第11回 三首の女子がスペキュラティヴ・フィクションをスペキュレイトする ──香港バプテスト大学国際作家ワークショップ滞在記(吉田恭子)

始めて出会った訪問作家ダイベック

 前回(第4回)に引き続き、香港バプテスト大学国際作家プログラム(IWW)の報告。
 
 レジデンシーも後半に入った3月5日、油麻地(ヤウマテイ)の映画館+書店+カフェKubrickでグラフィックノヴェリスト3名のトークイベントを見学した。映画館では話題の中華SF大作『流浪地球』を上映していた。
 
 IWWの参加者でロンドン拠点のサラ・リペット(第4回参照)と、香港拠点の黃照達(ジャスティン・ウォン)と江記(コン・キー)が、香港での“One City, One Book” プロジェクト始動に伴い、最初の選定図書であるショーン・タン作『アライバル』(原書2006年, 日本版2011年)について語るという企画だ。

 “One City, One Book”(中国語で「我城我書」)とは、一説にシアトルで始まったとされる読書運動で、町を挙げて一冊の本を読んでみよう、というプログラム。ちなみに温帯雨林地帯のシアトルは雨がちなことで有名で、ひとりあたりの読書時間が全米で最も長い町である。
 
 “One City, One Book”といえば、シカゴのプログラムで2004年にスチュアート・ダイベックの短編集『シカゴ育ち』(原書1990年, 翻訳2003年)が選ばれたのが思い出深い。
 
 ダイベックはわたしがウィスコンシン大学ミルウォーキー校の創作科に入って始めて出会った訪問作家だった。当時創作科には外部から作家を呼ぶ予算がなかったから、院生総出で手作り菓子を売るベークセールを開いたりと涙ぐましい努力をして700ドルをかき集めて、ミルウォーキーからミシガン湖を挟んでちょうど対岸、カラマズーのウェスタンミシガン大学創作科教授だったダイベックに2日間来てもらったのだ。
 
 短期訪問作家を招聘するには普通2、3千ドルから数万ドルかかるのだが、ダイベックは学生からの呼びかけに応じてカラマズーから車を運転してやって来た。飾り気のない人柄で、授業の後もバーで遅くまで学生の話に耳を傾けてくれた。
 
 それから数年、就職してアメリカ創作科学会(AWP)に参加するため久々に訪れた2004年のシカゴで、メインイベントはダイベックの朗読会だった。今は大学で創作を教えている元教え子が恩師ダイベックを紹介したのだが、その時の逸話がおかしくて、自分たちのバンドに「スチュアート・ダイベック」という名前をつけようとする高校生の話を短編小説にして提出してきた学生がいたという話だった。主人公はダイベックの短編「僕たちはしなかった」にすっかりマイッてしまい、バンド仲間を説得しようとする。「写真を見てみろよ! この70年代まんまのメガネ! 口髭! 今どきこの顔! イカスだろ!?」
 
 そこへダイベック御大が「イカスだろ……」と実に申し訳なさそうにつぶやきながら登壇し、朗読が始まる前から会場は爆笑だった。その夜に朗読してくれたのは短編「ドリームズヴィルからライブで」だった(「僕たちはしなかった」とともに『僕はマゼランと旅した』所収。原書2003年, 翻訳2006年)。シカゴのサウスサイドの慎ましいアパートでひとつの子供部屋に眠る幼い兄弟のやりとりを描いた作品に、数千人が笑い、ダイベックは劇中歌まで「ライブで」披露してくれて、シカゴ・ヒルトンの大ホールは一体となって盛り上がった。まるで聴衆みんながダイベックのベッドサイドストーリーに聞き入る小さな子供になったように……。

小説とは違う沈黙のレトリック

 ここらでシカゴから香港に戻ってこよう。イベントでの課題図書『アライバル』は「字のない大人の絵本」として話題になりアングレーム国際漫画祭最優秀作品賞を受賞した漫画である。架空の文字を使う架空の世界が舞台だが、セピア色の柔らかで緻密な鉛筆画が描く風景や人々はなんとなく懐かしい。本書の主人公は様々な場所から架空の都市にたどり着き上陸してくる移民たちだ。彼らの不安、希望、大きな落胆や小さな喜び、人と人、場所と人のつながりがことばを一切使わずに描かれる。

 作者のショーン・タンは中国系オーストラリア人で、漫画『ロスト・シング』(原書2000年, 翻訳2012年)の同名アニメ化作品ではアカデミー短編アニメ賞を受賞している。

 移民の視点で上陸を描く文字のない本は多言語多文化移民都市香港にふさわしい作品に思える。けれども実際に本を開いてみると、「絵を読む」ことは「文字を読む」以上に手探りの作業であることにすぐに気がつく。『アライバル』の世界に入っていくには、このゆっくりと流れる時間に慎重に身を浸していくことが求められる。そうすることができてはじめて移民たちの視点で作品世界に入っていくことができる。香港は日本の都市を遥かに凌ぐハイペースの街だから、「ゆっくり読む」ことはなかなかの挑戦なのだ。

 作品の性質上、ディスカッションでは漫画やグラフィックノヴェルにおけることばと絵の相互補完的な関係やことばを使う・使わない各作家の戦略が話題の中心となった。サラ・リペットは近日刊行予定の闘病記 “A Puff of Smoke” から病床を描いた場面で、説明的キャプションを消したことで却って雄弁になったコマを例に見せてくれて、なるほどまったくそのとおり、グラフィックノヴェルには小説とは違う沈黙のレトリックが存在することがよく実感できた。

グラフィックノヴェルで文学を「ハイジャック」

 続くディスカッションでは、江記(当時は「江康泉」名義)が同じく1977年生まれの智海(チー・ホイ)とのデュオで制作した “大騎劫”(英題 “Hijacking,” 2007)上下2巻の話になった。モダニズム風の意匠が印象的な本書の副題は “漫画香港文學” で、香港の現代作家12人の作品を2篇ずつ江記と智海がそれぞれ「漫画化」したという趣向なのだが、なんと当の作家らに許可を求めずに勝手に刊行したのだという。つまりグラフィックノヴェルで文学を「ハイジャック」してやろうというのだ。

 新進気鋭の芸術家らしい無謀な勢い、そして文化海賊を原動力にしてきた香港ならではの活気が感じられて、がぜん興味をそそられた。

 数日後の3月9日、バプテスト大学教授で小説家の羅貴祥(ロー・クヮイチェン)がたまたま自作の短編が智海によって「ハイジャック」されグラフィックノヴェルとして生まれ変わった経緯について別のシンポジウムで語ってくれた。

 羅によると、できあがった本が送られてくるまで漫画化されていることなどまるで知らなかったという。案の定アメリカ人参加者から、著作権的にそれってどうなの、大丈夫なの、という質問の手が挙がった。羅は香港における著作権の曖昧な取扱いの歴史に触れ、そして作家側は誰も勝手に漫画化されたことを問題にはしなかった、と笑ってつけ加えた。

 それどころか、智海版 “兩個半我” は、作者羅貴祥が思いもしなかったような大胆な解釈と表現によって新たな作品に生まれ変わっていたのだ。
 
 羅貴祥の短編 “北行101公路上的我和他和Chris”(「101号線を北上する僕と彼とChris」)は、ヴェトナム人の恋人 Huynh(中国語原文でもローマ字表記)をカローラに乗せ、合衆国国道101号線沿いに北カリフォルニアの海岸線を北上するひと時を、ハンドルを握る香港人の語り手の意識を通して切り取った掌編である。

 外は干ばつが続いた北カリフォルニア6年ぶりの大雨が降っている。ケンカの後なのか、語り手はなにがなんでも恋人に話しかけたくない。互いにだんまりを決め込む車中で、語り手はHuynhの腹の中を読み取ろうとする。短編前半はヘソを曲げた恋人同士のマインドゲームが語り手の視点から語られる。ほどなくHuynhがひとりでしゃべり始める。相槌を打ちたくない語り手の意識はHuynhのことばからの連想や回想へと繋がり、ふたりの共通の友人であるフィリピン人Chrisの思い出が蘇る。どうやらChrisとふたりはある種の三角関係にあったらしい。そうしてHuynhと語り手がそれぞれにChrisのことを思い返した瞬間、後部座席にChrisの姿が現れる……とまるで能舞台のような短編である。

 雨の中の車中という密室にたち現れる、想像と実在のどちらでもありどちらでもない存在。グラフィックノヴェルはそれをどのように表現するのか。

 智海は語り手とHuynhを「異心同体」とでもいうべき二首一体の人物として造形している。そうすることで、ふたりの意識が違った波長でありながらもシンクロすることで後部座席にChrisが召喚されるという現象を画像化しているのだ。

 作品末尾のコメントで智海は、小説を読んで「僕と彼とChris」がまるで一個の人格であるかのような印象を受けた、と記している。たしかにこの短編の魅力は、一方で海岸沿いのドライヴというありふれた出来事があり、もう一方では互いに刻印を残してきた三人の男たちのもつれた関係を鮮やかに思い返す語り手の意識というふたつの重ね合わせにある。

 羅貴祥自身も、アメリカでアジア人ゲイはみな一緒くたにされるが、漫画版はそれをある意味うまく戯画化してくれた気がする、とコメントしていた。

 舞台を干ばつ明けの北カリフォルニアから数十年に一度の大豪雨の香港に移した智海作 “兩個半我” は、原作の「ものがたり」の忠実な漫画化ではなく、大胆なアダプテーション、羅貴祥のことばが創り出した世界を画像に翻訳し、グラフィックノヴェル側から原作者さえ驚きの挑戦状を突きつけた「ハイジャック」作品なのだ。

「兩個半我」翻訳(56ページ)
4コマ目 Hは予知能力があるといつも言っていた。
5コマ目 「3秒、3秒前に来てたら、俺の車がここを通ってたはずだ−−」
6コマ目 「−−あのフォード・トーラスが3秒前に過ぎた地点!」

「兩個半我」翻訳(58ページ)
1コマ目 僕は車を運転するときの感覚が好きだ。
2コマ目 世界がフロントガラスの風景に濃縮されていく。
3コマ目 特に雨が降っているときは、車の中で濡れることなく雨の風景を
   眺めていられる。
4コマ目 そうして窓を下げれば、この風景も一瞬に消え去り、
5コマ目 外界は虚空であるかのような幻想を抱いてしまう。

「異心同体」な多頭世界

 “大騎劫” 再会から二日後、第1回IWW文学祭「SFの多層世界」が幕を開けた。オープニングのパネルは「中国SFの多層世界」。同時通訳付きで大陸と香港と台湾の作家が登壇するという、華文SF三頭会談とでもいうべき香港でもなければ容易に実現しない豪華趣向である。ところが蓋を開けてみると政治形態・言語・世代を超えた対話の難しさをあらためて痛感する90分となった。

 北京からは映画業界で働く若手SF作家呉霜(アナ・ウー)が普通話(プゥトンホア)で近年の大陸における華文SFの躍進ぶりを滔々と総括した。続いてチャーミングな眼鏡ギーク君といった風情の香港代表陳浩基(サイモン・チェン)が、普通話と英語だったらボクは英語のほうがまだマシなので……、と恥じらいがちに断って、本格推理小説界におけるSF的潮流といういかにもワタクシ好みのニッチな話題を提供。最後に重鎮という趣きの台湾文人賀景濱(ホー・チンピン)がSFの背後にある哲学・世界観について難しい理論を語った。三者三様にそれぞれの話を終えたところで時間切れとなりお開きになってしまった。

 パネルを数ヶ月前から楽しみにしていたわたしはその生煮え具合に悶絶した。小説好きの人間は概ね各論好きであり総括的な話が嫌いどころか憎んでさえいると思うが(と勝手に総括してしまっているが)、呉女史は数字データを挙げながら、華文SF(いわゆるハードSFのジャンルに属するもの)が質・量ともに近年目覚ましい発展を遂げ、内外で様々な出版物やイベントが行政との協働によって実現しすばらしい成功を収め、各方面の並々ならぬ情熱の賜物が旧正月に公開され大陸では記録的ヒットを飛ばしている劉慈欣(リュウ・シーチン)の中編が原作のSF超大作映画『流浪地球』である、と中国のソフトパワー戦略の成果をまとめ上げた。

 彼女の話から察せられたことはふたつある。近年の華文SFブームは文学界と政府の協働の側面があるが、それはあくまで、従来はSFを否定していた中国政府が「空想科学未来小説」としての側面を受け入れ奨励するよう方針転換したかららしいということ。アメリカ在住のケン・リュウ編纂による『折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』(2018)は幽霊譚から歴史ファンタジーまで実に多様、幻想色豊かで目を見張ったが、大陸側の看板は少し様子が違う印象を与える。
 
 そしてもうひとつは、文学会議は壇上では終わらない、ということである。
 
 ASEAN文学祭で政治形態の違う国々の作家詩人が集まった際にも感じたことだった。カンボジアやヴェトナムの作家から「あなたはどの国の代表なの?」と訊かれると(いや、どの国も代表してないんですけど……)と思いつつ、「日本カラ来マシタ」と答える。彼らは自国文学の代表であると自覚している。作家組合の推薦によって国際会議に参加する国柄の場合、壇上の発言も国を代表する総括となりがちだ。そこから対話は生まれにくい。ひとりの書き手としてのこの人たちの声を聞くためには、ステージから降りたところでしばらく時間を過ごし、一緒に食事をし、とりとめのない世間話もしなければならない。そこが交流の本番なのだ。
 
 おそらく世代的に呉霜に近いと思われる陳浩基があえて英語で発表をしたのも思わせぶりだった。はたして呉と陳はステージから降りてどんな話をしたのだろうか。中国SF世界は多層世界どころか、まさしく「異心同体」な多頭世界なのだった。そして文学祭最終日には「香港のSF文学――少数派意見」と題して広東語オンリーのパネルが通訳抜きで開催された。通訳や翻訳は必ずしも自由で創造的な意見交換を促すわけではない、とでも言うように。翻訳の不在こそが表現や思想の独自性を保証する場合もあるということなのだろうか。

スペキュラティヴ・フィクションの異世界性こそがフェミニスト的

 わたしが登壇したのは「スペキュラティヴ・フィクションへのフェミニスト的視点」というパネルだった。韓国の小説家ハン・ユジュ(第4回参照)に加え、イギリスからナターシャ・プーリーをスペシャルゲストとして迎えた。彼女のデビュー長編『フィリグリー街の時計師』(原書2015年, 翻訳2017年)は、19世紀ロンドンを舞台に予知能力のある日本人天才時計師が活躍するスチームパンクテイストの歴史ファンタジーである。本書執筆のために東京に長期滞在しているプーリーだが、第二作、19世紀のペルーを舞台にマラリアの治療薬キニーネの材料キナノキ盗奪作戦を巡る冒険譚 “The Bedlam Stacks”(2017年, 未邦訳)執筆の際もペルーでスペイン語を学び文献調査を行ったとか。「日本語を勉強するのにくらべたら、スペイン語は楽勝でしょ!」と言ってのける、才気煥発、想像力と行動力に満ちあふれ、好奇心のかたまりのような人である。

 さて学生に引率されて会場に向かう道すがら、わたしたち3人はぶーぶー文句をたれていた。
 
「『スペキュラティヴ・フィクションへのフェミニスト的視点』て、はあ? それ何やねん! 知らんがな!」というのが我々の共通見解であった。「文学祭とかでねー、女性から見たなんちゃらみたいなパネルにすぐ女まとめて放り込むおっさんのセンスの悪さどうにかならないのー(棒読)」
 
 我々がフェミニストであることと、修養文学を生み出す気が毛頭思わないこととで意見が一致。「ホントそうよね! 主催者は顔ぶれの違う3人を集めたつもりだけど、実はこの3人、同じひとりの人物だったってことね?」といたずらっぽく笑うナターシャ。
 
 自分にとっては、英語で書くこと自体が観測的(speculative)な行為で、だからそれは共同体や社会に根ざした言語というよりむしろ空想的な言語だ。90年代後半、クリエイティヴ・ライティングの大学院生だったころ、ミニマリスト的リアリズムがいまだ主流な中、「ヘンな小説」を書く女性作家に励まされた。エイミー・ベンダーをはじめて読んだときの安堵と興奮は忘れられない。アメリカの大学ではアジア人、女性といった属性でタコツボに入れられがちなので、それに創造的に反発するエネルギーが必要だ。わたしが動物を主体に据えた小説へ傾いていったのも、それが男性女性すべての読者にとっての他者だからだ……といった話をした。

 ハン・ユジュのスピーチは一見相矛盾する作家の内的動機を積み重ねながら突破口を目指すスタイルがすばらしくカッコよかった。

 “#Mee Too” 運動に先立ってオンラインで展開した韓国のフェミニスト運動と社会の変化に触れつつ、自身の文学的軌跡を振り返る。

 長編『不可能な童話』(英訳タイトル “The Impossible Fairytale,” 第4回参照)執筆にあたっては、立派な女性や被害者の女性ではなく、悪意ある女性登場人物を描きたかったし、それが自分の役割だとも感じたという。そこで女性の犯罪史についてかなり調査をした。また、ジェンダーを消した代名詞を使うことに苦心した、とも。小中学校生活の閉塞した残酷さが殺人という惨劇を生み出す本作が発表されて、十代の読者からは心理的に同様の経験をしたという反響が届いた。

 けれどもハン自身は小説は社会運動のためにあるのではないと断言する。実験的文学を志向する彼女は「小説の死」を夢見て書き続けている。だが、平等が実現するまでは小説を死なせない、とも決意しているのだ。

 ナターシャ・プーリーの文学的忠誠心は「魔法」に捧げられている。彼女はトークの中で「マジック」ということばを何度となく使ったが、それはファンタジー小説世界内の「魔法」と、ことばが虚構世界を紡ぎ出すという文学の「魔法」の双方を指している。

 魔法はファンタジー世界だけでなく、古典文学、外国文学を筆頭に文学という異世界で読者を待っている。異性の文学もその中に入るだろう。異世界を翻訳するのが書き手の役割なのだ。たとえばアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』、あるいはエミリー・ウィルソンによる『オデュッセイア』の新訳(2017年)。この女性初の英訳は武勲の栄光を謳う従来の英雄譚とはガラリと趣の違う『オデュッセイア』に仕上がっているという。

 わたしたちは「女として」の経験を足がかりに書くのではなく、「人類として」書かなければならないとプーリーは主張する。人類が共有する9割の部分に向けて、1割の立場、すなわち異世界的視点から世界を翻訳するのだ。

 スペキュラティヴ・フィクションの定義には諸説ある。けれども、SFやファンタジーといったリアリズムではないジャンル小説のお約束を援用した純文学寄りの小説という前提に立った場合、実はスペキュラティヴ・フィクションは、現代に話を絞ってもアンジェラ・カーターを筆頭にマーガレット・アトウッド、カレン・ラッセル、ケリー・リンクなどなど女性作家の独壇場といっても過言ではない。スペキュラティヴ・フィクションにフェミニスト的視点を持ち込むのではなく、スペキュラティヴ・フィクションの異世界性こそがフェミニスト的なのだ。

「ほら! 3人とも違う頭だけど、同一人物だったというわけよ!」とナターシャは微笑んだ。三首の女子が運転する車の後部座席でどんな魔法がたち現れるやら。

読書案内

ショーン・タン『アライバル』河出書房新社, 2011.
ショーン・タン『ロスト・シング』岸本佐知子訳. 河出書房新社, 2012.
スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』柴田元幸訳. 白水社, 2003.
スチュアート・ダイベック『僕はマゼランと旅した』柴田元幸訳. 白水社, 
   2006.
Sarah Lippett, “A Puff of Smoke.” Jonathan Cape, 2019. (11月に刊行予定)
智海, 江康泉, “大騎劫――Hijacking――漫画香港文學” 香港三聯書店, 2007.
Chihoi & Kongkee, “Détournements.” Atrabile, 2012. (“大騎劫” の仏語訳)
羅貴祥, “北行101公路上的我和他和Chris.” Asymptote. asymptotejournal.com
Lo Kwai Cheung, “Me and Him and Chris on Northbound 101.”
   Trans.by SteveBradbury. Asymptote. asymptotejournal.com
劉慈欣『三体』(早川書房より2019年刊行予定)
折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編. 
   中原尚哉ほか訳. 早川書房, 2018.
陳浩基「世界を売った男」玉田誠訳.『文藝春秋』2012年6月号.
ナターシャ・プーリー『フィリグリー街の時計師』中西和美訳. 
   ハーパーBOOKS, 2017.
エイミー・ベンダー『燃えるスカートの少女』管啓次郎訳. 角川文庫, 2007.
エイミー・ベンダー『私自身の見えない徴』管啓次郎訳. 角川文庫, 2010.
エイミー・ベンダー『レモンケーキの独特なさびしさ』管啓次郎訳.
   KADOKAWA, 2016.
紫式部『源氏物語 A・ウェイリー版』1〜3巻. 毬矢まりえ訳. 左右社, 2017-18.
Homer, “The Odyssey.” Trans. by Emily Wilson. W. W. Norton, 2017.
アンジェラ・カーター『夜ごとのサーカス』加藤光也訳. 国書刊行会, 2000.
アンジェラ・カーター『新しきイヴの受難』望月節子訳. 国書刊行会, 2018.
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』斉藤英治訳. ハヤカワepi文庫,
   2001.
マーガレット・アトウッド『洪水の年』佐藤アヤ子訳. 岩波書店, 2018.
カレン・ラッセル『オオカミ少女たちの聖ルーシー寮』松田青子訳. 
   河出書房新社, 2014.
ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳. い
   ハヤカワepi文庫, 2012.

補遺(2019年5月21日)

陳浩基(サイモン・チェン)の短編集『ディオゲネス変奏曲』(稲村文吾訳. ハヤカワ・ポケット・ミステリ, 2019)が刊行!要チェック!

今回の執筆者

吉田恭子(よしだ・きょうこ)
1969年福岡県生まれ。立命館大学教授。英語で小説を書く傍ら、英語小説を日本語に、日本の現代詩や戯曲を英語に翻訳している。短編集“Disorientalism” (Vagabond Press, 2014)、翻訳にデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房, 2014)、『王様のためのホログラム』(早川書房, 2016)、野村喜和夫“Spectacle & Pigsty”(OmniDawn, 2011, Forrest Ganderとの共訳)など。

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