第2回 ゆがんだカラダ、ひびく声――カルメン・マリア・マチャドの小説(日野原慶)

カラダを描く作家

 このたび連載という形で現代のアメリカ文学について紹介する機会を与えていただいた。第一回目にあたるこの文章では、Carmen Maria Machado(カルメン・マリア・マチャド)という作家について書きたい。日本においてはまだ無名の若手作家だ――と、1年前であれば、断言して書き始められたはずだ。2018年の5月、ピュリツァー賞受賞作家ジュノ・ディアスに対するセクハラ・パワハラ告発騒動が起こり、その証言者のひとりであるマチャドの言葉がアメリカの出版業界で注目を浴びることになった。結果、日本でもその名前を目にする機会があったかもしれない。だが、この文章の中心的な関心は、彼女の作品それ自体にある。Her Body and Other Parties、文字通り日本語に置きかえるとしたら『彼女のカラダとほかのパーティ』――新進気鋭の作家のデビュー作品集だ。

 2017年に出版されたHer Bodyを手に取るすこし前、わたしはおなじく“body”という単語をタイトルにつかった別の作品を読んでいた。それは2015年に出版されたAlexandra Kleeman(アレクサンドラ・クリーマン)によるYou Too Can Have a Body Like Mine(『あなただってわたしみたいなカラダになれるよ』)という小説である。うつくしい身体の獲得という理想のために、生命/生活(ライフ)の自発的管理を強いられる社会の戯画としてとらえることができる作品だ。そのつながりで、マチャドの方を読みはじめた。収められた8つの短編のひとつ“Eight Bites”(「8回噛んで」)は、上の問題意識と関連づけて読むよう、みずから訴えかけてくるようなテクストだ。語り手である中年女性は自分自身とたたかっている。だが精神とか意識とか抽象的なレベルでの話ではない。「標準体形」をこえて太った自身の身体、いわばモノとしてのカラダこそが彼女の敵だ。にくき脂肪とオサラバするために、彼女は大きな決断をする。肥満対策の胃切除手術(bariatric surgery)を受けることにしたのだ。「なんでありのままの自分に満足できないのよ」――彼女の娘はそう強く言い、手術に反対する。だが母親である語り手の気持ちは揺るがない。彼女がのぞむのは、ありのままであることより、「標準」の身体であることだから。

 でもちょっと待てよ、その「標準」って、誰がどういう基準で設定しているの? テクストの外部から、そう問いかける読者はいるだろう。理想的な身体の基準なるものが、自分ではない誰かから与えられ、到達できなければ落第! そしてそれは自己責任! などとあしらわれ、絶えず結果にコミットしなきゃいけない気にさせられる社会のありかたを問題視している作品に違いない! そう気づいたとしたら、この作品への責任ある応答者になれる。だが、読者をひきつけるこの作品の魅力は、その先にもある。語り手が胃切除手術をうけた後、物語は奇妙にねじれる。現実的なプロットが、非現実的な出来事に干渉される。彼女は、家のなかに得体のしれないなにものかの気配を感じるのだ。ネズミ? ゴキブリ? あるいは幽霊? まさかそんな平凡なものではない。その正体は、次のように明かされる。

わたしはそいつのすぐそばにひざをつく。カラダだ、あるべきものがなくなった状態の。お腹も、骨も、口もない。ただなだらかなへこみだけ。かがみこんでそいつの肩をはたいてみる、というか、そいつの肩だと思われるところを。(165ページ)

 家に潜んでいたのはカラダだ。機能の一切がはぎとられた肉のかたまり。それを語り手は「彼女」とよぶようになる。「彼女」は語り手にすがたを見せはしない。だが「彼女」の存在を語り手はそれとなく感じる。とても奇妙な同居生活がつづく。物語の終わり、死の床にある語り手のかたわらには「彼女」がいる。最初で最後の対面において、語り手は次のように気づく。

わたしが愛してなんかないときに、わたしのことを愛し、わたしに捨てられることになって、彼女はくちはてることがなくなった。わたしをおいこして、彼女は1億年だって生きながらえる。そのもっと先までだって。(167ページ)

 妙に感傷的なラストシーンだ。「うつくしいカラダ」の理想をおびやかす、おぞましきモノとしての肉に、語り手のとだえゆく意識は向かう。まるで愛し損ねた娘を思うように。

 上に引用した箇所以外にも、時間をかけてじっくりと意味を考えたくなるような文章に溢れた作品だ。ただ凄いものを読んだという感覚を得るだけでなく、作品をつらぬく一貫した思想を見つけだすという試みにも、このテクストはたくさんのヒントを与えてくれる。そして、同じことはHer Bodyに収められた他の作品にも当てはまる。作品集全体をつらぬいて取り組まれていることがあるとすれば、それは何だろうか。ひとつの答えとして、上でも言及した「うつくしい」「健全な」「欠損のない」身体のイメージの真逆を書くことだと言いたい。妻の頭部は、首にまかれたリボンを夫によってほどかれたとたん、床に転がり落ちる(“The Husband Stitch”「夫(オット)ステッチ」)。赤ん坊は、身体に性の区別がなく、泣き声もあげない(“Mothers”「ハハとハハ」)。若い女たちの身体は、うっすらと透け、やがて消えていく(“Real Women Have Bodies”「ホントの女にはカラダがある」)。上で紹介した“Eight Bites”と同様に、これらの作品において描かれる身体は、なによりも「欠損」や「欠如」、「喪失」を特徴とする。おぞましくもあるこれらの身体は、ドイツの人形作家ハンス・ベルメール(1904-1975)が残した、不気味な作品群を想起させる。切断された手や足や腹が無秩序につなぎ合わされたあの歪んだ人形たちには、アーリア民族というイデオロギーのもと、特定の身体を正当なものとみなし、その他の身体を排除の対象としたナチスドイツへの抵抗の意志がこめられていた(Lichtenstein 158-160)。現代を舞台に、不気味な身体を執拗に描きだすマチャドは、それらにどのような意図を込めているのだろうか。それはHer Bodyを読み説く上での、重要な問いのひとつになるだろう。

なにとたたかうか

 奇異とも言える作品集を世に問うた彼女のデビューは、結果として華々しいものとなった。Her Bodyは権威ある全米図書賞のフィクション部門で最終候補作品のひとつに残った。ちなみに同部門においては毎年5作品が最終候補として選ばれる。その年は4作品が女性作家によるものであり、そのなかからJesmyn Ward(ジェスミン・ウォード)の長編小説Sing, Unburied, Singが受賞するという結果になった。振り返れば、数の上では同じ状況であった2015年には、唯一の男性作家Adam Johnson(アダム・ジョンソン)の作品集Fortune Smilesが受賞した。「2017年は女性作家が評価された年だったのだ」と続けようとして、指が止まる。ある基準にしたがって囲われたごくせまい範囲での5分の4や5分の1は、「女性作家」をめぐる状況についてはたして何を教えてくれるのだろうか。そして「女性作家」という言葉。そもそも「男性」と「女性」をスッパリ切り分けるような慣習はやはり問題だ、という話をすこしまえまでは教室で学生相手にしていたところだった。そんなわたし自身が安易に「女性作家」というカテゴリーに頼ろうとするとき、自分自身が暴力的な切り分けをおこなっているのでは……と考え、つぐべき言葉をなくす。実のところ、カルメン・マリア・マチャドの書いたものに向き合うことは、こういうたぐいの内省へと自分自身の思考がぐいぐいと突き動かされていくような経験をも与えてくれる。

 Her Body出版以前より新聞や雑誌に彼女が寄稿してきた多くのエッセイや書評は、本人のホームページで読むことができる(https://carmenmariamachado.com/)。それらは、この作家がなにとたたかっているのかをわたしたちに教えてくれる。「ニューヨークタイムズ」に掲載された“If It’s a Man’s World, Let’s Escape It . . . or Subvert It”(「もしもこれが男の世界だっていうなら、そこから逃げちゃおう、じゃなきゃひっくり返しちゃおう」)と題された書評を見てみよう。「男性であること(maleness)」「白人であること(whiteness)」「異性を愛すること(straightness)」「ほっそりしていること(thinness)」「心身の性別が同じであること(cisgenderness)」=(イコール)標準であるとするような考え方の呪縛から自由になって、文学作品が誰のために書かれるべきであるか深く考えること――それが作家という存在の使命だろ! と、マチャドは主張する。同時に、それらの「標準」の圏外にいる作家が、上の使命を果たそうとたたかいつつ、商業的な側面でサバイブしていくことが、どれほど困難な企てであるかについても彼女は思いを巡らせる。たとえば男性の期待する「女性作家」像にみずからを重ね合わせて書けば、作品が少しでも多く売れるかもしれない。でもそんなのは「内面化された女性蔑視(internalized misogyny)」のあらわれじゃないか、とマチャドは言う。きっぱりと。エッセイの中のマチャドの言葉は、力づよく、明晰だ。

ひびく声

 反対に、彼女の小説には、明晰な言葉になりきらない声がひびく。“Especially Heinous”(「特に凶悪」) は、1999年から現在までつづくテレビドラマシリーズのLaw and Order: SVU(『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』)シーズン12までの各エピソードタイトルを手掛かりに、マチャドが自由に内容を連想し、そのあらすじを記すという特異な形式の作品だ。こちらのヴァージョンでは、テレビドラマシリーズと同名の主人公ベンソンの家に、被害者の少女の亡霊がやってくる。少女の眼窩からは、目玉のかわりに真鍮のベルがたれさがっている。少女はそのベルを鳴らす。

「罪」:今となっては、ベンソンはかなり正確にベルを訳すことができる。ベルが鳴り、意味を理解するまで、少しの遅れもない。頭を枕の下にうずめ、なんとか呼吸ができるようになるまで待つ。私たちに声をちょうだい、声をちょうだい、声をちょうだい、彼に伝えてよ、伝えてよ、伝えてよ、私たちを見つけて、見つけて、見つけて、お願いだから、お願い、お願い。(78ページ)

 ベンソンの耳にしか届かないこの声を、わたしたちは聞く。同じような声に、読者は作品集のあちこちで出会うことになる。それらは物語のなかにありながら、物語の文脈に首尾よく回収されはしない。読者を不安にしかねないそれらの声にどう応答するか。それを考えるのもまた、マチャドの作品を読む上での楽しみである。同時に、それは、読者に与えられた役割であるようにも思われる。

※この記事で紹介した作品の日本語タイトルは、それぞれの作品の内容をふまえ、わたしがつけたものです。今後、もしもそれらの作品が日本語に訳されたとしたらどのようなタイトルになるか、それを楽しみにしています。

引用文献

Lichtenstein, Therese. Behind Closed Doors: The Art of Hans Bellmer. University of California Press, 2001.
Machado, Carmen Maria. Her Body and Other Parties. Graywolf Press, 2017.
---. “If It’s a Man’s World, Let’s Escape It . . . or Subvert It” NYTimes.com, The New York Times, 20 Mar. 2018. Accessed 19 Feb. 2019.

今回の執筆者

日野原慶(ひのはら・けい)
大東文化大学にてアメリカ文学を研究。特に現代のアメリカ小説を対象にエコクリティシズムと呼ばれる環境に焦点を当てた文学批評をおこなっている。ごく最近のアメリカ小説などにも関心をひろげ研究対象としている。

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