第6回   居心地のわるい読書――ハニャ・ヤナギハラ『あるささやかな人生』前編(加藤有佳織)

「ささやか」とは呼べない大作

 連載をお読みくださるみなさま、はじめまして。これから、アメリカやカナダの文学を中心に、素敵な作品を紹介していけたらとおもます。こういうとき、「素敵な」の定義を絶対にするべきですが、臨機応変に(行き当たりばったりで…?)いろいろな作品を読み、その魅力についてわたしなりにお伝えできるよう、いまはまだ保留にさせてください。これからよろしくお願いいたします。

 連載の第1回と第2回では、ハニャ・ヤナギハラ(Hanya Yanagihara;1975年生まれ)と彼女の小説『あるささやかな人生』(A Little Life;日本未訳)について書いてみたい。『あるささやかな人生』は、おしゃれな見かけ以上に切実で重みのある作品だから、日本でも遠くないいつか翻訳が出版されてほしい。それぞれの受け止め方があるけれども、すみずみまで愉快な娯楽作ではないし、善良な読後感をもたらしてくれるわけでもない。それでも読んでしまう引力のある作品なのだ。

 雑誌編集者であるヤナギハラは、2013年に『森の人々』(The People in the Trees)とともに小説家としてデビューした。2017年には「衝撃のデビュー作」という帯文句をまとった日本語訳が出版されているので、お手にとられた方も多いだろう。20世紀、南洋の非接触民を研究し、多くの児童を養子に迎え入れた著名な免疫学者エイブラハム・ノートン・ペリーナが、児童虐待の有罪判決を受ける。『森の人々』は彼が獄中で執筆した手記、という体裁である。非接触民に接するペリーナの物腰やその傲慢で赤裸々な手記は、決して快いものではないが、その読書の手ざわりのわるさは見事で、体験の価値がある。そして2015年、小説第二作『あるささやかな人生』が出版される。18か月で書き上げられた本作は、「ささやか」とは呼べない大作である。本人曰く「中年のギャップイヤー」 として15か月の休暇を取り、世界各地でインタビューを受け自ら作品について積極的に語り、本作は2015年カーカス賞フィクション部門を受賞し、2015年マン・ブッカー賞および2015年全米図書賞の最終候補作となった。ヤナギハラは、その後「T: ニューヨークタイムズ・スタイルマガジン」の副編集長、2017年4月からは編集長を務めている。商用誌ではあるものの文化や文芸にも目配りの行き届いた特集を組み、編集長として「いま起きていることへの意識」と「遊び心」 を大切にする姿勢を見せている(彼女が好きな雑誌が日本の「POPEYE」だと知ると、少し身近に感じられるかもしれない。参照インタビューはこちら)。最近では、2018年12月号「アメリカの声」がとくに印象的で、アフリカンアメリカンの男性の書き手32名を集め、彼らが敬愛するアフリカンアメリカンの女性の作品についておおいに語らせている 。

 こうしたヤナギハラの雑誌編集者としての仕事と小説家としてのそれは、きれいな因果関係にあるわけではないだろう。それでも、ジャーナリズムの世界で書くことを学び、創作科で学んだ経歴を持たないことを、彼女は自分の特色のひとつととらえている(参照インタビューはこちらで聞くことができる)。吉田恭子さんが教えてくれる心躍るような創作科の活況を考えると、もう少し根ほり葉ほり、ヤナギハラにその意味を尋ねてみたいところだ。いまひとつの特色は、指摘することそれ自体が無粋かもしれないが、いわゆるアジア系アメリカ人作家というカテゴリーや、そのカテゴリーの作家にしばしば期待されてきた物語から自由であることだろう。これまでの二作は、作家の出自や人種的アイデンティティを感じさせず、また問うことをさせない。ヤナギハラは、もちろん生きている時代と場所に規定されているけれども、人生と作品を慎重に切り分け、獲得した言語のみによって作品を構築しようとする意志を持った作家である。

いたたまれない読書体験

 自由なフィクションとして構築された『あるささやかな人生』について、ヤナギハラ自身は「決してよくなることのない人物」 を描こうとしたとくり返し述べている(いくつか挙げると、BBC Radio Front RowThe Guardian Books PodcastSlate's Live at Politics & ProseAloudWheeler Centerなど)。その言葉のとおり、中心人物のジュード・セントフランシスにとって、すべてはすでに確定していて、これから「よくなる(get better)」ことはない。孤児として虐待の連鎖につながれていた彼は、ひとさじの好運と懸命の努力と周囲の支えによって弁護士として活躍するまでになる。その来歴は、過去や現在を克服していく未来志向を体現するように映るかもしれない。20代から50代まで時間を共有する友人たち――俳優として活躍するウィレム・ラグナルソン、建築家として成功するマルコム・アーヴィン、画家として大成するジャン=バプティスト・マリオン――も愛と敬意をもって、彼のよりよい未来としあわせを願っている。ところが、ジュード自身はすでに絶望していて、「よくなる」ことを信じていない。

 それゆえか、泣ける作品という、どこかにカタルシスを期待する惹句は、『あるささやかな人生』には似合わない。たしかに涙なしには読めないけれど、泣いても救いは訪れない。七部構成の本作では「最大量の感情(maximum emotion)」を描き、「不躾な(rude)」ほどの長さ(アンカー・ブックスのペーパーバックで800ページほど!)をもって読者に対し「感情的降伏(emotional surrender)」を求めたというヤナギハラの目論見どおり、この作品を読む者は、ジュードや友人たちの姿に心動かされ、かき立てられた感情に飲み込まれそうになる(Slate's Live at Politics & ProseおよびThe Guardian Books Podcastより)。同時に、「よくなる」ことを期待しないジュードの冷静な絶望が、「よくなる」ことを期待し、悲しみはしあわせで贖われてほしいと祈るような心持ちにブレーキをかける。感情の大渦のなかで、涙と洟まみれになりながら、そのように共感する意味を問われるいたたまれなさがある。いたたまれない読書体験をもたらしてくれるという点は、デビュー作『森の人々』にも共通する魅力である。音響もなく単調に黒インクの活字が連なるだけの本が、これほどの居心地のわるさを生じさせることに驚きつつ、作品へもぐり込んでみたい。今回は、第四部まで。

 第一部「リスペナード通り」では、ボストンの大学寮に暮らす4人それぞれにスポットライトがあたる。彼らはさまざまなことを語り合うが、ジュードだけは自らについてほとんど何も語らない。親はないこと、車に轢かれた後遺症で右脚が少し不自由であり、ときおり痛みの発作に見舞われること。それ以外のことをジュードが明かすことはなく、ウィレムたちは、彼の過去には何かがある気配を感じ取りつつ、そこに立ち入る勇気と厚かましさを発揮することはなかった。

 第二部「ポストマン」以降、小説の焦点はジュードにしぼられる。大学を卒業した4人はニューヨークへ移り、それぞれのキャリアを追いかけながら、近しい友人であり続けたが、第三部「虚栄」と第四部「等号の公理」では、20年の経過とともに関係は変化する。弁護士として容赦のない仕事をこなすジュードは、11歳からリストカットを続けている。彼にとって自傷は「ふつうである(be normal)」ために必要なものであり、友人たちは案じながらも介入することはできなかった(A Little Life: A Novel, Kindle版, 412ページ)。しかし、とりわけ仲の良かったウィレムに恋人ができると、ジュードはアパレルメーカーCEOであるケイレブ・ポーターと関係を持つようになり、やがて自傷は頻度と度合いを増す。ケイレブは彼に暴力をふるい続け、ある日激しい暴行におよぶ。打撲や骨折を含む身体的怪我からは回復するが、事件から1年後、42歳のジュードは両腕の動静脈を切り自殺を試みる。

 暴行事件と自殺未遂ののち、ウィレムはふたたびジュードと暮らし始め、パートナーとなる決意をする。祝福されたしあわせな時が流れ始めるが、ジュードは自傷を止めない。ウィレムへの信頼と愛情を深める一方で、セックスに対して嫌悪と恐怖を抱くほかない彼にとって、自傷は、醜悪な記憶や感情を浄化するある種の救済であるが、ウィレムはどのように向き合えばよいのか分からない。お互いを必要とするパートナーとしての関係は、およそ2年のうちに少しずつ、治療の必要な病者と治癒のための手助けをしたい者のそれにも似るようになり、感謝祭休暇のある日、激しい口論となる。ジュードは、ウィレムがいつか自分を捨てるかもしれないことを恐れながら、自分の醜悪さにおびえている。ウィレムは、ジュードを救おうとしながら、何が救いとなるのか分からない。双方の誤解とずれを自覚したその夜、ジュードははじめて過去について語る。サウス・ダコタの修道院、ルーク修道士、養護施設、トレイラー博士と名乗る男。その間数えきれないほどくり返された精神的、身体的、性的虐待。彼の過去は、木曜の夜から土曜日の午後までかけて語られた。

不可能な共有

 第二部以降の中心人物となるジュードは、消えることのない痛みとともに生きている。小説は、ジュードの心身に課される痛みを、細密かつ執拗に、明晰な言葉によって表す。鞭打たれる痛み、火傷を負う痛み、レイプされる痛み、殴打され突き落とされる痛み、自らを傷つける痛み。親を持たない痛み、虐待の記憶の痛み。その筆致は、ジュードの痛みを読者に疑似体験させようとするかのような意志と熱量を感じさせるけれど、描かれる痛みは誰もその身に引き受けることのできないものであり続ける。

 たとえば、こんな場面がある。ジュードは自宅のバスルームで静かに、両手首に何度もカミソリを滑らせる。それをウィレムが見ている。見られたことに気づいた衝撃は大きく、ジュードは呆然とする。ウィレムは何も言わずにカミソリを取り、自らの胸を切りつける。我に返ったジュードは止めようとするが、ウィレムは手を止めず、「どんな感じがするか分かるだろう?(You see what it feels like, Jude?)」と応える(490ページ)。ジュード自身が課してきた酷く痛い自傷の痛みを体験すると同時に、自分が抱いてきた自傷を目撃することの動揺をジュードに体験させようとする。ふたりが自傷の痛みだけでなく、パートナーの自傷行為を見る痛みも共有しているように見える。けれども、幾筋もの胸の切り傷を手当てしようとするジュードを遮り、ウィレムは「これはふたりで共有するようなものじゃない、自分で切った傷を手当てし合うなんて(This isn’t some fucked-up ritual we’re going to share, you know: bandaging each other’s self-inflicted cuts)」と言う(491ページ)。ジュードの手首の傷の痛みは、ウィレムの胸の傷の痛みと同じではないし、ウィレムの葛藤は、ジュードの動揺と同じではない。二人だけのこの場面はむしろ、痛みというものは個人的なものであって、いかに親しいふたりであっても共有できるたぐいのものではないことを明らかにしてしまう。

 ジュードの痛みを倦むことなく列挙する小説は、読者にも痛みを共有させようとするかのようでありながら、それが物語の始まりから終わりまで彼ひとりのものであって決して共有できないことを読む者に突きつける。不可能な共有を求める作品に、読者は戸惑うだろう。そして、いつまでも痛いことにも戸惑う。回復したと安堵すると、すぐにまた暴力がくり返され、痛む。暴力が反復されると、矢倉喬士さんが論じていたスローモーションの効果にも似て、今まで見えていなかった何かに視線が届くことがあるかもしれない。『あるささやかな人生』における痛みの表象は、共有できないことを前提にしているがために、かえって痛いのだ。

 こうして、作品半ば第四部、すでに居心地がわるい。なぜ、ジュードはこれほど苛烈な暴力に曝され続けなければならないのか。それを説明する手がかりを、この作品は与えてくれない。たとえば、彼の痛みに何かしらの社会的・歴史的な解釈を施しひとまず納得するためのコンテクストがない。たしかにジュードは人種的に「白くはない(Jude's not white)」し、「男性とも女性ともつかない(discernibly neither female nor male )」曖昧なセクシュアリティの持ち主で、右脚に障がいを抱えているけれど、それらは彼の心身に執拗に加えられる暴力を何も説明しない(3ページ、173ページ)。彼に向けられた暴力には理由がなく、終わりがない。2018年秋、インターナショナル・シアター・アムステルダムによって本作が舞台化された際、ルーク修道士、トレイラー博士、ケイレブの三者をハンス・ケスティング一人が演じたそうだ(劇団の本作公式サイトはこちら。舞台の英語字幕付きトレイラーはこちら。ヤナギハラのInstagramにも言及がある)。観に行くことはできなかったためここでは想像するよりほかないけれども、同じ俳優が演じると、三者それぞれの異なる属性よりも、ジュードを虐待する者としての類似性がより際立つのではないだろうか。暴力をふるう理由を三者それぞれに求めることは説得力を失い、彼らだから虐待したのだという因果が立ち消えてしまう。そして、ジュードが終わりない暴力に曝される理由を与えられない居心地のわるさは、次の問いへつながる。暴力をふるわれることについて理由を求められるのか。ジュードの終わりなき痛みについて読むときに、そこに始まりと終わりと腑に落ちる原因と結果を期待することはできるのか。『あるささやかな人生』が、紙幅の範囲で涙することの横暴と滑稽さを味わわせてくれる作品だと気づけば、これから先の300ページは、いたたまれなくもスリリングな時間になるだろう。

※「第13回 居心地のわるい読書――ハニャ・ヤナギハラ『あるささやかな人生』後編」はこちら

今回の執筆者

加藤有佳織(かとう・ゆかり)
慶應義塾大学文学部。アメリカやカナダの文学、世界各地のカッパ(的な存在)に関心がある。

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