジア・ルワンダ・パレスチナ・イラクの犠牲者よりもマンハッタンの犠牲者の方がより悼むべき価値を持っているかのような印象が作られていった過程についてのジャック・デリダの批判的考察(『テロルの時代と哲学の使命』137)はここでも一考に値するように思われる。

 また、グレイの個々の作品の読解精度が粗いことも気にかかる。失敗作に割り振られたフォア・デリーロ・メスード・アップダイクらの作品には、グレイが成功作の条件とみなす異種混淆性や、「我々と奴ら」という二項対立図式を崩す要素が含まれている。たとえば、デリーロ『墜ちてゆく男』の邦訳書巻末に付された上岡伸雄の訳者あとがきで指摘されているように、デリーロはテロリスト側の意識に踏み込んだ断章を設けているだけでなく、同一パラグラフ内でハイジャック機内にいるテロリストのハマドとワールドトレードセンター内部にいる犠牲者のキースの意識をいつの間にか交代させ、ハイジャック犯と犠牲者が容易に判別できない異様な描写によって人種・国籍・文化・宗教の境界を揺るがそうと試みている。しかし、その試みが成功しているとも言えないことはサーシャ・ポールマンが指摘しており、彼女によればイスラム世界やコーランについての表層的な理解しか持たないデリーロによるテロリストの内面描写には偏見が見られる (Pöhlmann 63)。このポールマンによる指摘は少なくとも、デリーロの作品が危機を家庭問題や国内問題に留めて描写するところから踏み出そうとした上での失敗に言及しているのであって、作品の緻密な読解者であるとはさほど感じさせないグレイの言及とは質的に異なっており、ポールマンの方がデリーロへの優れた批判を行っている。さらに、デリーロの作品が興味深いのは、「我々と奴ら」という人間どうしの境界を揺るがしているのみならず、人と物の境界をも不分明にしているところだ。ハイジャック機がタワーに衝突するパラグラフではテロリストと犠牲者と水の入ったボトルが「落ちる」という動作によって等しく結びつけられており、作品のラストでも人とモノが等価的に「落ちる」という動作を共有している。

「すべてが崩れ落ちていた──彼のまわりじゅうで──道路標識が、人々が、そして彼が名前も知らないようなものが。/ そのとき、空からシャツが落ちてきた。彼は歩きながらそれを見た。シャツは腕を懸命に振りながら落ちてきた」(デリーロ 330)

 この描写において、デリーロは犠牲者という人間に紐づけられたトラウマに拘泥しているわけではなく、ただシャツが落ちることを描いている。この部分を大学の授業で読んでいた(読まされていた)ときに、「このシャツに人間は入っていると思いますか」と質問されたことを覚えている。シャツを着た人間が落ちてきたことを「シャツが落ちてきた」と書いているのかもしれないし、シャツのみが空を舞いながら落ちてきているのかもしれない。どちらにせよ、この描写においてデリーロは人間ではない主語「シャツ」を選択している。そもそも『墜ちてゆく男 (Falling Man)』というタイトルには冠詞がついていない。この作品を大学の授業で読んでいた(読まされていた)ときには「なぜ冠詞がついていないのか」という質問もなされた。このタイトルで表現されているものは、人間の形をしていて、容易に想像できる一人の男性ではない。冠詞によって性質を捕捉されず、人ですらないボトルやシャツや道路標識や灰のような事物と「落ちる」という行為によってつながる異質で不気味な何かが描かれているはずだが、グレイはこの作品の異質さと不気味さを安易に犠牲者のトラウマに拘泥していると解釈し、手懐けてしまったようだ(『墜ちてゆく男』の原題に冠詞がないこと、墜ちるのは人だけではなくシャツなどの物体として「脱受肉化」されていることについては渡邉克昭著『楽園に死す──アメリカ的想像力と<死>のアポリア』に収録された「9・11と『灰』のエクリチュール──『フォーリングマン』における “nots” の亡霊」という論考を参照のこと)。

 加えて、リチャード・グレイ自身が、自ら提出した成功作と失敗作の基準を維持することができずにいる点も問題だろう。アメリカ演劇研究者の岡本太助 (Tasuke Okamoto)は、『崩落の後で』の書評において、グレイの議論が「奇妙な転回 (a curious turn)」を見せていることを鋭く指摘している (Okamoto 157-58)。9.11以降の創作の方向性についてグレイが再三主張したのは、個人のトラウマにとらわれることなく、既存の認識論的枠組みを突き崩すような境界侵犯的な新しい言語の必要性であったが、彼の著書の最終部における9.11以降の米詩の議論では、驚くべきことに古くからのアメリカ詩の伝統に即して個人的なトラウマを自分なりに言語化するカーサ・ポリットやアドリエンヌ・リッチらの詩を肯定的に評価しているのだ (Gray 191-92)。それまで個人的なトラウマに拘泥する作品を失敗作に分類していたにもかかわらず、「危機との向き合い方がどういうものであれ、これらの詩は確かに危機と向き合っている。そうした数々の詩は個人が抱えることになったトラウマを言い表せるだけの言語を提出しているのだ」(Gray 192)と述べ、グレイは突如として個人的なトラウマの言語化を肯定する。9.11以降のフィクション作品を成功作と失敗作に分別した必殺仕分け人がどういうわけか「みんなちがって、みんないい」という金子みすずのようなことを言い始めるのは驚きである。

詩は素早いレスキュー隊、小説は遅れてやってくる

 かくして、崩落以降の文学を成功作と失敗作に分けてみせたグレイの議論は彼自身の手によって崩落していくわけだが、まさにその議論が崩れていく過程で彼の議論は深まり、別の論点を提示している。グレイは小説媒体のみならず劇や詩を幅広く渉猟した上で『崩落の後で』という一冊にまとめたのだが、9.11直後に出た演劇には沈黙を効果的に使った良作が見られ、同じく9.11以降に出た詩は個人的なトラウマを巧みに言語化する良作に恵まれたことを彼は評価している。ここで思い出したのは、昨年神戸女学院大学で開催されたコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』のトークイベントでお会いした詩人・文学研究者の古村敏明氏の「詩は混乱する現場に素早く駆けつけるレスキュー隊」という言葉だった。小説や映画といった他の表現形式に比べれば、詩は何か事件があったときに素早く現れる。このように、「現場に素早く駆けつける言葉」と「現場に遅れてやってくる言葉」といった時間の論点を導入すれば、グレイの著作の最終部に見られた矛盾はむしろ彼の議論をより深める強みになっていくのではないだろうか。事件直後、トラウマに寄り添うような言葉がなければその日の生活が立ちゆかない人々を前にして、「被害者としてのトラウマに拘泥するな。国際的な視野に立ち、アメリカの境界を揺るがす言葉を受け入れよ」といってみたところでそれほど効果があるとは思えない。まず個人として経験を咀嚼する段階を経た上で、受け入れられる言葉も発される言葉が変わっていくこともあるはずだ。
 
 時間が経つうちに、段階的に、現場にやってくる言葉や表現形式は変わっていく。グレイが事件直後に個人的なトラウマを言語化するべく素早く駆けつけた詩を評価せざるを得なかったことは、彼がいうところの「成功作」だけがあれば良いわけではないことを意味している。それどころか、彼が「失敗作」と呼んだものが犠牲者のトラウマに拘泥しない境界侵犯的な「成功作」が受け入れられるようになる下地を用意しているとも言える。そうであれば、グレイが彼の著作において成功と失敗を明瞭に分けようとしたようには両者を分けることは難しく、むしろ両者の結びつきが見えてくる。
 
 対象が何であれ、成功と失敗を判定する行為は波風を立てる。最初から「みんなちがって、みんないい」と言っていれば誰も嫌な思いをせずに穏やかに過ごせる可能性が高まるのかもしれない。しかし、リチャード・グレイはリスクをとって文学の仕分けを試み、その過程で「みんなちがって、みんないい」と言わざるを得ない瞬間を迎えた。そのおかげで、「現場に早く駆けつける言葉」と「遅れてやってくる言葉」の相互影響という表現形式と時間の論点から議論を深め、「成功作」と「失敗作」というカテゴリーが互いを必要とする状況を分析する機会が生まれた。個々の作品の読解精度がさほど高くなくとも、漠然と広い領域を見る力に優れている場合もあるし(「大局 (big picture)」という語をグレイは好む)、成功と失敗を整理する試み自体が失敗したときでさえそれが新たな発想のヒントをもたらすことがある。自分とは異なる読解や評価基準に接したとき、単に切り捨ててしまうことなく、その読解だからこそ得られるものと失われるものが何なのか、立ち止まって考えてみたいと思う。

主要参考文献

上岡伸雄「訳者あとがき」、『墜ちてゆく男』ドン・デリーロ、新潮社、
2009年。
古村敏明「口頭発言」、鼎談『創作とは何か II』古村敏明・高村峰生・谷崎由衣、神戸女学院大学英語英文研究会エッジウッド、2018年6月2日。
渡邉克昭『楽園に死す──アメリカ的想像力と<死>のアポリア』、大阪大学出版会、2016年。
ジャック・デリダ、ユルゲン・ハーバーマス、ジョヴァンナ・ボッラドリ『テロルの時代と哲学の使命』藤本一勇・澤里岳史訳、岩波書店、2004年。
ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』、上岡伸雄訳、新潮社、2009年。
Gray, Richard. After the Fall: American Literature Since 9/11. Wiley-Blackwell, 2011.
Okamoto, Tasuke. “Review: After the Fall: American Literature Since 9/11.”   Studies in English Literature English Number 55 (2014): 153-58.
Pöhlmann, Sascha. “Collapsing Identities: The Representation and Imagination of the Terrorist in Falling Man.” Terrorism, Media, and the Ethics of Fiction: Transatlantic Perspectives on Don DeLillo. Ed. Peter Schneck. Continuum, 2010. 51-64.
Vermeulen, Pieter. “Don DeLillo’s Point Omega, the Anthropocene, and the Scales of Literature.” The Future of the Present: New Directions in (American) Literature. Ed. Danuta Fjellestad and David Watson. Routledge, 2017.
本のあるところajiro」でのトークイベント「ドン・デリーロ ナイト in 福岡」にご来場くださった皆様
福岡文化系読書会の皆様

今回の執筆者

矢倉喬士(やぐら・たかし)
西南学院大学で現代アメリカ文学を研究。ドン・デリーロの作品を中心的に扱った博士論文を執筆後、小説、映画、グラフィック・ノベル、Netflixドラマなどを対象に現代アメリカを多角的に考察している。

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