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緘黙当事者とメディア・発信・活動について考えたこと

Twitterで、吃音・場面緘黙当事者が出演されたテレビ番組について話題になっていました。私も以前から考えているテーマです。こういったことが議論にのぼるのはすごく良いことと思いますので、覚え書きと、触発されて新たに思い浮かんだことを書いておきます。私自身は場面緘黙(元)当事者として活動しています。テレビの取材は少しだけ受けたことがあります。

●緘黙当事者としての発信について
私自身は、メディアに取り上げられるだけでなく当事者自身がメディアになるのがよいと思っている。かんもくフォーラムなどのイベント開催にもそのような意義を見出しているし、それは広範囲に向けた啓発でもある。福祉関係の広報誌にも自分の緘黙の経験をクローズアップして書いたりもした。ただ、自分を「場面緘黙の当事者」として発信していくことには、「場面緘黙を取り上げるテレビ番組」と同様の矛盾を感じていて、自身の緘黙ではない部分、緘黙以外の属性、病みや闇ではない部分はやっぱり削がれてしまう。場面緘黙改善以降、成人して話せるようになっても会話や人付き合いの経験値が欠如していて辛いこと。二次症状や後遺症にかなり苦しんだこと。そのような話は盛り込みにくく、苦しんだ部分やネガティブな部分(あるいはとても明るい部分)を大幅に省いた分かりやすいストーリーになってしまうことが多い。世に障害を持つ人の「美談」が溢れることへの違和感。消費される感覚に虚しさをおぼえることもある(消費される感覚に憤る以前に私は一体どれだけのものを消費してきたのだろう?)。でも、場面緘黙について伝えたいのだから、様々な属性や症状の話が出てきたら実際何の話か分からなくなってしまうし、媒体の性質上、仕方がない。そこは、場面緘黙の啓発と割り切ってはいる。のだけれど、私という総体から発せられるメッセージなのに、私という総体の一部だけを語ることには深い矛盾を感じてきた。緘黙のみを通して語る/語られる私は私ではないし、私の中の緘黙の部分だけを語ることでは緘黙のことも私のことも十分に伝わらないのではないか。私は当事者としてメディアに出ることでその属性に縛られているのかもしれない。だから、誰も読まなくても、いつか私のライフストーリーを書きたい。皆は場面緘黙に興味があるのであって、私個人に興味はないだろうが、それを読んだ人が緘黙のことを少しだけ深く知ることができるかもしれない。もちろん、自分が場面緘黙のラベルのもとで発信してきた中で削ぎ落としてきたものを、誰かに伝えたい気持ちも大きい。メディアに露出しようがしまいが、自/他から見られるセルフイメージのズレは私の内面の問題としてもともとある。自分が納得できればそれでいい。発信の質や方法は、表現の力にかかっているから、その力をつけたい。場面緘黙を知ってもらうための啓発活動であれば、私のパーソナリティは関係ない。でも基本的には私は私の場面緘黙を含めた経験をなるべくそのまま語ることしかできないし(語れる範囲で)、緘黙と私の人生は切り離せない。そして、私が語ったことがもしもどこかで誰かの役に立ったならばそれでいいと思う。

●緘黙当事者とメディア
場面緘黙の当事者は社交不安や社会不安の強い方が多いと思います。私も、テレビやイベントに露出することは大変不安が大きいです。こういった発信も平気ではありません。コンテンツとして一瞬で消費されることに虚しくなる反面、一瞬で消費されるものだから、と思うから出られるという矛盾もあります。どうせ私のことなど関心ないだろうと思えるから出られます。明確に、場面緘黙のことは関心を持ってほしいし伝えたいのですが、私個人のことが絡んでくると消極的にもなります。顔を出して活動することも、社会的信頼を得るひとつの方法ですが、リスクもあります。こわいですが、私は私の言動に責任を持つことに重きをおきたいので、必要な時は顔を出しています。そのくらいしないと場面緘黙の認知度はなかなか上がらないという気持ちもあります。でも、多くの当事者はそのようなことに強い抵抗を持つと思いますし、それが自然だと思います。私は元当事者のおばさんなのでとくに失うものもありませんし、活動には家族の理解もあります。活動をしているので場面緘黙であったことを誰にも隠してはいません。でも、学校や職場、家族に知られたくないという方は多いでしょう。私も、苦しかった時はどんなに相談したくても誰にも言えませんでしたし、親にも、学校で話せないことを知られたくない、心配かけたくない、理解してもらえないのではないかと話したことはありませんでしたが、つい昨年、私の家族にも取材したいとのことで初めて両親と幼なじみに自分から場面緘黙であったことを話しました。私の現在の気の持ちようとしては、私の周りのすべての人に、私が場面緘黙であったことを伝えておいた方が生きやすくなるんじゃないかというものです。もちろん自分からすべての知人友人に話しているわけではありませんが、隠してはいないのです。関心を持って聞かれたらどんどん話したいと思っています。

当事者がテレビなどで場面緘黙として紹介されるときには、真正面から症状を映されます。見ている方がつらいという方もいます。ますます周りから話せないと思われ、緘黙状態が固定されてしまうのではないかという心配もあります。また、あえて緘黙の症状が強くなる環境での撮影は充分に自己犠牲的なのではないかとも考えてしまいました。それでも、社会的経験のひとつとして自ら吸収されて、自信をつける機会にもなっているし、楽しんだり、場面緘黙を知ってもらうため人の役に立てていたりするという気持ちも持てるのは、大変よいことなのだろうと思いました。私は活動がしんどいとばかり言っていますが、しんどいけれど楽しくて、尊い経験やつながりを得られています。関わる人たちの中で、多くのことを学ばせてもらい、成長させてもらっている感謝と喜びもあります。緘黙の活動ですから、そのフィールド内では理解のある人がほとんどです。緘黙業界内はとても支援的でやさしいです。また、緘黙業界外部からの取材を受けることでは、新たな自身の理解につながることもあるし、外部とのやり取りの中でコミュニケーションや社会経験の訓練を積むこともできています。日常での3、4人での雑談よりも、インタビューを受けたり人前で話す方が気が楽なこともあります。求められている役割や目的が明確であり、見通しが立つ・前もって話す内容を考えておくことができるからです。そういう意味では、団体やグループとして、とか、メディアやイベント(講演やインタビューなど)として、作品(音楽や演劇やダンスなど)としてならば発言しやすい緘黙当事者もいると思います。人目に晒される苦痛はありますが、ある意味、間接的なコミュニケーションの形として、緘黙の人が話しやすい環境のひとつなのかもしれません。簡単ではありませんが、当事者自身が活躍できるそのような場を、自らつくってしまうのもよいと思います。結果的に場をつくる段階で個々の直接的なコミュニケーションが必要とされ、その力をつけていくこともできて、自分たちの自信につながるのではないかと思います。

●メディアとの付き合い方
製作側は番組製作のプロではあっても、当事者としてのプロフェッショナルではありません。もちろん、たくさんの情報を調べたくさんの知識をインプットされていますけれど、立場は違います。プロ当事者という表現は矛盾していて好きではないですが、すばらしい当事者活動をしている人はいます。そのような人たちを見ても、当事者が最も当事者のことを理解できるのは確かです。私自身は、メディアで「緘黙当事者」として語ることでは今まで伝えられなかったことを、今後の活動のなかで、それが可能な場所や方法で伝えていくことは必須だと思っています(例えば、成人後も長期間社会に全く出られなくなってしまうなど、場面緘黙にはとても深刻な一面があることなど)。多数に向けた媒体は表向きで前向きなメッセージの発信の場になってしまいがちですが、そのぶん場面緘黙を全く知らなかった人に知ってもらうこともできます。反面、ものすごくネガティブで苦しかった経験も伝えたいですし、自分のなかでは苦しかったことも書かなければ納得はできません。それは読みたい人だけ読めばいいと思います。結果として、もしかしたら、救われる人がいるかもしれない。発信の方法によって発信の内容を変え、バランスを取りたいと考えます。 マスメディア、とくにテレビでは制約が大きく伝えられることは限定されます。そこで伝えられないことを、当事者が自らの言葉で語っていくことは本当に重要だと思います。放送で瞬間風速的に認知度が上がっても、そこから先を知ってもらうときには当事者の声が必要です。自分が場面緘黙であると初めて気付いた当事者や経験者は、まず本能的に自身のケースと最も近い経験談を読みたいと考えるでしょう。保護者や支援者の方も、現在関わっている当事者に近い経験談を探すかもしれません。生きてきた物語同士の呼応による共感、癒しや救い。自身が語ることでの自己治癒の側面。どんなことでどんな風に困り、どんな気持ちになっているのか。また、どんな風に助けてもらえたらうれしいのか。緘黙が続くと、どんな考えと行動になりがちなのか。二次症状や後遺症にはどんなものがあるか。どんな苦しみか。どんな感覚か。当事者は声が発せられない場合も多い中、保護者や支援者、研究者、そのほかの関心者にも、緘黙について一歩踏み込んで知りたい方にとって、大変有益なはずです。緘黙に関する情報の質にも大きく関わります。メディアとしての大きな声+ひとりひとりの生の声の集まり、発信や啓発において、相互補完的に考える必要がありそうです。

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