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1ヶ月経った。

BUCK-TICKのボーカリスト、櫻井敦司さんが亡くなった。10月19日のことだ。
突然だった。
最期まで、生と死と愛を歌い続けた人だったと思う。

びっくりはしたけれど、「まあ、人は亡くなるものだから」と受け止めていた。私を含めBUCK-TICKファンはその歌詞に親しんでいて死に耐性があるから大丈夫だ、と思っていた。

「BRAN-NEW LOVER」という曲がある。1999年、そう、ノストラダムスの予言の年。「世界がなくなるとしたってそんなに怖くないよね」と歌っている、と私は解釈した歌。PVはその解釈とまるで関係ない感じでなかなかサイケデリックなのでまあ一度見てほしい気はする。

「人間にはさようならいつか来るじゃない この宇宙でもう一度会える日まで」

それを口ずさみながら何日か過ごしていた。
そして、早いもので昨日で一か月。

案外大丈夫じゃなかったかも知れない。ので今、これを書いている。

私が20年前から唯一追いかけているアーティストがBUCK-TICKだった。
BUCK-TICKはこれからもBUCK-TICKだし、今井さん星野さんヤガミさんユータさんも好きだしずっと頑張ってほしいけれど、櫻井さんが詞を描き、歌い、演じ、舞う、そんなBUCK-TICKでは、なくなる。恐らくもう二度と。

これから私は何を聴いて、何を観て、生きて行くんだろう、と思った。「依存先はひとつでない方がいい」というのは本当だなと思った。
そんな事を夫に話したら「藤岡藤巻を聴け」と言われたので却下した。「じゃあザ・リーサルウェポンズ」と言われたのでやや却下した。(※ちょっと好き)

私は趣味で漫画を描いている。今メインで描いているのは「絶界の魔王城《ザタナシュロス》」という漫画。タイトルも、これから出て来る予定の場面やセリフのいくつかも、BUCK-TICKリスペクトだ。(何なら「絶界」は櫻井さんが倒れる直前に歌っていた曲だ)
その漫画が今、手をつけられずにいる。困っている。ので心情を整理すべくこのNOTEを書いている。

とにかくペン入れができない。
ペン入れをする時のBGMは大体、BUCK-TICKかゲームミュージックだった。
BUCK-TICKを聴くのが難しいと感じたので、ゲームミュージックをかけた。けれど手は進まなかった。BUCK-TICKではないものを聴いている、という意識が手を止めてしまった。

櫻井ロス、と言うやつかも知れない。それは確かにそう。

祖父の死には祖母を残した怒りが湧いたし(今は反省している)、その後認知症になった祖母の死には悲しくて悲しくてぼろぼろ涙が出た。それでも、過去亡くなった人たちに関しては、漠然と「過去の人になってしまった」という気持ちがあった。

けれど今、これからも確実に私の人生に影響してくるはずの人が、私の中でプラスに働くばかりのはずの大きなひとつの柱が、なくなってしまった。私にとっては初めてのことだ。

幾分、途方に暮れているのだと思う。

ペン入れの手が止まってしまったので、先月は描かないつもりだったけれど、何となく、櫻井さんを描いた。模写はしないつもりだったけれど、わりと似なかったのでちょっと見ながら描いた。
ライブでふうわり踊る彼の姿を自然に思い出せた。両手で顔を覆う仕草…は画力が追い付かなかったので自分の手を見ながら描いた。

涙はあまり出ていない。これまでへの感謝の方が強い、気がする。
ひょっとすると、むしろそれがメンタルにはよくないのかも知れない。グリーフワークというやつができていないのかも知れない。

亡くなったのを知った日、帰り道に口ずさんだのは、櫻井ソロの「胎児」という曲。

「愛している 今夜僕は飛び立つんだ 愛している 雨や風に負けないんだ」

今になって、この歌は少しだけ私に当てはめてもいいのかもと思う。雨や風には正直負けるけど、「愛している」を胸に、飛び立ってもいいのだろうと思う。
でも多分その前にしっかり泣いた方がいい。まだ泣けないけど、まあ、泣けるようになった時にはしっかり泣いた方がいい。

心根の優しい人だから、私たちが悲しむのは望まないかも知れない。
愛されたいと歌う人だから、悲しまれるのもそれはそれで嬉しいのかも知れない。
というか、少なくとも感情と音楽に関してはどんなあり方であっても許容しうる、清濁併せ呑むのがBUCK-TICKであり櫻井敦司である、と私は思っている。

とりあえず、向こうでは猫アレルギーが解消されて、猫と幸せに戯れていてくれたらいいな、と思う。
こっちはこっちで何とかやって行きます。

「お体だけは気を付けて」

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