かんもくの声

「話したくても話せない」場面緘黙(ばめんかんもく)経験者 / 著書『かんもくの声』(学…

かんもくの声

「話したくても話せない」場面緘黙(ばめんかんもく)経験者 / 著書『かんもくの声』(学苑社) https://www.facebook.com/kanmokunokoe

最近の記事

脱・社会にメンヘラしてた私

しばらく発信や活動をしない日々が続きました。理由としては、この数年での心境の変化があります。うまく伝えられないかもしれませんが、「今ここに記す」ことを試みます。気になる方は読んでみてください。 コロナ禍とSNS 「かんもくの声」として発信・活動を始めたのは2014年頃ですが、SNS疲れは常にありました。 思うままにつぶやくこと、もっともらしい発信をすること、日常の何気ない投稿、リプライすること。どれも苦手でした。 性に合わないことを続ける疲弊の向こう側に、「命綱として

    • 子ども・若者総合相談センターとの取り組み

      昨年末からの新たな取り組みについて、ご報告です。 2020年9月より、「かんもくの声」は「名古屋市子ども・若者総合相談センター」(以下、相談センター)にて場面緘黙支援のサポートをさせていただいております。 場面緘黙経験者として、主に元当事者の立場から、相談センタースタッフの皆さまと関わってまいりました。 具体的取り組みとしましては、相談員(相談センターに相談に来られた子ども・若者と実際に関わっている)の皆さまとともに、個別のケースワークを軸にした場面緘黙勉強

      • 場面緘黙にとっての新年度

        クラス替え後の新学期は、まるでエスカレーターで処刑場に運ばれる感じだった。大げさでなく、生きるか死ぬかの別れ目なのだ。担任の先生はどんな人か?クラスメイトは?そのなかに話せる子がいるだろうか?安心できるメンバーは?場面緘黙だと、まわりの環境、人・場所・活動の要素などで話せる度合い・自分を出せる度合いは大きく変動する。話せて安心できる一年になるか、話せなくて緊張の続く苦しい一年になるか、その中間か。 大きな環境の変化は「症状改善のための稀なるチャンス」にも、「症状が悪化するき

        • 肉まんバレンタインのゆくえ

          2月ですね。 かんもくの声からは、本年以降、「肉まんバレンタイン」の呼びかけは控えようと思います。 理由のひとつとして、年々拡散や呼びかけの負担がしんどくなっていたことがあります(何とか5年続けました)。「大きな声でたくさんの人に呼びかける」ことは、私の緘黙の部分と真っ向ぶつかる行為でもありました。 また、場面緘黙界隈の啓発の現状は、「肉まんバレンタイン」を始めた5年前とはずいぶん変わりました。先人たちの努力や新たな活動によって、社会的な認知度も以前より上がっています。近

        脱・社会にメンヘラしてた私

          埼玉言友会・場面緘黙勉強会に参加して

          2020年10月24日(日)埼玉言友会 第5回 新・吃音勉強会「場面緘黙について学ぶ」 先日オンラインにて参加させていただいた会。考えさせられることが多すぎてまだ追いつかないですが、やっと感じたことなどまとまってきました。 場面緘黙の人たちや吃音の人たちとも、是非一緒に考えてみたい話題ばかりでしたので、感想ページのリンクをご紹介します▼ 以下、所感です。 >「吃音」は「どもって話してもいいんだよ」というメッセージがしっくりきますが、場面緘黙について「話せなくてもいいんだ

          埼玉言友会・場面緘黙勉強会に参加して

          話せるようになりたい⇄話せなくてもいい/かんもくフォーラム

          活動を始めた頃の私は、「話せないなら話さなくていいのではないか」(当事者だけが無理に変わる必要はないのではないか、社会の変化や環境調整の方が大事なのではないか)と発信していました。場面緘黙の専門的支援や治療を受けていないため、それを受ける自分を想像することも全くできなかったですし、治そうとして治したわけではない私には「治そうとする」こと自体しっくりきていませんでした。 ですが、場面緘黙について学ぶうち「話せないなら話さなくていい」とは言えなくなっていきました。「話せなくて困

          話せるようになりたい⇄話せなくてもいい/かんもくフォーラム

          場面緘黙と園・学校・先生の話

          園や学校で、子どもが先生から、場面緘黙が悪化しかねない声かけや対応を受けたと見聞きする件は多い。先生たちも厳しい労働環境や激務で新しい知識や対応策を学ぶ時間や心の余裕がないという一因もあるのかも。 例えば、話すことを強制する、クラスメイト全員から注目されている状態で話させようとする、話せないことを注意・叱責する、話せるまで廊下に立たせるなど罰を与える、黙っていることをからかう、話せないと〜だよ(自分が損をするよ、困るよ、生きていけないよなどと諭す)などの対応は、確実に場面緘

          場面緘黙と園・学校・先生の話

          「成長」のニュアンス

          拙著『かんもくの声』には成長という言葉が頻出するとのご指摘をいただいた。確かに。 成長と聞くと、キリのない上昇志向や変化を強いられる印象があるけれど(たぶん、だからあまりこの言葉を使わない人たちもいる)、『かんもくの声』が言うところの成長はちょっとニュアンスがちがう。今回はそのニュアンスを何とか説明してみる。 人には、人と関わりながら生きるつみかさねのなか、自分でも気付かぬほど自然と磨かれていく部分がある。会話やコミュニケーションや友だちをつくる方法、集団でのふるまいとい

          「成長」のニュアンス

          学校をタイムマシンにしない

          今の公立の学校に対して、昭和に行けるタイムマシンだなんて思うことがある。あるいは、20〜30年前の価値観をリアルに生きられるテーマパーク。 実社会を学ぶこと、集団を知ること、多くの人・さまざまな人と出会い関わることにももちろん意義はあるだろうけれど、子どもの居場所やフリースクール、不登校児を受け入れる図書館・児童館なども増え、ホームスクーリングをする人たちもいる。(保護者の負担は大きく、経済的余裕や家庭環境に左右される部分もあるが、)選択肢が増えてきた今、無理をしてまで学校に

          学校をタイムマシンにしない

          障害グレーゾーンの一般就労が搾取に近づくとき

          ときに障害グレーゾーンの人の一般就労に「やりがい搾取」に似た構造を感じることがある。 雇われる側の個人的課題である「就労していない状態から脱したい」「障害や社会不適応を克服したい」「取り柄がないゆえ人の何倍も働かないと人並みに役に立てない(=自己評価の低さ)」。そういった動機や負い目から必死に働き過ぎてしまい、雇用主はそれを労働者の自主性と受け止める。このとき、結果的には搾取が起きているのではないだろうか。 元場面緘黙者や発達障害などのクローズ就労においても、こういったこ

          障害グレーゾーンの一般就労が搾取に近づくとき

          書籍『かんもくの声』への反響とあらためて思うこと

          2月に出版いたしました書籍『かんもくの声』へ、さまざまなリアクションをいただいています。ありがとうございます。 各種SNS、ブログ、Amazonレビュー、読書メーター、Web記事などで、ご意見ご感想を書いてくださったり、メッセージやお手紙くださったりと、うれしく見させていただいています。こちらですべてはご紹介できませんが、とても励みになっています。「共感した」「心の叫びが突き刺さった」「場面緘黙についてとても細かく書かれている」「付箋だらけになった」「自分の場面緘黙について

          書籍『かんもくの声』への反響とあらためて思うこと

          障害の記載「自治会が強要」

          かなしいニュース。 どうしたらこのようなことが起こらなかったのか。推測も含め考えさせられる。以下、何が足らなかったのだろうかと思い浮かんだ点を挙げる。 ・障害を持つ人への必要な配慮は特別扱いや優遇、不公平、ずるい、わがままなのではなく、配慮をしてはじめて平等になるという合理的配慮の考え方 ・本文にあるように、病気や障害について他者に伝聞するのはプライバシーや人格権の侵害、それをしないための人権を守る意識 ・第三者による本人の望まないかたちでのアウティング→これまでも「

          障害の記載「自治会が強要」

          場面緘黙と分人主義

          場面緘黙の分人性場面緘黙(ばめんかんもく)とは、話したくても話せない不安症状のこと。家では問題なく話せるが、園・学校や職場などに行くと話せなくなってしまう場合が多い。 場面緘黙の症状として、相手や環境によって話せる度合いはかなり変わってくる。この場合の話せる度合いとは、自分を出せる度合いと言い換えてもいい。 例えば、家族とは問題なく話せるし表情豊かに会話できるが、先生とはうなずきでしかコミュニケーションが取れず無表情。近所の幼なじみとは笑い合えるが、教室でクラスメイトたち

          場面緘黙と分人主義

          障害者の人生が美談として取り上げられるときーメディア批判で終わらないために

          私は過去、うっかり感動ポルノを容認しそうになっていた。テレビでの取材を受けたとき、広く分かりやすく世間に場面緘黙の存在を認知してくれるならば(私の取り上げられ方においては感動ポルノとも言い切れないし)、まあいいかと。また啓発における責任として、ネガティブな要素を排除する思考が無意識にはたらいて、自ら「希望のある語り」を意識してもいて、そんな「分かりやすい語り」に違和感を感じつづけてもいた。知らない障害を知ってもらうには、分かりやすい物語が求められる。だが大袈裟かもしれないが「

          障害者の人生が美談として取り上げられるときーメディア批判で終わらないために

          場面緘黙とアイドル

          アイドルには詳しくないのだけれど、先日公開されたミスiD2021 エントリーに3名(4名?)もの方の「場面緘黙」の記述があり、おお!っとなった。ほかにも、以前から場面緘黙なのではと噂されるアイドルもいたりして、Twitterで見て気にかけていた。 というのも、私はアイドルという存在と場面緘黙は親和性があるはずと考えていたからだ。 一般的には、アイドルのように人前に出る仕事をしているにも関わらず、場面緘黙というのはありえないと思われるだろう。場面緘黙=人前でうまく話せないの

          場面緘黙とアイドル

          不安の温度(ポエミーなつれづれ)

          生きるうえで、大小何かしらの不安は常にある。いつも、たたかいせめぎあっている。その状態こそが生きることであって、正誤があるわけではない。不安を感じることは悪いことではない。 私が経験から知っていること。 不安はやっつけたり、取り除いたりはできない。だから無視せず見つめてあげたほうが、たぶんいい。 でも、不安から生じる不穏や不快を感じながら、なんとか歩かなければならないことは、しんどい。不安を抱え続けることも不安だし、私の不安を完全に共有できる人もいない。 同時に、不安は

          不安の温度(ポエミーなつれづれ)