第3回 ひげを生やしたハックとトム(里内克巳)

今の時代に書かれた文学について書くこと

 ひと昔前のアメリカ文学が仕事の真ん中にあるわたしにとって、今の時代に書かれた文学について書くことは、ちょっとした勇気がいる。読んだ冊数からしてたいへんお粗末なものだから。とはいっても、研究の必要にせまられて読む作品とはちがう本に、読みたい気持ちはいつも向かう。わたしの仕事をすいすいと前に進ませてくれない、やっかいな好奇心ではあるけれど、それが良い本に出会うための自分なりのアンテナだから、大切に育てなければと思っている。

 学術書や論文や書評を書くときには、何か月も、ときには何年もかけてこれぞと決めた作品をたんねんに読む。書き上げた文章も時間をかけて手入れし、批判されないよう、スキがないものにしておく。やりすぎると文章はハリネズミのようになって、息苦しくなる。だからこの連載では、身構えすぎないようにしたい。予備知識はあまり持たず、手ぶらで、知らない人の知らない作品に気軽に入って行き、自分のなかに湧きあがってきたものを言葉にする。そこには楽しみがあるだろうし、読む人がそれを少しでも共有してくださればもっと嬉しい。

 今はインターネットで調べれば、新刊であってもかの国の長い立派な書評を読むことができる。わたしもそういうものを横目で見ながら本を選ぶことになるけれど、プロの批評家の書いたものやネット書店での読者の書き込みなどには、なるべく左右されず、本それ自体に向き合いたい。誤解やかんちがいがあるかもしれない。どうしても理解できない部分も当然あるだろう。だが、〈分からなかった〉ということは読書という体験にはつきもの。一読者と作品とのおつきあいの次第を、かざらず気負わず綴ることができれば、と考えている。

『ハック・フィン』の続きを書くという大胆な試み

 第1回なので、自分にいちばん縁のあるマーク・トウェインに関係した現代小説を取り上げたい。トウェインはわたしをアメリカ文学の研究に導いてくれた作家だが、存在を知ったのは、小さいときに翻訳本を読んだことが始まりになる。岩波少年文庫の『トム・ソーヤーの冒険』は、上下巻に分かれた鮮やかな緑色の本で、小学生のころに布団のなかで横になりながら読んだ記憶がある。トムが悪さをして、罰として柵のペンキ塗りをさせられるけれど、それを楽しんでいるふりをして、まんまと悪友たちにその仕事をやらせることに成功するエピソード。それから、トムが恋するベッキー・サッチャーが、先生の持っていた解剖学だか何かの本を盗み見て、誤って破いてしまい、それを目撃した彼が代わりに罰を受けてあげる場面に胸ときめかせた。
続編の『ハックルベリー・フィンの冒険』は、旺文社文庫版で中学生のあたりで読んだが、これは自分には難しかった。白人少年ハックが黒人奴隷ジムとミシシッピ川をいかだで南に下りながら自由を目指す(のだが、皮肉なことにその自由からは逆に遠ざかっていく)、その歴史的な背景がよく分からなかったのだ。それでも、ゆうぜんと流れる広大なミシシッピ川の光景が鮮やかに目に浮かび、雰囲気はつかまえられた。ハックの一人称「俺」のくだけた語りにも惹きつけられた。この旺文社文庫版の訳者は刈田元司さん。原著の挿絵も添えられた立派な翻訳書で、まだわたしの書棚にある。

 それから40年近くたった今、『ハックルベリー・フィンの冒険』の続きを読むことができるとは、思いもよらないことだった。 Huck Out West (W. W. Norton, 2017)というこの小説は、翻訳が出たらどのようなタイトルになるか分からないが、ここでは『西部のハック』としておきたい。書いたのはもちろんトウェインではなく、現役の小説家ロバート・クーヴァー。ポストモダン文学の大御所として知られる作家で、日本でも『ユニヴァーサル野球協会』『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』など多くが訳されているが、この作品で彼はなんと『ハック・フィン』の続きを書くという大胆な試みをしている。しかも原作と同じようにハックの一人語りでだ。

 まず簡単に原作『ハック・フィン』のおさらいをすると、この物語の背景となる時代は1840年前後で、ハックの年齢は十代前半。南北戦争はまだ始まっておらず、アメリカは奴隷制の有無で南北がくっきりと二分されているけれど、双方の激しい対立は描かれず、総じてまだのどかで牧歌的な時代背景のなか、ハックとジム、そしてトムの〈冒険〉が展開していく。物語の終りでトムは、インディアンがたくさんいる西部の未開の地(テリトリー)に行って冒険しようよ、と言い出す。それに対してハックはこう思うーーそりゃいいけど、俺は誰よりも先にテリトリーに行かなきゃ、だって俺を「文明化」しようってサリーおばさんが躍起になってるもの。そんな原作の結末部を受けるかのように『西部のハック』の物語はつくられている。

 時代が少しくだって、1860年代の南北戦争前後の時期から、アメリカが建国百周年を迎える1876年あたりまでの西部がクーヴァーの小説の舞台となる。ハックは成長し、あごひげを生やし、銃を携行するカウボーイとなっている。そして、無法者たちが跋扈しインディアンと白人たちとの血みどろの抗争がやまない西部の地を流浪する毎日を送っている。いちどは〈ハードアス将軍〉が率いる軍隊に雇われるハックだが、その冷酷無情さに嫌気がさして逃亡する。トウェインの原作では、飲んだくれの父親がふるう暴力がハックの逃亡を後押ししていたわけだが、このクーヴァーの小説においては、この軍人の不気味で非情な暴力が彼をどこまでも追いかけていくことになる。

 偶然にインディアンの集落を発見したハックは慌てて逃げようとするが、運悪く毒蛇に噛まれてしまう。だがインディアンの若者イーテーが彼の命を救う。争いを好まず部族のなかでもアウトサイダーになっているイーテー。彼とハックは意気投合し、二人の間に友情が芽生える。原作でのハックと黒人奴隷ジムとの友情に代わって、この小説では、ハックとインディアン青年との友情物語という趣向が前面に出ている。

 ハックはインディアンたちと一定の関係を保ちながら、デッドウッド・ガルチなる小集落で独り暮らしを始める。しばらくは平穏な日々が続くが、やがてゴールドラッシュで荒くれ者たちが街に押し寄せて、静寂は破られる。縛り首にされそうになるハック。だがそこに、口ひげをはやしたトム・ソーヤーが白馬にまたがり颯爽と現れて救出する。それからのハックは、〈市長〉となって君臨し街に秩序をもたらそうとするトムと、インディアンであるイーテーとのあいだで板挟みになっていく。インディアンを差別し激しく憎むトムは、イーテーが隠れ暮らしている洞窟を爆破し、殺そうとまでする。争いごとのない場所に行きたいーーそんなハックの願望が高まるなか、この小説は終幕に向かって進んでいく。

 実はトウェインは生前に、『ハック・フィン』の続編ものを幾つか書いていて、そのなかには西部を舞台とした「インディアンたちのなかのハック・フィンとトム・ソーヤー」という作品もある。残念ながら、さほど進展しないうちに未完に終わった。それは結局のところトウェインにはーーというよりも19世紀の主流作家にはーー高貴なる野蛮人か残忍きわまりない殺戮者か、どちらかの選択肢をとるしかアメリカ先住民を描くすべがなかったことに起因するのではないか。どちらも紋切型のイメージで、これでは人間としての厚みをもった先住民を物語のなかで自在に動かすことはできない。

 『西部のハック』を書くにあたってクーヴァーは、トウェインが書きあぐねた部分を埋め、この先行作家の文学世界をよく咀嚼しながら独自の物語を紡ごうとしている。クーヴァーは先住民とその習俗を作中でかなり踏み込んで描いている。インディアンたちはさして美化されず、醜悪な一面も見せる。けれども一方、彼らの野蛮さは、西部に乗り込んでインディアンと見れば女だろうと子供だろうと殺しまくる白人たちの粗暴さと比べればまだまし、といった感もある。ともあれハックがインディアンの世界になじんでいくというのは、原作でのハックの自然児としての人物造形を考えれば、さほど無理のない展開と思える。そして、物語の進展と共にハックとトムとの亀裂が深まっていくのも、トウェイン作品のなかでの二人の本質的な違いをうまく生かしている。

文明批判というテーマ

 文明批判という大きなテーマも、クーヴァーはトウェインから巧みに受け継いでいる。原作では西部という地は、文明の影響がまだ及ぶことのない自由の地だった。だが『西部のハック』は、その地にも文明が暴力的な形で入り込み、徹底的に汚染していくさまを描き出す。ここでの「文明」は、秩序という名を借りた暴力と言い換えてもいい。ハードアス将軍も、市長となるトムも、その暴力の体現者であり、その点で一見して接点のない二人は奇妙に似通ってくる。ハックはそんな文明の暴力から身をかわそうとするが、容易なことではない。監視され、逃げ道を断たれた彼の姿が痛々しい。

 『西部のハック』は、『ハック・フィン』から一世紀以上の時を隔てて書かれた本格的な続編として読める。クーヴァーは『トム・ソーヤー』や『ハック・フィン』を入念に読み込んで、そこでの主題や人物や出来事をじょうずに自作で活用している。トウェインの作品に親しんでいればいるほど、ここで言及されているのは原作のあそこのことか、などと思いあたるはずで、その分だけ多くこのクーヴァー作品を楽しめることだろう。たとえば、俺の知ってる女たちにはロマンチックなところなんか何も感じなかったよ、たぶん一人だけを除いてはね、とハックが言う場面がある。『ハック・フィン』を読んでいる人なら、これはペテン師二人組の餌食になってしまうメアリー・ジェーン・ウィルクスのことか、などと想像をめぐらすだろう。そうした旧作へのさり気ない振り返りが『西部のハック』には数多く見つかる。

 だが同時に、この小説は単純な続編ではなく、『ハック・フィン』を下敷きにした一種のパロディでもある。原作の作品世界のねじ曲げ方が相当にグロテスクで、毒があるのだ。トウェインなら描かなかったはずの過剰な暴力や猥雑さが、『西部のハック』にはあふれている。ハックと親しくなり、これから重要な役割を果たすことになるかと思わせた人物が、数ページ後にはインディアンに無数の矢を射られてあっさり死んでしまう。荒くれ者たちに襲われ、命はとりとめるものの、手足がまっすぐに戻らずぎくしゃくした動きをいつもするようになる老人もいる。娼婦まがいのなりわいをしているベッキー・サッチャーが、ハックと一緒にお風呂に入る場面もあるから、原作に対する冒涜だ、と怒る真面目な読み手もいるかもしれないーーわたしは笑ってしまったけれど。続編という体裁をとりながら、違う作家の手になる作品だという感触も強烈に残している。

 その違和感はもちろん、トウェインとクーヴァーというふたりの作家の資質の違いに由来するものなのだが、彼らが生きた19世紀と現代との隔たりに帰せられるところも大きいのではないか。物質的な豊かさが広がる一方で、しばりもきつく、おおらかさを失い、言いしれない不安に苛まれて生きる人が多い時代に、『ハック・フィン』と同じようなタイプの小説を書くことは難しい。『西部のハック』のなかでのハックの身の置きどころのなさは、今という時代を生きるわたしたちのそれにも通じるように思われる。突飛な連想かもしれないが、わたしのなかでは、暴力に満ちた荒涼たる西部の地を愛馬のトンゴと共にさまようハックの姿が、ずっと以前に読んだコーマック・マッカーシー『越境』(1994)の、狼を連れて旅をする主人公の少年と重なってくる。読んだ感触も思いのほかに似ている。荒れ果てた西部の地は、今のアメリカのーーひいては世界のーー行き着く果てに思いをはせるのに、格好の場であるのかもしれない。

クーヴァー流の〈ハック語〉

 こんなふうに作品の基調はダークなものではあるけれど、カネには興味がなく、女には臆病で、暴力をふるうのが嫌いなハックのとぼけた優しさが、この小説をより明るいものにしている。それは彼の語り口についても言える。原作『ハック・フィン』を英語で読むうえで、語り手ハックの使う独特の言葉づかいは、内容を理解する際のハードルであると同時に、作品としての魅力の源泉でもあった。『西部のハック』の場合も同じこと。クーヴァー流の〈ハック語〉と言ってもよい珍妙な表記で書かれた言葉をメモしながら、わたしはこの小説を読み進めていった。いくつか拾い上げてみよう。

hurry-cane (→hurricane ハリケーン)
seegar (→cigar 葉巻)
porkypine (→porcupine ヤマアラシ)
sinteenery (→centenary 百年祭。アメリカ建国百年を記念するこの言葉に、〈罪〉(sin)という語を組み込むところに、自国の歴史に対する書き手の批判意識が読めるかもしれない。)
shandy-leers (→chandeliers シャンデリア。これはすぐには分からなかった。)

 「恐怖の雨」(“rain of terror”)という言葉も出てきて、これも理解するのに少し時間がかかった。正しい表記は“reign of terror”で、つまり「恐怖政治」のこと。そんな言葉遊びのユーモアに満ちたハックの語りが、この物語の読み心地を相当に柔らかいものにしている。トウェインもクーヴァーも評価が高いので、この小説はいつか日本語で読めるようになるだろう。そのとき、こうした奇妙な言葉たちはどんなふうに翻訳されるのか。楽しみにして待ちたい。

今回の執筆者

里内克巳(さとうち・かつみ)
大阪大学言語文化研究科に勤める。著作は『多文化アメリカの萌芽』(彩流社、2017、単著)、マーク・トウェイン『それはどっちだったか』(彩流社、2015、翻訳)、『バラク・オバマの言葉と文学』(彩流社、2011、編著)など。

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