第5回 本日限定のセール——21世紀の暴力とゾンビ文化と翻訳と(藤井光)

21世紀の暴力と

All we wanted was a chance to talk
‘Stead we only got outlined in chalk (D’Angelo)
 2010年代に多発した、アフリカ系市民に対する警察の暴力事件と、その後の司法による判決(多くのケースで警察官は不起訴となった)は、全米のアフリカ系の表現者からさまざまな反応を呼び起こした。ジャーナリストのタナハシ・コーツは『世界と僕のあいだに』を、ミュージシャンのディアンジェロは長い沈黙を破って『ブラック・メサイア』を発表し、アメリカ社会に埋め込まれたまま消えようとしない暴力の「いま」を見つめ、自分たちの声はどうすれば届くのかと訴えた。あるいは、小説家のコルソン・ホワイトヘッドを一気にスターダムへと押し上げた名作『地下鉄道』は、現代にいたるアメリカの暴力の源泉たる奴隷制と、それを現代から想像して物語として蘇らせる際の「虚構」の役割を鋭く問いかけるものだった。そうした文脈を背負って登場した文学の新星が、ナナ・クワミ・アジェイ=ブレニヤー(Nana Kwame Adjei-Brenyah)である。

 アジェイ=ブレニヤーはニューヨーク州スプリングヴァレーで育ち、ニューヨーク州立大学オールバニー校を卒業後、シラキュース大学大学院創作科で学位を取得している。2018年に刊行した短編集『フライデー・ブラック』はアジェイ=ブレニヤーのデビュー作であり、刊行にあたっては、創作科の指導教員であるジョージ・ソーンダーズだけでなく、ロクサーヌ・ゲイやリン・ティルマンなどが推薦文を寄せている。また、同じく2018年にThere, Thereでデビューして絶賛されたトミー・オレンジも、『ニューヨーク・タイムズ』に寄せた書評で「パワフルで、重要で、奇妙で、美しい」と同書への賛辞を惜しんでいない。その他のメディアからもおしなべて高評価を獲得し、アジェイ=ブレニヤーは2018年でもっとも注目すべき新人となった。

 本書のエピグラフには、ケンドリック・ラマーの“Anything you imagine, you possess”というリリックが引用されている。さらに、その直後に置かれた短編“The Finkelstein 5”が、黒人の少年少女に対して無差別な暴力をふるった白人男性が裁判で無罪となったという出来事の余波を語る作品となっていることからも、『フライデー・ブラック』において、暴力をはじめとする人種問題が重要な柱になっていることは明らかである。ただし、アジェイ=ブレニヤーはその問題を語るにあたり、「我々アフリカ系の現状」を語るという枠組みを設定するのではなく、「ある社会において暴力にさらされた人間はどう感じ、どう行動するのか」を探求する視点を崩していない。それが、アジェイ=ブレニヤーの物語を貫く強さだと言っていいだろう。みずからが生きる現在を語る視点と、それを少し離れたところから眺め、何が起きているのかを的確に分析する視点が、そこには共存しているのだ。単なる「抗議」にとどまらない強靭さが、この短編集を支えている。

 おそらくはそれがゆえに、彼の物語はディストピア的な近未来という設定に繰り返し立ち戻ってくる。遺伝子操作を受けた生徒と受けていない生徒、戦争下で住民たちがすべての記憶を消去される都市など、現代のアメリカにおいて潜在的に生命が操作される状況を、彼の短編は好んで舞台とする。現代のアフリカ系市民が直面せざるをえない社会の暴力は、アジェイ=ブレニヤーの描き出す世界においては、いつ誰に転嫁されてもおかしくないのだ。したがって、レイシズムという次元だけでなく、生命や暴力をめぐる倫理的な問いと、経済やテクノロジーがどう関わっているのかという点が、彼の物語では中心的な問いとなる。堕胎された胎児が、父親の枕元に現れて話しかけてくる。テーマパークでは、従業員演じる「不審者」に対して客が発砲を選択できるアトラクションが人気を博している。銃乱射事件を起こした若者の魂は被害者の魂と出会い、ケンカしながら珍道中を続ける。アメリカ的な光景がもう一回り突き詰められた舞台で、登場人物たちはある状況に否応なしに投げ込まれ、そこで暴力の行使を許すかどうかの決断を迫られる。

 ここで、独特の文体にも触れておくべきだろう。ジョージ・ソーンダーズが指導したというだけあり、各短篇は丁寧に状況を描写する文章ではなく、意図的に圧縮されぶつ切りになったセンテンスが積み重ねられ、ディストピア化した日常を切り取ったスナップのようにして構成されている。ただし、そのなかに巧みに心理描写やプロット展開を忍び込ませているアジェイ=ブレニヤーの手つきは、いたるところで確認することができる。人間不在でも成立するソーンダーズ的な空気感と、人間を抜きには語ることのできない人種と「生命」の問題がかろうじて交錯する、そんな危ういバランスを、『フライデー・ブラック』は実現している。

ゾンビ文化と

Today is the day when the evil creatures overrun the mall. (Manuel Gonzales)
 ゾンビの物語は常に安定した人気を誇っている。ジョージ・ロメロ作品によって1960年代後半からカルト的に支持を得たゾンビの物語は、さまざまなヴァリエーションを発達させつつ、アメリカ文化の一部として定着したといっていい。文学においても、2009年にセス・グレアム・スミスが『高慢と偏見とゾンビ』を発表し、ジェーン・オースティンの描くイングランドの社交の風景にゾンビとの戦いという要素を投入した物語を作り上げた。古典の文章をある程度そのまま残しつつ、新たな要素を混ぜ込む「マッシュアップ」という小説の形式が、一時的なブームとなるきっかけを作った作品でもある(このジャンルについての情報は、小澤英実さんのご教示による)。あるいは、マヌエル・ゴンザレスのように、オフィスで働く内向的なゾンビが人妻に恋をしてしまったというちぐはぐな設定にユーモアを発揮してみせる作家もいる。

 ゾンビ物語においては、ショッピングモールが舞台としてしばしば選ばれる。大小さまざまな店が多数入居する巨大空間でありながら、出入口が限られているという閉塞感も併せ持つ矛盾が、物語の雰囲気を作るにあたっては効果的に使われている。それに加えて、ゾンビという、人間の肉を食うという欲望のみが残された存在が、資本主義社会において商品を買い、消費するという欲望のみを煽られた人間を戯画化しているという点は、批評においてしばしば指摘されてきた。それを象徴するのが、「売る」「買う」という行為のみに特化したショッピングモールという舞台なのだ。

 アジェイ=ブレニヤーがデビュー作の表題作として選んだ短編「フライデー・ブラック」は、その王道を行くようにして、アメリカのどこかのショッピングモールに店を構える衣料品店を舞台として展開する。主人公となる語り手は、その店のアルバイトの若者であり、店で売上がトップであることを誇りとしている。そして、客は全員ゾンビである。商品を求める欲求以外はすべて消え去ったかれらは、お互いを踏み潰すことも店員に襲いかかることも厭わない。そんなゾンビたちが何を欲しがっているのか、そのうめき声やわめき声から察知し、望みの商品を渡すのが、主人公の特技である。物語は、そんな店でのクリスマスシーズン期間中、「ブラック・フライデー」と呼ばれる特売日の半日間に凝縮されている。日付が変わる真夜中に店が開くと、ゾンビたちが一斉になだれ込み、そして次々に商品を手に取ってレジに向かう。そのなかで、死者が次々に出ていく。

 ゾンビに襲いかかられる危険と直面しながら、時給はわずか8・5ドル。そんな店で働きたいと思う者が、はたしているだろうか。2010年代には“Fight for $15”という、時給15ドルを求める労働者の運動が、ファストフード業界を皮切りに広がりつつあるというのに。しかし、主人公には明確な「やりがい」がある。店で売上がトップだった店員は、どの服でも一着自分のものにできる。ならば、Lサイズのダウンコートを手に入れて、失業中の母親にプレゼントしてやりたい。それだけではなく、一か月で百万ドルを超える売上を達成するという目標を掲げている店で、誰よりも優秀な店員が彼なのだ。かくして、低賃金などものともせず、主人公は獅子奮迅の活躍を披露するのだ。典型的な「やりがい搾取」の構図が、ここにはある。

 商品を求めて群がり、わめく人間たち。商品を売り続けることにしか存在意義を見出せない店員。ゾンビと形容すべきなのはどちらなのか。

翻訳と

 その問いを抱え、2019年2月2日に、京都の書店Montag Booksellersにて、同志社大学と神戸市外国語大学、および一般の参加者とともに、この短編の冒頭の翻訳を持ち寄って話し合うという場を得ることができた。以下は、実にさまざまな疑問や訳案が飛び出した濃密な三時間を、三つの文章をめぐる問いに凝縮したハイライト版である(ただし、僕以外の翻訳者が本書全体を担当する予定であることはここでお断りしておく。願わくば、ここでの戯言がその人の仕事の邪魔になりませんように)。

  1. “I get it; I get it. Eye of the tiger! I like it,” Richard says.
 ——開店直前、この地域を統括するマネージャーのリチャードは、主人公に向かって「準備はいいか?」と尋ねる。準備できているに決まっているだろ、と言いたげに片目だけを開け、何も言わずにまた目を閉じる主人公に対して、リチャードが口にするのが、このセリフである。さて、“eye of the tiger”はどう訳せばいいのか。

 もちろん、「虎の目」と翻訳することもできる。ただし、物語においてはすでに主人公は両目を閉じているため、「〜の目」という表現を使用すると、場面とのかみ合いは悪くなってしまう。「アイ・オブ・ザ・タイガー」では何が言いたいのかわからない。文学作品において唐突に出てくる一見奇妙なフレーズは、どこかから引用されている可能性が高いので、その元ネタを探したほうがよさそうだ。

 このフレーズを検索すれば、それが1982年にアメリカのロックバンド、サバイバーによって発表された曲であることはすぐに確認できる。いかにも80年代のロックチューンというつくりの、リズムもアレンジもメロディーもきわめて直球の、2019年ともなれば赤面せずに聴くことは難しい曲であるが、当時はイケてる音だったのも事実である。「アイ・オブ・ザ・タイガー」はシルヴェスター・スタローンの直球熱血本気スポ根映画『ロッキー3』で使用され、大ヒットを記録した。

 そうなると、「フライデー・ブラック」とのそれなりのつながりも見えてくる。特売セール日に客の殺到に備える店員(短編の主人公)が、一大決戦を前にしたボクサーの姿(スタローン)と重ね合わされているのだ、と。

 合衆国の文化に精通している読者でなければ、このポピュラーカルチャーへの言及は意味に直接結びつかない。したがって、苦肉の策ではあるが、この箇所は引用元を示すなどの工夫や「字面」の意味を活かすよりも、「心情」を汲み取って翻訳するのが無難な箇所のように思われる。つまりここは、「目」や「虎」という情報ではなく、「場面における主人公の心持ち」をマネージャーのリチャードが察して肯定している場面なのだ。そうすると、「かかってこい」「やる気」「受けて立つ」といったあたりが候補となるだろうか。
——「わかった、わかった。受けて立つってことだな! いいぞ」

  2. “What’s she wear, medium or large?”
 ——続く会話のなかで、リチャードは店の奥に一着のダウンコートが取ってあることに気がつき、主人公にこう質問する。これだけでは唐突な発言だが、数行後に、主人公は店での売り上げ競争に勝つ気でいて、そのときのためにすでに一着を確保していること、主人公がそれを母親にプレゼントするつもりだとリチャードが聞いていたことが語られ、何のやりとりなのかがはっきりする。そうした情報を踏まえるなら、「お母さんの服のサイズは、MなのかLなのか?」といったセリフとして訳出することもできる。そのほうが読者には親切かもしれない。

 とはいえ、ここでアジェイ=ブレニヤーの文体というものを考える必要が出てくる。彼の指導をしたのはジョージ・ソーンダーズ。最初に原稿を150ページ近く書き、それを40ページほどにまで削りに削り、なおかつ物語としてはまったく同じ内容を保つ、という執筆スタイルの持ち主である(これは同じくソーンダーズに師事したサルバドール・プラセンシアに教えてもらった)。ソーンダーズは前置きや説明なくいきなり物語を始め、最初はよくわからなかった主人公の周囲の状況が、物語が進むにつれて少しずつ見えてくる、というスタイルをしばしば用いる。

 弟子であるアジェイ=ブレニヤーもまた、本作で似たスタイルを採用している。物語は開店直前に店のスタッフが“Get to your sections!”と叫ぶ一言から始まるが、その言葉がどのような状況で発せられているのか、読み手にはまだわからない。戦場なのか、近未来なのか、さまざまな可能性を考えながら読み進めるうちに、現代のショッピングモールという設定に舞台は絞られてくる。

 それと同じく、この会話の場面でも、まずはリチャードの発言“What’s she wear, medium or large?”が飛び出すが、その“she”が誰のことを指しているのかはまだ明らかにされない。やがて、話に出ているのは主人公の母親なのだという情報があとから明らかにされ、読者の頭のなかでパズルのピースがひとつはまる。

 あとから状況がわかる、というこの文体的な特徴に、翻訳も忠実についていくほうがよさそうだ。したがって、“she”は誰か明かさない書き方にすることになる。そうなると、「彼女に」としてもいいのだが、日本語の会話では、誰かの母親を「彼女」と言うのはなじみが薄いと思われる。そこで、日本語の特徴のひとつ、主語を省略してしまう傾向を使い、主語となるのは「誰」なのかという情報があとで埋まるようにするという手がありえる。
——「着てもらうのはMかLか?」

  3. Nobody will touch it because I’m me.
 ——店で売り上げをめぐる競争があること、それに勝ってダウンコートを母親に持って帰るつもりでいること。それをひとしきり説明したあと、主人公はこう断言する。俺が絶対に勝つ、という宣言である。直訳すれば、「俺は俺だ、だからそのコートには誰にも触らせない」となるだろうか。この形でも言いたいことは十分に伝わる。

 この箇所を翻訳するうえで考慮してもいいだろうと思われるのは、物語の主題となる「やりがい搾取」という側面である。明らかに待遇の悪い職場でありながら、「自分がナンバーワンだ」というアイデンティティを得ていることで、猛烈な勢いで働き続けることを誇りとしてしまう主人公の心情と、それに対する作品自体の醒めた視線を、このセリフは凝縮して提示しているからだ。つまり、“I’m me”という宣言には、「俺こそが最高の店員だ」という自負と、「競争で与えられるアイデンティティによって搾取が可能になるという構造の歪み」という批判のふたつが同居している。それがゆえに、リチャードとの会話、店での競争、母親に対するプレゼントという情報が次々に語られるこの段落は、“Nobody will touch it because I’m me.”というこの主人公の語りで締めくくられているのである。

 それを翻訳にも活かす方法があるとすれば、それはまず語順のレベルにおいてだろう。すなわち、文末の情報“I’m me”を、日本語でも文末に持っていきたい。そのために、“Nobody will touch it”と“I’m me”をそれぞれ一文に分けることになる。そのうえで、「俺は俺だ」という情報のなかに、そのアイデンティティの根幹には競争という要素があるのだと仄めかしてもいいかもしれない。
——「誰にも指一本触れさせはしない。相手になるのは俺だからだ」

本日限定のセール

 セールに押し寄せる客。必死でそれに対応する店員。大量に発生する死者たち。すべてが低価格の空間。アジェイ=ブレニヤー自身がそうした店で数年間アルバイトをしていた経験から、この物語は生まれたという。この空間で幸せになるのは誰なのだろうか、と「フライデー・ブラック」は問いかけてくる。ゾンビと格闘する戦場でアルバイトをしていた店員が、やがて作家に転身し、デビュー作で一気に話題をさらう。ある意味では、アジェイ=ブレニヤーは典型的なサクセスストーリーを実現したとも言える。それでは、彼はあの低価格空間を完全に過去のものとして語っているのだろうか。

 2017年、アメリカのフルタイムの作家の平均収入は2万ドルを少し超える程度でしかない。兼業作家も計算に入れれば、その数字は6000ドル少々にまで下落する。これは2009年に比べると42%の落ち込みである(以上の数字は2019年1月5日のNew York Timesの報道記事による)。要するに、ほとんどの作家は本を書くだけでは食べていけない状況になった。同じことは音楽業界にも当てはまる。『ローリング・ストーン』誌が指摘したのは、現在レコード会社と契約するミュージシャンのうち、契約時に貸してもらう金を返済できるのは20人に1人にすぎないという現状だった。ほとんどのミュージシャンは、キャリアのすべての期間において借金を背負う形で活動を続けることになる。ストリーミングサービスにせよアマゾンにせよ、インターネット時代の販売形態は価格を押し下げて常時セール状態を作り出し、消費者に利便性をもたらした。その一方で、製品としての作品を安く売り続けねばならない「作り手」は確実に体力を奪われつつある。

 クリエーターや表現者になるという憧れは、いまだに強く共有されている。だが、それを支える体制はどこまで整っているだろうか。下積みの日々を経て晴れの舞台へ、という物語がほぼ成立できない状況になっているとすれば、それを変え、優れた表現がそれにふさわしいサポートを受けられるような社会が出現する可能性は、どこに見出されるべきなのか。ショッピングモールで始まり、ショッピングモールで終わるこの物語は、モールの「外」とは何なのか、そこに出る方法は何なのかを問いかけてもいる。

今回の執筆者

藤井光(ふじい・ひかる)
一九八〇年大阪生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。同志社大学文学部英文学科准教授。主要訳書にD・ジョンソン『煙の樹』、R・ハージ『デニーロ・ゲーム』、S・プラセンシア『紙の民』、R・カリー・ジュニア『神は死んだ』、H・ブラーシム『死体展覧会』、M・ペンコフ『西欧の東』(以上、白水社)、D・アラルコン『ロスト・シティ・レディオ』、T・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』、S・フリード『大いなる不満』、A・ドーア『すべての見えない光』(第三回日本翻訳大賞受賞)、R・マカーイ『戦時の音楽』(以上、新潮社)など。

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書肆侃侃房

現代アメリカ文学ポップコーン大盛

現代アメリカ文学について執筆者が交代で更新します。青木耕平、加藤有佳織、佐々木楓、里内克巳、日野原慶、藤井光、矢倉喬士、吉田恭子の8名での連載です。
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