第20回 スティル・ナンバー・ワン・アメリカン・サイコ──ブレット・イーストン・エリス、9年ぶりの帰還(青木耕平)

1、トランプ時代のアメリカン・サイコ

 ブレット・イーストン・エリス(Bret Easton Ellis)周辺が騒がしい。今年の4月下旬、彼の新刊『ホワイト(White)』が刊行された。1985年『レス・ザン・ゼロ(Less Than Zero)』で華々しいデビューを飾って以来、6冊の長編小説と2冊の小説集を出版しているエリスにとって、キャリア初のノン・フィクションである。

 発売以来、『ホワイト』は多くの英米主要紙に書評が掲載され、様々な媒体の雑誌がインタビューを敢行、テレビにも出演し、公開イベント等も広く開かれるなど、大きな注目を集めている。『ホワイト』への評価は──彼の小説が常にそうであったように──強烈な否定と、熱烈な肯定に引き裂かれている。

   『ホワイト』 米国Knopf社版、装丁はチップ・キッドによる

 『ホワイト』に対する強烈な拒否反応は、刊行前から起きた。老舗雑誌“ニューヨーカー”が、誌上インタビューでエリスに対して強い不快感を示したのだ。記事タイトルは「“あなた達はドナルド・トランプに過剰反応している”とB.E.エリスは考えている」であり、記者はほとんど本の内容に触れず、エリスの過去の問題発言や政治的スタンスを責めることに終止した。この記事はネット上で物議を醸し、結果として『ホワイト』への注目度を高めることになった。

 そもそも“ニューヨーカー”が問題視したエリスの政治的スタンスといかなるものなのか? 『ホワイト』の内容に触れる前に、ここ10年の彼の主な活動を、その問題発言の数々と共に整理しよう。

 2009年にツイッターアカウントを取得したエリスは、2010年1月28日、『ライ麦畑でつかまえて』の著者J.D.サリンジャー逝去が伝えられた夜に、こうツイートした。

イェー!! 神様ありがとう、やっとアイツがくたばったぜ。俺はこの日をファッキン永遠に待ってたんだ。今夜はパーティーだ!!

 また2012年、エリスは以下のようなツイートをした。

最も過大評価されている現代文学作品は何か? トニ・モリスン『ビラヴド』だよ。そう思うだろ?

 トニ・モリスンはアメリカの黒人作家として初めてノーベル文学賞を受賞し、彼女の代表作『ビラヴド』は、2006年に“ニューヨーク・タイムズ”誌上で「過去25年で最も偉大なアメリカ小説」に選ばれている。

 同2012年末、彼はアカデミー史上初の女性監督賞を受賞した『ハート・ロッカー』のキャスリン・ビグロー監督をこう揶揄した。

思うに『ハート・ロッカー』の監督が男だったらここまで評価はされていない。キャスリン・ビグローがオスカーを穫った理由は、彼女がホットな女性だからだと、私は今も信じている

 このツイートに謝罪する形で、エリスは自身がゲイであることを公にした

 2013年、エリスは自身のPodcastチャンネルを開設、第一回のゲストは当時キャリアの絶頂を迎えていたカニエ・ウェストだった。カニエはアルバムの発売プロモーションとして映画版『アメリカン・サイコ』の殺害シーンをパロディにし、エリスと共に映画を企画するという話が出るほど二人は意気投合した(結局は立ち消えとなったが)。

 カニエ・ウェストの圧倒的な人気と影響力は、ドナルド・トランプ登場と共に坂道を転げ落ちるかのように陰り始める。2016年大統領選挙で黒人蔑視発言を連発するトランプ候補を支持するかのような発言をカニエはツアー中に度々口にし、黒人コミュニティはじめヒップホップ業界からも大きな顰蹙を買うと、精神状態に問題が生じたとアナウンスし、ツアーをキャンセルした。2018年、カニエはホワイトハウスを電撃訪問し「Make America Great Again」の赤キャップを被りトランプと熱烈なハグを交わして周囲を唖然とさせると、大統領を称賛するツイートを連発、ついには「奴隷制は強制ではなく選択だった」と発言し、壮絶なバッシングを浴び、再度の精神面での不調を訴え今後はあまりツイートしないと宣言した。誰もがカニエの行動に呆れる中、ただエリスだけが、カニエを全面擁護し、彼を称賛した。

全ての者よ、カニエを讃えよ

 もちろんこの10年間、エリスはツイートとポッドキャストのみに勤しんでいたわけではない。エリスは2008年に自らの同名小説を基とした『ザ・インフォーマーズ(The Informers)』で映画脚本家デビューを果たすと、2013年にはポール・シュレイダー監督とタッグを組んで『ザ・ハリウッド(原題 The Canyons)』制作に深く関わり、2016年のウェブドラマ『The Deleted(日本未公開)』では監督業もこなした。

 『ホワイト』は、そのようなエリスの実に9年ぶりとなる書籍だ。発売直後のポッドキャストにゲストとして招かれたのはチャック・パラニューク(Chuck Palahniuk)。『ファイト・クラブ(Fight Club)』の著者であり長年の盟友である彼に、エリスは対談開始と同時にこのように問いかけた。

「君は57歳で、白人で、男性で、シス・ジェンダー*だけど、それについてどう思う? 白人男性の特権が減りつつあると感じるかい? この時代において白人男性であることを悔やむかい? 俺たちは俺たちが白人男性であるがゆえに時代遅れになるのだろうか?」(*生まれ持った性自認が同一であること。エリスのポッドキャストは2017年以降にサイトを移動、有料登録会員のみ公開となった)

 出版社の判断で『ホワイト』と変更されたが、本書のオリジナル・タイトルは“White Privileged Male”すなわち「白人特権を享受する男性」だった。

         『ホワイト』 英国Picador社版の装丁

2、エリス(著者)はトランプ支持者ではない vs ベイトマン(キャラクター)はトランプ崇拝者である

 もしあなたがエリス作品を今まで読んでおらず、上述したような彼の問題発言ばかりを目にしていたら、きっとあなたは「あー、日本にもそういう炎上商法のネトウヨ作家っているよね。どうせトランプ支持者のオルタナ右翼で、本の内容はコピペと捏造ばかりなんでしょ?」と思うだろう。しかし、彼自身は、一切、全く、そうではない。

 彼はトランプ支持者ではない。2016年時点でサンダースを評価し、大統領選でトランプに投票せず、それどころか生まれてから一度も共和党支持だったことはなく、自らを保守と最も遠いものとみなし、「2020年の大統領選でトランプが退場することを望んで」さえいる。このことは、先の『ニューヨーカー』の記事をはじめ、いたるところで彼は公言し強調してきた。「トランプはレイシストだと思うか?」と執拗に問われたエリスは、「ああ、多分そうだろうね。私は過去、入念に彼のことをリサーチしてきたから」と答えた。

 なぜ人々はこれほどまでにエリスにトランプのことを語らせたいのか? それを端的に示す象徴的なエピソードがある。歯に衣着せぬ発言をツイッターで繰り返し、謝罪は基本的にポーズだけであるエリスは、たとえば『ハート・ロッカー』の揶揄ツイートを削除していない。しかし、その彼は、ドナルド・トランプ大統領が勝利した夜に、一つのツイートを投稿、それをすぐさま削除したのだ。そのツイートはこうだ。

パトリック・ベイトマンがどこかでほくそ笑んでいる

 パトリック・ベイトマンとは、1991年発表の代表作『アメリカン・サイコ』の主人公であり、彼は熱烈なドナルド・トランプ信奉者だった。『ホワイト』そして現在のエリスに対して拒否感を抱く者は──カニエがそうであったように──エリスとトランプの思想信条が似通っていると思っている人々が多い。だが、はたして、本当にそうなのだろうか? 『ホワイト』の内容に入る前に、まずは『アメリカン・サイコ』の内容を振り返りたい。

 『アメリカン・サイコ』の舞台は1980年代が終わろうとするレーガン政権末期のウォール街である。主人公であるパトリック・ベイトマンは一流金融企業に勤めているが、親がその経営者ゆえに働きもせず大金持ちで、ファッションや音楽や新規レストラン開拓などトレンドを追いかけ消費することばかり四六時中考えている。そんな彼の夜の顔はシリアル・キラーであり、殺害対象は主に女性や黒人、浮浪者で、その殺害方法は残虐を極めるものだった──そのベイトマンの最大の憧れが、マンハッタンの不動産王ドナルド・トランプであった。

 (直接的にその名が上がるのは15回程度なのだが)「妻やトランプタワー等のロケーションまで含めると、約40回」もトランプは小説の中で言及されるとエリスは言う。ベイトマンは実際の父親と健全な絆を結ぶことが出来ず、語りの時点でもそれに悩まされている。「トランプは、実人生でベイトマンが持つことが出来なかった父親の代わりだ。だからベイトマンはトランプのことを常に考え、知り合いになりたいと望み、手本としている

 ここにおいて、小説タイトルが『アメリカン・サイコ』であることが決定的に重要だ。つまり著者は、この大金持ちで快楽殺人者で女性嫌悪のホモフォビアでレイシズムに満ち溢れた白人男性を「サイコ野郎」だと示しているのである。そのサイコ野郎の憧れとして描かれるトランプ──逆説的に、これほどトランプをコケにした小説はないとも言える。

 女性蔑視的で、性差別的で、残虐で、人種差別的な表現に満ち溢れていると発売前から非難され、1989年に完成していたにもかかわらず、『アメリカン・サイコ』は発売中止に追い込まれた。しかし1991年の発売後、『アメリカン・サイコ』は当時のウォール街がいかに差別的であり、消費主義がいかに暴力的でアメリカの病理となっているかを暴き告発するテクストとして高く評価された。

 ただもちろん、あまりに過激でショッキングな内容を含む、暴力に満ち溢れた、(人によっては)不快な小説であることは間違いない。それでもなお、私をはじめ多くの人間が『アメリカン・サイコ』は時代を抉り取った傑作であると信じている。ただ、ドナルド・トランプ政権下のアメリカで、声高に『アメリカン・サイコ』が最高であると叫ぶのは、あまりに危うい。

 2016年にエリスはネット番組に出演し、「『アメリカン・サイコ』はモラル的な小説だ。もし、正しく読むのなら」と語り、2019年の討論会で聴衆から「もし『アメリカン・サイコ』が現在書かれたとしたら出版されるか?」と問われ、「絶対にありえないだろう、悲しいことだが」と答えた。

 そして事実、木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』によれば、トランプ支持のオルタナ右翼たちは、映画版『アメリカン・サイコ』をアンチ・フェミニズム映画として好んで鑑賞しているという。想像されうる限り、最悪の受容のされ方である。

 そして、彼はしばしば本当に暴走して、差別的なことを口走る(ビグローとモリスンへのツイートは、発話の意図と関係なく、ミソジニーとしか言いようがない)。だからといって、エリスは加減をすることをしない。それを彼の「誠実さ」と取るかは、受け手次第であることは確かである。この分断とヘイトに満ちたトランプ時代に、エリスの「本音」は危険すぎる。

 以下、ポッドキャストと『ホワイト』のなかで書かれ、議論を生んでいる箇所を紹介していこう。またここで、今回の私のnoteは前後編に分かれることを断っておきたい。

3、「芸術は民主主義によっては作られない」

 『ホワイト』が刊行されると英国“タイムズ”は「彼の近年の最高傑作」と称賛、“ニョーヨーク・タイムズ”はエリスを招いて公開インタビューを開催、オーディエンスは好意的に彼を迎え、英国“ザ・ガーディアン”は雑誌のポッドキャスト番組に彼を招き、その毒舌に耳を傾け、本の内容を真摯に検討した。

 自身の幼少期から作家としてのキャリアを形成するに至るまで、『アメリカン・サイコ』刊行時の狂騒、そして近年のアメリカ文化と、『ホワイト』の内容は多岐にわたるのだが、ロサンゼルス在住でハリウッドを舞台にした小説を書き実際に映画に携わっているエリスの批判は、主に文学作品ではなく映画作品そして映画産業そのものに向けられている。

 エリスの映画産業批判を一言で要約すると「ハリウッドは、リベラル・ファンタジーに囚われている」というものだ。彼は「芸術は民主主義によっては作られない(Art is not created by democracy)」というテーゼを折りに触れ繰り返し述べる。たとえば昨年のアカデミー賞作品賞受賞作『シェイプ・オブ・ウォーター(Shape of Water)』に対しては、

「誰か一人でも『シェイプ・オブ・ウォーター』が今年のベストだと熱っぽく語っていた人間がいたか? 皆が熱っぽく語ったのは、『スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)』や『ダンケルク(Dunkirk)』だっただろう? しかしこれらの作品は、その政治性に問題があると見なされ、評価されなかった。今やハリウッドは美学よりもイデオロギーを優先している。彼らが選ぶのは優れた作品ではなく、問題を起こさない、行儀のいい映画だ。ハリウッドは、リベラル・ファンタジーに侵されている」

と批判した。一見するとこの手の批判は、ネット上に溢れている「反ポリティカル・コレクトネス(Anti-Political Correctness)」と変わらず、リベラル嫌いの保守的なものと結びつくように思える。しかし、エリスはその先にある資本主義と巨大企業の癒着を常に見ている。現状の保守にとっては「リベラルな多様性=邪魔な革新」であるが、エリスの言う「リベラル・ファンタジー」とは「資本主義に媚を売った企業文化(コーポレート・カルチャー)」を指している。エリスはこう述べる、「コーポレート・カルチャーは、最終的に均質なものを生み出すことを夢想している」

 (もはや遠い昔のように感じさえするが)たった数年前までは、アメリカの大統領はバラク・オバマであり政権を担っていたのは民主党だった。その時の知識人たちは、リベラルの多様性の旗印のもとに拡大する新自由主義的資本主義と戦っていたのだった。その勢力図は、トランプの登場により一変した。現状アメリカ左派は団結してトランプ的なるものに対抗しようとしているが、ただ一人、エリスだけは文化とその美学にのみフォーカスし、決してブレることがない。エリスは一貫しているが、それは受け手と時代によって、「野蛮な勇敢さ」にも「危険な鈍感さ」にもなりえる。

4、「ミレニアルズは腰抜け世代だ」──ポスト・エンパイア

 現在進行系で今も続いている『ホワイト』をめぐる批判の最大の原因は、エリスがミレニアル世代を「ジェネレーション・ウス(Generation Wuss)」と呼んだことにより起こった。“Wuss”とは「腰抜け、臆病者、弱虫」を意味する侮蔑語である。

 1980年代序盤から1990年代中盤までに生まれた世代を呼称する「ミレニアル世代」とは、「Y世代」の別名でもある。Yの前にはXがある。「X世代」と呼び習わされた一連の作家の中で最も著名な作家、それは、当時も、現在も、未来も、エリスである。つまり『ホワイト』は、「ジェネレーションX」を代表する作家からのY世代/ジェネレーション・ウス/ミレニアルズへの批判なのだ。

 エリスの批評には、「エンパイア」「ポスト・エンパイア」という独自の造語が頻出する。911までの文化ヘゲモニーを彼は「帝国 (Empire)」と呼び、それ以後を「帝国以後(Post Empire)」と呼び区分する。

 ミレニアルズはまさにこの「ポスト・エンパイア」の文化の主体であるが、彼は実は批判一辺倒なわけではない。ポスト・エンパイアには、いくかの記念的モーメントがある。2010年前後、離婚騒動に揺れたチャーリー・シーン、そしてトランプを擁護したカニエ・ウェストがまさにそれだ。そして、トランプこそが、エリスの言う「ポスト・エンパイア大統領」なのである。

 エリスとミレニアルズは今も場外戦を繰り広げている。なぜエリスは彼らを目の敵にするのか、そしてエリスに腰抜けと名指されたミレニアルズたちはどのように反論をしたのか。なぜエリスは、カニエを擁護しつつ、トランプを評価しないのか。ポスト・エンパイアとは一体なんなのか?……その詳細は、次回「エンパイア vs ポスト・エンパイア──エリスよ、とっとと小説を書け(仮)」に続く。

今回の執筆者

青木耕平(あおき・こうへい)
首都大学東京他非常勤講師。1990年代のアメリカ小説/文化を研究対象としている。主な論文にB.E.エリス『アメリカン・サイコ』論、デヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』論、デニス・ジョンソン『煙の樹』論がある。現在はアーシュラ K. ル=グウィン『ゲド戦記』「第二の三部作」に関する論考を執筆中。

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