第12回 “America” feat. Elvis Presley, 2018 Remix(藤井光)

反抗とエルヴィス

 2018年は、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)をめぐるふたつの傑作小説が世に出た年でもあった。そして、その二作はいずれもフィクションという武器を駆使し、偉大なミュージシャンの姿を描くという次元をはるかに超えた広がりを持っている。

 2017年に67歳で世を去ったデニス・ジョンソン(Denis Johnson)の遺作となった短編集『海の乙女の惜しみなさ』(The Largesse of the Sea Maiden)は、「ドッペルゲンガー、ポルターガイスト」(Doppelgänger, Poltergeist)という作品で締めくくられる。エルヴィスとアメリカの絡み合いを背景に展開していくこの短編は、どこから見ても、ジョンソンという稀代の作家の最後を締めくくるにふさわしい作品といっていい。

 物語は、ふたりの詩人の三十年以上にわたる友情をたどっていく。語り手となるケヴィン・ハリントン(Levin Harrington)は、1980年代のコロンビア大学で授業を担当していたときに、圧倒的な才能をもつ学生マーカス・エイハーン(Marcus Ahearn)と出会う。授業中に詩の言葉をどう紡ぎ出すのかを学生たちに説明しようとするハリントンは、まずはフランク・シナトラ(Frank Sinatra)の毒舌ぶりを紹介し、その流れでエルヴィスの陸軍入隊前後の変化について語り始め、ついにはこう口にする。

「アメリカの世紀の根幹を打ち砕いたのは、1963 年のケネディ暗殺ではない——1958年、エルヴィスの陸軍入隊なんだ」——その瞬間、世界はエルヴィスの消滅を目撃した。剃られたもみあげ、輝く金ボタンのついた軍服をまとった彼の写真、『監獄ロック』の細身で炎がくすぶる両性具有者が空手を習い始めたという発表。

 ジョン・F・ケネディの暗殺は、アメリカの20世紀の歩みに暗い影を落とすことになった出来事として広く認知されている。スティーヴン・キング(Stephen King)が『22/11/63』でケネディ暗殺を止めようと奮闘する男の物語を書いたように、「アメリカ」を描こうとする作家にとっては、避けて通れない出来事だと言っていい。ジョンソンもまた、ベトナム戦争小説『煙の樹』(Tree of Smoke, 2007年)ではケネディ暗殺を小説の冒頭に据え、それに続く登場人物たちの迷走を予告していた。それをさらに超えるほどの出来事として、ここではエルヴィスの陸軍入隊が語られる。

 ハリントンは、アメリカの精神史のなかでエルヴィスをとらえていると思われる。デビューしたときの「反抗的」なエルヴィスは、アメリカが何かに変化しうる可能性を象徴する存在だった。その彼が、軍隊に入って規律と訓練を施されて「反抗」の要素を抜き取られ、その後は無害な歌い手として自己パロディを反復するだけの存在になったことにより、アメリカは手にしようとしていた可能性を失ったのだ。その五年後に起きたケネディ暗殺事件は、こうしてすでに始まっていた行き詰まりを確認するものでしかない。おそらく、これがハリントンの説である。

 それを聞いた学生エイハーンは、若くして死んだ彼の兄が抱えていたエルヴィスについての説をハリントンに説明する。エイハーンと彼の兄によれば、公式には死産だったとされるエルヴィスの双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーは、実は生きて養母に育てられていた。エルヴィスのマネージャーだった「大佐」ことトム・パーカーはジェシーの存在を知り、計略を練る。エルヴィスをより広く売れるスターに改造するべく、反抗的だったエルヴィスを軍隊に入隊させ、殺害し、その後釜にジェシーを据えてエルヴィスを演じさせたのだ。それ以降の、デビュー当時のキレを失った抜け殻のようなエルヴィスは、要するに別人であり、その替え玉エルヴィスが、1977年にグレイスランドで死去することになる。

 この仮説を信じ、証明するために、エイハーンは私費を投じてさまざまな書類をかき集め、果ては深夜の墓暴きにまで乗り出す。エルヴィスの分身という名の亡霊を追って。

 ところで、どうしてエルヴィスを形容する言葉に、「両性具有者」が使われるのか。その表現によって、あのもみあげとリーゼントで固めた髪型が現代でもパロディー化されるスター像に、「男性性」と「女性性」の共存、あるいは性的アイデンティティの揺らぎが見出される、ということになるだろう。その揺らぎが、後の「男性的」エルヴィスによって裏切られたことをハリントンは嘆く。彼にとっては、カテゴリー化を拒む曖昧さ、雑多さを含みこむ「アメリカ」にこそ、大きな可能性があるのだ。

反乱とエルヴィス

 ハリントンとエイハーンのコンビからすれば、『アロハ・フロム・ハワイ』(1973)に登場したエルヴィスなど、ロック好きにとっての紅白歌合戦のように、見るに堪えないエピソードのひとつに過ぎないかもしれない。ただし、『アロハ・フロム・ハワイ』が、合衆国の外で公演することを極度に嫌ったこのスターを世界に見せるための番組であったことを考えるとき、アメリカと世界との関わりのなかで、もうひとつのエルヴィス像が浮かび上がってくる。

 アメリカが生み出したスターが、世界中を熱狂させる。それ自体を抜き出せば、1950年代から60年代前半にかけて、合衆国が自由と民主主義という価値観のみならず、文化面でも世界を牽引していくのだという自負に裏打ちされた、戦後の西側の国際秩序の一コマに思えなくもない。ただし、それを単純に受け入れるほど、「世界」の歴史と権力関係は単純ではない。そのことを、2018年に出たもうひとつのエルヴィス物語、フィリピンの作家ジーナ・アポストル(Gina Apostol)の長編小説『反乱者』(Insurrecto、未訳)は教えてくれる。

 小説の冒頭で、フィリピン出身の作家兼翻訳者である女性のマグサリン(Magsalin)は、登場人物としてキアラ・ブラージ(Chiara Brasi)という女性映画監督を創り出す。ところが、架空の人物であるはずのキアラからマグサリンにEメールが届き、フィリピンに行くので会ってほしいと言われる。これを皮切りに、現実と虚構の境界線は何重にも引かれ、やがて破られていく。

 キアラの父親ルード・ブラージ(Ludo Brasi)も映画監督だったが、ベトナム戦争で発生した虐殺事件をめぐる映画を1970年代に完成させたあと失踪してしまう。その父親がロケ地に選んだのはフィリピンであり(となると、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』を連想させないわけにはいかない)、その撮影のため、当時は幼かったキアラもマニラに滞在していた。そうした子供時代と父親のことを調べようとしたキアラのインターネット検索画面には、1901年、米比戦争のさなかにサマール島で起きたバランギガの虐殺という出来事が繰り返し出てくる。島の住民たちの蜂起によって米兵48人が死亡、その報復として、アメリカ軍は30000人を超える島の住民を虐殺したとされる。合衆国による統治時代のなかでもひときわ凄惨な出来事である。その現場であるサマール島に行きたいというキアラに、マグサリンは同行することになる。

 キアラが構想する映画は、監督であるキアラの創造物だと言っていい。しかし、この小説においては、映画監督であるキアラは作家マグサリンの創り出した被創造物である。もちろん、マグサリンも小説の登場人物にすぎないのだから、キアラとマグサリンを創り出した何者かがその背後にいる……。創造者と被創造者の構図が何重にも仕掛けられる背景にはもちろん、フィリピンという土地をめぐる支配と被支配の問題がある。そして、アポストルはその構図の中心に、サマール島で起きた後、記憶から消去された虐殺と、エルヴィスの『アロハ・フロム・ハワイ』の衛星中継というふたつの出来事を配した。「フィリピン」というアイデンティティがアメリカとの関わりのなかでどのように作られていったかを問うために。

 フィリピンにおける英語文学の「先輩」ともいうべきニック・ホアキン(Nick Joaquin)の作品集が2017年にペンギン・クラシックスから復刊されたとき、アポストルは序文を寄せ、アメリカとの関係を決定づけたその出来事について、次のように書いている。

1899年〜1904年の米比戦争は盲点である。私たちは、その戦争を記憶していない。勇猛な反帝国主義の戦争は、フィリピンの生まれながらの権利なのだ——1898年の米西戦争の直後に、スペインに対抗する同盟国であるフィリピンをアメリカ合衆国が解放するのではなく占領すると決定したとき、帝国主義的アメリカに対する蜂起によって、フィリピンという国は創られた。

 三世紀にわたるスペインの植民地支配、そして火種を抱えたままのアメリカの統治、続く日本軍による占領統治が終わったとき、マニラ市街は瓦礫の山と化していた(ワルシャワの次に徹底的に破壊された街とも言われる)。独立国となったフィリピンは、この大量の死者の記憶とともに歩むことになる。戦後、合衆国のポップカルチャーが人気を集めることになるこの島国は、陰に陽に貼り付いた支配とその記憶から自由になることはない。
 
 『反乱者』で、エルヴィスの1973年の『アロハ・フロム・ハワイ』が幾度となく取り上げられ、あるいはマグサリンのおじたちがカラオケでエルヴィスを熱唱するとき、その背後には、フィリピンとアメリカをめぐる何重にもなった権力関係がある。

 アポストルが作り出した物語の迷宮において、登場人物はすべて、そうした絡み合う権力関係のなかを動き回る。彼らは常に何らかの権力関係を背負い、支配と被支配のあいだを揺れ動く。小説の作者であるアポストルにも、それは当てはまる。

            ジーナ・アポストル

 アポストルは『反乱者』を英語で書いた。フィリピン社会で、米国統治時代は支配者の言語であり、第二次世界対戦後もエリートの言語であり続けた英語を使用し、さらには物語を創作すること。その行為自体に、支配と被支配の関係は刻み込まれている。英語による小説で、「フィリピンとは何か?」を問うことは、死者の上に立っているみずからの姿を問い直すことでもある。そして、その困難に、アポストルは果敢に立ち向かい、錯綜して重なり合う物語の層を生み出した。

 小説の登場人物がいて、それを創り出した別の登場人物がいる。その外に、『反乱者』を書いた作者アポストルがいる。そして、それをアポストルに書かせたフィリピンという共同体が、さらに外側に位置している。では、そうした層のさらに外側に位置する「アメリカ」について考えることはできるだろうか。つまるところ、合衆国だけは、純然たる支配者の位置を確保しているのだろうか?

 またもや、エルヴィスの「女性性」がここでふと顔を出す。アポストルは、テディベアを抱えたエルヴィスのアルバムジャケットの写真を取り上げ、こう書きつけているのだ。

    スチール写真においてすら、エルヴィスは二重の意識を表現
    している。彼は誘惑される女性であり、同時に誘惑する者で
    もあるのだ。

 植民地と宗主国の関係が男性と女性の非対称な関係性をしばしば想起させるなら(これは温又柔さんに教えていただいた)、ここでもエルヴィスの抱え込んだ両性具有的な両面性からは、「アメリカ」が抱え込んだ曖昧さが、ふたたび浮上してくる。それは、フィリピンというアイデンティティが、支配と被支配を切り分けられない複雑さをもつことを証言するとともに、アメリカという支配者もまた、他者からの視線と承認を必要とする依存的な存在であることも暴き出す。エルヴィスの醸し出す脆さは、アメリカの脆さでもある。

今回の執筆者

藤井光(ふじい・ひかる)
一九八〇年大阪生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。同志社大学文学部英文学科准教授。主要訳書にD・ジョンソン『煙の樹』、R・ハージ『デニーロ・ゲーム』、S・プラセンシア『紙の民』、R・カリー・ジュニア『神は死んだ』、H・ブラーシム『死体展覧会』、M・ペンコフ『西欧の東』(以上、白水社)、D・アラルコン『ロスト・シティ・レディオ』、T・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、S・フリード『大いなる不満』、A・ドーア『すべての見えない光』(第三回日本翻訳大賞受賞)、R・マカーイ『戦時の音楽』(以上、新潮社)など。

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