「結婚」第2話

 横断歩道

 朝陽に救われる寝室。カーテンを開けると窓ガラス越しにバイクや自動車の走行音が聞こえる。階段の踊り場を通る度にどこかでパンが焼けた匂いと、はしゃぐ子供の声が聞こえる。シャボン玉がはじける瞬間の音を引き伸ばしたような明るい街のノイズ。
 おいしいコーンフレーク。私が注いだ牛乳とコーンフレークのバランスをきっと今、ひゅーいがダイニングテーブルに座って味わっている。私がいない間くらい、美味しいの一言でも呟きながら食べてね。私がゴミ捨てから戻ってベランダで洗濯物を干し終えたら、ダイニングチェアに座るあなたを見て、朝陽に照らされた笑顔を見たいけど、私が戻ると抜け殻のパジャマだけ残して仕事に行くんでしょう。あぁ、朝陽って何のためにあるんだろうか、という問いの重さを知らずに太陽は輝いている。昨夜、ベッドの暗闇に落ちていった私の内面はこの朝でまた生まれ変わった。
 階段で一階まで下り、ゴミ捨てから帰ってきた私は手を洗うと、リビングからベランダに出て「ふわぁ」と伸びをしてみた。すると、私の声に驚いてテーブルの上にあるスプーンが、叫び声をあげて落ちるような音がした。
「どうして私の安らぎの邪魔をするの」と、スプーンにさえ言えない、心の中だけがうるさい私の台詞が巡った。スプーンは落下しておらず、代わりに朝陽に照らされ損ねたダイニングチェアに、ひゅーいが座っていた。
「……え」
「今日はゴミの日じゃないよ」
「えっ」
「今日は土曜日」
「うわっ、ごめん。出してきちゃった」
「ベランダで、面白い声出してたね」
「あぁ、聞こえていたの……」
どじの新妻と幸の薄い旦那との朝。これはこれでいいじゃないか。ちょっとうれしくなった私はちょうどいいところにいてくれた彼のことをもっと見たくなる。
「どうしたの」
 半笑いだ。ひゅーいが半分笑いながらものを言っている。
「今日どう過ごそうかなって、ひゅーいさんの目を見れば分かる気がする。とりあえず、トイレいってくるね」
――あれ、一人になるとなんで足が震えるの。いないと思って清々しい気分だったのにひゅーいがいる。どうしたらいい。
「お待たせ、正直今日の計画とか全然考えてなかった」
「金曜だと思ってたんだもんな」
私はひゅーいの真向いに座って手を伸ばし、彼の頬に両手を当てた。ぐにゅぐにゅと動かして「へんな顔」と言って笑おうかと思ったけれど、やらなかった。私がここで提案しないと。
――黙っちゃだめだ。ひゅーいさんは立ち上がって近づいて来る。何するの? ちょっと、止まって欲しい。
「あっ!ぺス…ボ…トマト味で、辛くて斜めになってるやつってなんだっけ」
「アラビアータ?」
「そう!」
「それが?」
「今の気持ちを、言葉にするとアラビアータってかんじ」
「食べたい訳じゃなくて、響きがアラビアータ?」
「そう。そういう響きの気持ち。で、あのね」
「何?」
「ひゅーいさんのにおいって私、嫌いじゃないのよ。でも、休みの日は、外に出て違う空気が吸いたい」
「そうか」
「一緒に出かけよう」
「うん」
 と言うと彼はクローゼットのある寝室へ行った。ハンガーから服を取る音やシャツに腕を通す音はいつもと同じなのに、私には彼が自分の服を引き裂いて、ドアを蹴り飛ばして出て行ってしまいそうな気がした。私は彼とどうしたらいいか分からないだけで、しかしそれこそが原因で、本音を言う度に彼を傷つけている。
自分の太陽になる存在はひゅーいさんであると思っていたのに、さっきはベランダに降り注ぐ朝陽に癒されていた。今日も本当は一人になりたいけれど、それでは彼を傷つけてしまう。だから私は、何を考えているのか分からない彼と、それが見えてくるまで一緒にいるべきなのか。
 私は無地のワンピースの上に、デニムの黄色いジャケットを羽織り、ベランダの窓を閉めているひゅーいの腕に抱き着いた。
「っんぶ」と、言葉になっていない声をひゅーいは出したが、私も彼の反応にどう反応していいか分からない。平日なら時間や習慣が解決するが、今からはそれがない休日の外へ行く。それでも、この腕を掴むことは許されているのだから、と思うとそこから元気になるかどうかの選択肢を与えられている気がした。元気になることが可能だとしても、それは私が彼の体から色も形もないものを吸い取っているようでもある。
 部屋を出てドアの鍵を閉めると、二人で密集していた玄関から外の通路に出たことで開放的な心地がした。「よし」と私が言うと、ひゅーいは斜め後ろからついて来た。私たちはたまたま同じ道を歩いている他人のようにエレベーターの所まで行き、私がボタンを押して待っていると、後ろに立つ彼から視線を感じた。通路が静かなだけなのかもしれないが、念のために「背中に何かついているの?」と冗談っぽく言って振り返ろうと思った。しかし周りに誰もいない場所で、私のタイミングで突然振り返ったら、見られる準備をしていないひゅーいに顔があるのか疑わしい。豆のような形のプラスチックに銀色の粒のような目がついたマネキン。私の過剰な想像であればいいのだけれど、早く下に降りて人がたくさんいる所で彼の顔を確認したい。
 ピーンと空になった香水の瓶を棒で叩いたような音が鳴り、エレベーターが到着した。奥へ進むと壁と似たような色の手すりに気付かずに腰骨をぶつけた。
 ドアが閉まると、私は家の中でそうしたように彼の腕を掴んだ。私が強く抱き着く程、その片腕にだけ下へ引っ張られる力が加わり、彼の左足の靴がカーペットにめり込んでいく気がした。六階で止まるとリュックを背負った女の子が一人乗り、年下に見られていると思うと恥ずかしくなって、掴んでいた力を緩めた。それから私が腕を離してつま先を見ていると、ひゅーいが「ゴミを捨てに階段で一階まで降りたの?」と言った声に気がつかずに自分から話していた。
「エレベーターのケーブルが切れたらどうしよう……」と言うと、ゴミ捨ての階段で疲れた自分の両足首を、誰かの両手で鷲掴みにされて引きちぎられそうな気がした。
――そうだよ、きっと下まで落ちるんだよ。
「えっ?」
「何?」
「お、落ちないかな?」
「大丈夫、切れたりしないよ」
「うん」
 再びピーンと音が鳴り、一階に到着していた。それにしても最後のひゅーいの言い方にはいつもと違う声の明るさがあった。
 エントランスを通ってガラスのドアを押し開けると、広場に吹くビル風と、広場の傍を通る車の排気ガスが、私の顔に膜を張るように被さる。広場の中心には噴水があり、その周りに集まっているものを見た時、私は嘔吐の予感に似た拒否反応を感じた。ひゅーい、あなたはあれを見てどう思う?
「何なのあれ」
 私は不満を言った。
「子供は、水遊びが好きなんだ」
 ひゅーいは噴水で遊んでいる子供についての事実を述べた。それは棒読みで、歩きながら言葉は後ろへと流れていった。頼りがいのない記号のような声はいつものことで、今のは済んだ事にして次のコメントに期待する。私もひゅーいも外出した目的を見つける前に、人の子供を見てしまったからこうなるのだ。
「子供なんてさ、水辺に沸く蚊と同じようなものじゃないの。うろちょろ危なっかしいことばっかりやって、言う事聞かないし、ママとか呼ぶみたいだけど、叱ると目は虚ろで、どうせママだと本当には思ってないんでしょ……。こんな苛立ちを感じながら、年齢からくる予定調和に逆らえず子供が欲しくなり、産むことになっても可愛がれる自信が持てずにまごついていたら、私は私をやめるだろう。
「いくよ」
 彼は何も言わずについて来る。リードするのはそっちじゃないのか。私だってどこに行くかなんて考えていないよ。
「ねぇちょっと」
 知らない人に声をかけられたような、つんとしたアンモニアの香りを思わせる声がした。
「……首に、汗かいてる」
 ひゅーいはハンカチを持った右手を、私の首の前に回してきて、喉に流れる汗を拭きとろうとした。急過ぎてびっくりして、何も分からないまま、私は痴漢にでも遭ったように腕も足も硬直して動けなくなった。
「あっ……」と、倒れかけた私を支えたひゅーいは言ったけれど、それは彼が大事にしている飛行機の模型が倒れかけた時の独り言のように聞こえたが、それだけでもない気がした。
「私、そんなに汗かいてた?」
「うん」
「そうなんだ。後ろから急に来たから誘拐されるかと思った」
「ごめん」
「広場を出ようか」
「うん。じゃあ、あっちにね、行ってみたい雑貨屋があるの」
「いいね」
 落ち着くと、周りがどんなに汚れた空気でも彼が隣にいるだけで涼しく感じる。ジャケットと脇の間に空間ができたような余裕を心の中にも感じる。汗が引いたみたい。店まではあと200メートル程ある。

 彼は道順を知らないはずなのに私よりも前を歩いており、彼の肩や背中から、帰って来れない場所へ迷い込んでしまった不安げな鼓動が伝わってきた。狭い一方通行の道路を歩いているようで、空に向かって少しずつ足が浮いていきそうな気配。あなたは何者?
 次々と浮かんでくる彼の謎は、浮かぶと同時になぜかほっとする。人通りの少ない一通の細い道路は両端に建物が並び、広場より薄暗く見え、彼が踏んだのと同じ場所のアスファルトを私が踏むと、ピッと何かが鳴ったような電気信号が頭の隅にすべりこむ。
「ねぇ、道分かってないんじゃない?」
「うん」
「じゃあ手、にぎってて。私は何となく覚えてるから」
 と私が言うと、彼はうんともすんとも言わずに立ち止まり、混乱と無の表情が交互に点滅するような表情のまま私が近づいて手を握るまで震えていた。
 彼の白いシャツの袖ボタンを一つ外して、肩に向かってゆっくりと袖を捲っていったらと、手を握りながら想像する。それは坂道をひたすら駆け上がっていくような純粋な気持ち。息が上がる程に視野は狭くなっていき、彼の両肩も失敗した写真のように断ち切れて見える。彼の体というより、私は一つの熱い何かに向かっている。あなたを空には行かせない。
ひゅーいは足を止めて振り返ると、
「ここ?」と、声を出した。
「そう。着いた」
「中って静かなのかな?」
「さぁ」
「きみこはよく知ってるんじゃないの?」
「そうだね。前来た時は静かだった」
「行って来たら?」
「行って来たらって何? 一緒に入ろうよ」
「うん」
 少し多めに話をされただけで、彼のペースになってしまうのはこれはこれでありかもしれないと思ってしまう。
「あぁ、ドア開けないとね……」
「天然?」
「ちょっと考え事してたの」
 中に入ると半地下へ降りられる木の階段があった。そこからは何十メートルも奥に続く店内が見下ろせた。迷路のように高さの違う棚やスチールラックが敷き詰められており、その隙間を歩いているニット帽を被った人は、棚やラックに隠れてニット帽だけが動いているように見えた。
「ひゅーい、あそこ!」
「なに?」
「あのニット帽見える? あれだけ動いてるように見えて面白い。あの人迷ってるのかな?」
「迷路みたいだ」
「まぁそうなんだけど、あそこにいる人見えない?」
「あれ?」
「そうよ」
「確かに」
 私は舌打ちをしそうになったがぐっとこらえた。噛み合わないことに苛立つ代わりに、彼の喜ぶことをして、楽しい時間にでもしようと思った。
「ひゅーいさん」
私の唇は彼の頬に当たったはずなのに、ひゅーいは目を丸くしたまま、関節に蝋を流し込まれて動けなくなったマネキンのように止まっていた。私は悲しくなりながらもう一度ぶつけてみた。彼は、私の感情が伝わったというよりも大事なものを奪われたようで、泣いているように感じた。私はひゅーいの耳の向こう側にある、石を積み上げて作った重そうな柱をぼうっと見ていた。どれくらいの時間、柱を見ているのかも考えなかった。私の頭の中に言葉はなく、首だけ傾いたままその場に立ち尽くし、気が付くとひゅーいが目の前からいなくなっていた。やっぱりか……と私は言った。
――デートをしたいだけなのに
 階段を降りて半地下から天井を見上げると、私は半地下よりもずっと深い場所にいるように感じた。乾燥した木の床の上を歩くと、ボンボンと軽く柔らかみのある音が響き、棚に置かれた小人の陶器を鼻の近くに持ってくると、店の乾いたにおいが詰まっていた。広すぎず狭すぎない迷路。物音はレジのあるカウンターの奥からかすかに聞こえるだけで、小人を棚に戻して何度か角を曲がっただけで何も聞こえなくなる。
時々すれ違うお客に通路を譲りながら奥へ進むと、うっすらとヒノキのにおいがする家具のコーナーに入った。これは、私の好きなにおい。男性的な理想のにおいに近い。ヒノキのような胸板と香りをもつ男の人……。理想の体とにおいを想像するだけで、バラバラだった私の体と感情をまとめてくれそうな気がする。噛み合わないことに右往左往するよりも、理想を想像している方が今の自分には健康かもしれない。さっきの背の高そうなニット帽の男、もういないかな。
私はUターンしてニット帽の男性を探しに行こうと動いた時、短い夢を見たような錯覚がよぎった。柿谷ひゅーいという人のこと。あんな悲しい顔をされたら私だって、どうしたらいいのか分からなくなる。
積極的に話す努力をしたようにもとれる、さっき彼がドアの前で言った言葉は今思うと、夢のようなものに思えてくる。彼と交わした言葉自体が夢で、それはなんだかんだ楽しかったのかもしれない。挙動不審な男と一日限りのデート、ということなら珍しい気分で楽しめただろう。けれど、私が今思っていることをはっきりと言えば、結婚という二文字について考えるのも避けたい……。
自分に告白すると、迷いなく手紙に書き連ねていく文字のように、言葉はスムーズに湧き上がる。木の床に立っていても、私は甘いクレープの上を滑っているよう。素直に出てくる言葉だから頭で考える必要はない。もし、別れたらマンションに帰らなくてもいい。これは素晴らしい希望なのではないか……。
 棚には知らない言語で書かれた絵本が置かれていた。少女が中心に描かれているが、全体が黒ずんでいた。棚の側面の板には止まったままの柱時計がかけられており、針に積もった埃を見ていると、自分の体が、ドアのささくれや、蛇口から滴る水滴になっていきそうな気がした。こんな私の視線に慣れていないものたちはざわめき始めている。彼らが無言で跳ね返してくる圧力で胸が苦しくなり、逃れるために自分にとって安全で確実なものは何か瞬時に考える。
さっさと店を出ればいいのに、金縛りに遭ったように動けなくなった。靴と木の板が釘で固定されたように足が上がらない。罰が当たったか、ニット帽のことなんて傲慢だったのか。
「あなたとひゅーいのマンションには、子供が待っているのだから、早く帰るべきですよ」と子供なんかいやしないのに店に置かれた「ものたち」から言われている気分だ。またこの問題。悩まずに生活するには、結婚して子供を産むよりほかにないのか。

ごめん、ひゅーいくん、どこ。さっき汗を拭こうとした時、あなたは何考えていたの。教えて、私と笑おうよ。私も笑うから。
――一人になるとこのまま離れていたいと思う。とめどなくため息が出る苦しさ。あなたがいないとすぐに突き詰めてしまう。どっちでもいいからあなたから示して。
 粘着テープを引き剥がすように、板から足を上げ、入ってきた入口の階段を上って外に出た。私はジャケットのポケットの中で汗ばんだ手を拭きながら、ひゅーいを探しに店の近くを歩いてみた。地味な低層階のマンションや小さな事務所や駐車場があり、30メートルほど歩いた頃にひゅーいの気配がした。振り返って戻ると、通り過ぎていたタクシーの車庫兼事務所の奥まったところにある自販機の傍でひゅーいが煙草を吸っていた。彼に近づき、煙で乾燥した目を見ると、私は彼にとても悪いことをしてしまったと思った。
「ひゅーいくん」
 とだけ言うと、私は謝りもしないでひゅーいの胸の辺りに顔をうずめた。ひゅーいの服が濡れながら暖かくなってしばらくすると、彼の腕は私の背中を抱いた。涙が安易にボロボロと流れて甘やかされている時間は、紙パックの牛乳を飲み干していくような、味わいながら全体が縮んでいく空しさがあった。あまり長い時間抱かれていると、今度は何かが具体的に見えて一緒にいる時間が枯れていってしまう。彼は腕を解き「さぁ、行くよ」と言って歩き始めた。私もそれに賛成した。区切りはひゅーいによってつけられ、私たちは歩き出した。

「この店の中を通れば近道になる」
 と、ひゅーいは言い、タイル張りのスーパーに近づくと中へ入っていった。中から出口に向かう途中には惣菜コーナーがあり、そこでは決定的な瞬間を見てしまった。昼食を買いに来たらしい男性の会社員が、茶色い衣がたっぷりついたイカフライをトングで挟み損ね、スーパーの床に音もなく着地し、会社員から半径60センチでは何もかもが停止していた。私はフライを落とした会社員の背中と床を見た。そこに模様はなく、キャスターの黒い跡が付着しており、見れば見るほどおびただしい数の雑菌が沸いてくるように思えた。ひゅーいがこの瞬間を見たかどうかを聞く前に、私はこの光景を「フライと会社員」というタイトルの絵にするべきだと思った。会社員の後ろ姿と落ちたフライだけを写実的に書き、床は平面ではなく波のある海面のように。あとの背景は黒ゴマを砕いてセメントを混ぜたような汚い渦だらけにする。
 笑いごとではない。絵にこの寂しさを封じ込めて、はっきりと決別しておかなければならない。もし私がひゅーいと結婚せずに別れて一人になったら、その後の人生で一度くらいイカフライが食べたくなる日がきっと来る。そうなったらあなたはどうするの。
今、この光景を見たのに、切ないねの一言で済ませてはならない。私がいなくなったら、あなただってあのイカを買うかもしれないんだよ。あなたはイカが落ちるとこ見てた? 私は今見たからもしそんな日が来てもあなた程ダメージは大きくない。想像だけど、あなたが私と結婚せずに、イカを取り損ねていると思うと切なくて、食事を作ってあげたくなる。そうならないためにあなたもあの会社員をよく見ておいて。
フライの会社員の右手首には輪ゴムが一つついていて、スーパーが用意した輪ゴムの箱からは取らずに手首からゴムを外し、落ちたフライをトレイに閉じてかごに入れていた。
 店内を横切り外の歩道に出ると、揚げ物のにおいやレジの騒がしさがなくなり、車が近づいては遠ざかっていく走行音はサラサラとした風のように澄んでいた。

 しばらく無言で歩道を歩き、通りの反対側にあるパン屋兼ランチのお店へ向かう横断歩道で、ひゅーいは私の斜め前を歩き、後ろ髪が太陽に照らされて獣っぽく見えた。彼は通常の光では見えない動物のような柔らかい毛をたくさん持っているのだろうか。案外、時間帯が変われば茶髪や金髪も似合うのかもしれない。平凡な顔だとばかり思っていたが、後ろから見ると目がつり上がってまるで別人のよう。もしひゅーいが獣だったなら、私はひとつも驚く事なく群れに返してあげてもいい。観光客でいっぱいの小さなトラックに乗って、ひゅーいを平原に放してあげる。
 横断歩道の白と、アスファルトの紺とを交互に足をついて渡る。意識はぼんやりとしていきながら、頭の一部分だけが冴えわたる。両手の五本の指先が異様に大きくなったり小さくなったり、点滅するようにビコビコと揺れている。
 これからも、ひゅーいと心が通っているのか分からないまま横断歩道を渡るくらいなら、今日のランチを中止し、タクシーを拾ってひゅーいと空港へ行き、飛行機に飛び乗って、平原に着いたら獣のひゅーいを放して、見えなくなったら、私は帰国したその日にマンションの玄関で手首を切って夭折ということで構わない――。そこに恐いと思う気持ちがあり、それは自分の今の手首を見ることを躊躇わせるが、効果はない。既に、手首から噴き出る血の映像が視界に上書きされている。
 私は、私と彼との間に起きたことを死ぬことで過去にし、これからも続くであろう噛み合わない会話をなくし、過去で固めたいと思っているのかもしれない。私は今、心象風景の中に置かれたベンチに座っている。膝や胸に、瑞瑞しい葉が風に乗って飛んでくる。サラサラと綺麗な音が鳴り、木々のざわめく音が聞こえる。
 ひゅーいの薄い唇、乾燥した頬、黒い髪。私は自分の死を想像するとあらゆるひゅーいの情報をかき集めていることに気づく。自分がもし、横断歩道を渡る最中に手首を切る場合、どんな場所で誰が傍にいたのかくらいは知っておきたい。その中にひゅーいを登場させようとする私には、結局ひゅーいしかいないのか。
ひゅーいとのこれからが不安であるという理由は、横断歩道で死ぬ本当の理由ではない。ひゅーいと別れる勇気もなければ、子供を産みたいとひゅーいに話す勇気もない自分から逃れるために、傷つく前に自分で死を選んだことにしようとしている。
本当の私は自分で産んだ赤ちゃんに顔をうずめてうれし泣きをしたいくせにそれを実行する勇気がない。もし、叶えられなかった時、自分が悲しみに暮れないで済むように、意識の中に麻薬を作ってアスファルトが子供に見えるようになっておきたい。アスファルトの上でうつ伏せになり、爪を立てた指を垂直に振り上げて突き刺す。分厚い殻を割るように。そしたらこの黒い板の内側から何かが出てくるんじゃないかって、信じられるようになれればいい。
いい加減この歳で、この曜日のこの時間帯に横断歩道を渡ると、それほどひねくれていない心のある部分が震えながら子供を欲しているのが分かる。私は子供を育てたい。私にだって生きる誇りがあるべきだ。しかし、そこから冷静に考えると、アスファルトの裏側に子供という発想は、現実的ではなさすぎる。

横断歩道を渡り終え、ひゅーいがお店のドアを開けると、カラランと乾いた木の音がした。オリーブオイルで何かが炒められている最中の香りと、軽い音楽が流れていた。テーブルへ案内されていく私たちは、はたから見ればただの地味なカップルで、恥ずかしく思った私はわざと音を立てて椅子に座った。
同じパスタのセットを注文してからもひゅーいはメニューを見ていたので、私から話しかけた。
「さっきの、スーパーマーケットの、揚げ物コーナーでね」
「なんだい?」
「イカを掴んでいた会社員が……よ、要するにおいしくなさそうだった」
「会社員がまずそうだったの?」
「違うよ、衣たっぷりのイカフライ」
「……ああいうのって、逆にたまにものすごく食いたくなるけど」
「だめ! あれだけは買ってはいけないよ」
「でも、最近のは意外とあっさりしてる、それに、あれは美味いとかまずいとか関係ないよ」
「私が作るから!」
 彼は私の声に驚いたようだったが、なぜか安らかそうな顔をして、それからまた何も言わずにメニューを見ていた。
 店員が置いたフォークとナイフの入ったバスケットを置いていなくなると、私は水の入ったグラスを見ていた。そこに店の外の歩道を歩く人や街路樹がぐにゃりとグラスの形に歪曲して写っていた。それだけだと両手がさみしくなり、自分のグラスについた水滴を上下に動かして拭き取ってひゅーいに、「つめたい手攻撃~」と言って濡れた人差し指と親指をひゅーいの手につけにいった。
「こらこら、もう」と、彼は言った。
「ひゅーいさん?」私は、彼と普通の会話ができていることに妙な感じがした。頭の上にはてなマークが浮かんでいる私を見て、ひゅーいが言った。
「挨拶が遅れて申し訳ない」
「なに」
「俺は、ひゅーいじゃない。雑貨屋の途中で交代した双子の弟なんだ、だまして悪かった」
「はい?」
「私気づいてなかったの……」
「手触られたら流石に黙ってられないと思って」
「なんでそんなことを?」
「み、水がついてるだろ? このテーブルに。そこをこの人差し指と親指が、ちょうど君子さんがグラスの水滴を拭ってた時の形にして滑る。スキーみたい」
「そんなことどうでもいいよ、なんでって?」
「木のテーブルだからカーブしながら滑る音が妙にリアルに響く……」と言ってひゅーいの弟だと名乗る人は、人差し指と親指をテーブルにおいてスキー板を滑らすようにカーブさせている。
「ばっかじゃないの、なにそれ。そんなにそっくりな弟なんている訳ない」
「え……あぁ」
「なんで嘘つくの? ひゅーいでしょ」
「うん」
「あぁ頭痛い。意味、意味分かんない、なんなの」
 ひゅーいが黙った。折角普通だったのに、こんな事がある度に私も取り乱していては彼を支えてあげられない。私がすべきことというのは、この人を支えること? そんな綺麗に私の人生はまとまっていくのか。
「ひゅーいさん、私って怖い?」
「え?」
「目つき悪いって自分では思っているよ。どっちかというとあなたは優しくて内気でしょ、私はどうせ肉食動物的なんでしょ」
「メスライオン……」
「うるさい」
 私はひゅーいを睨みつけ、テーブルにどんとひじをどんとついて威嚇した。ちょっと怒っている方が役割があって丁度いいのか。
――あぁあ、ひゅーいなんて、デート中なのに群れから外れた鰯みたいな顔してさ。というひどい言葉で彼を小さくしていくことはできる。私は鼻でため息をして、また息を吸い込む。
「ところで、お兄さんはどんな人なんですか?」と、彼が頑張ってついた嘘を引き継いでいる風に話した。
「う?」とひゅーいは慌てたが、少し間を置いて、
「モデルと役者をやりながら浄水器のメーカーで営業をやってます」
 と、すらすら言った。私も詳しく知らなかった兄(ひゅーい)のプロフィールが本当のなのかどうかは分からないけれども、その流れに乗って話した。
「そうですか、多彩なのですね。モデルは雑誌とかの?」と、私はインタビュアーのような大仰な聞き手を演じた。
「いえ、兄がやっているのは服の広告です。胴体の映ったジャケットやパジャマの写真などです」
「へ~スタイルがいいんですね、役者は……」
 とまで言うと、サラダとスープが運ばれてきた。続きが気になったがそれよりも私は、スープがそれほど熱くないことを確認すると、スプーンではなく器に口をつけて飲んだ。パセリの香りと適度な塩気が私に話す集中力とこの後に繋がる食欲を与え、もっと話したいと思った。
 私は飲んだ器を置いて、ひゅーいを見ると、双子の弟という演技のつもりで唇が広がり、前歯も見え、私の飲みっぷりを見てひきつっているような顔をしていた。「あら、失礼」と私はインタビュアーの口調のまま言った。この人は自分自身ではなく、違う誰かを演じさせた方が生き生きする。
 私が思いついたことを言おうと、息を吸った時にちょうどパスタが運ばれ、私たちのテーブルは熱々のエビのにおいに包まれた。パスタはもっちりと分厚く、幅の広いヌードル状で巻きやすく、歯ごたえもしっかりとしていた。角の四角いパスタはさっきの私たちが通ってきた横断歩道を思わせる。そして、これからも横断歩道と形の似たものに何度も出会すだろう。それを恐れるのではなく、その度に横断歩道を渡り切ればいいのではないだろうか。そんなことよりも、ここに今、食べるべきパスタがある。私もひゅーいも不幸にならないように、いや幸せになるためには、彼を喜ばせればいい。
私は自分の口に運ぶ予定だったパスタをひゅーいの口元へ持っていっていた。
「はい、ひゅーいくん。ふざけるのは終わり。食べなさい」
 と、命令形で言うしかなかった。ひゅーいはそれを食べた。また、雑貨屋に行く途中の道で見た混乱した顔になるのかと思っていたら、
「ふふっふふっ」と、笑いだした。
「なんで、なんで命令口調」
 と言ってはまた我慢できずに笑ったりむせたりするので、先へ進まなかった。ひゅーいがこんなに笑っているのは初めてだった。白くて印象のなかった頬がうっすら赤くなり、目元にできた彼の皺を私は見ていた。

 店を出ると、さっきまでの会話が嘘のように魔法が解け、街のにおいが体に染み込むと、私は自分が置かれている現状を忘れていたことに気づいた。
 これからマンションに二人で帰ってからを想像すると、視界に入る街を歩く人々の顔は、顔の部分だけがぐちゅっとして誰が誰だか分からなくなり、横断歩道は弱った私の心を象徴するように現れる。今隣に立っていて、私と同じ気持ちになっていそうな彼。一緒に家に帰ってどうする。今朝子供が群がっていた噴水の広場を通ってまたエレベーターに乗るのは一番したくないこと。あなたもそうじゃないの。
彼が何か言うのを待てずに「ごめん」と言った時、さほどの意外性も私たちの間に生まれなかったのは残念だった。言った後もしんとして、言う直前が緊張のピークだった。
「お腹が痛いから病院に寄るわ。ひゅーいは先に帰ってて」と、小声でひゅーいの顔も見ずに言うと、振り返ってマンションと逆の方向へ歩き出した。ひゅーいの返事は聞こえなかった。背中と肩が石のように硬く冷たくなり、昨日ゆきと別れた後よりも悲しい気持ちになった。自分の感情を掘り下げずに黙ってマンションのある大通りを逆方向に下っていくと、高速道路の柱やその両脇に立つ高層ビルが、立体的に見え始め、坂の勾配は少しずつ急になっていった。そして脇には20メートルおきの自販機、これは昨日見た。コーラのメーカー、マネキン!
マネキンは誰かが上空で私を監視していたかのように、私が自販機同士の隙間を見つけたと同時に、ガラガラと音を立てて現れた。異常な角度に曲がった顔に埋め込まれた銀の目がこちらを見ている。震える私は、血の気が引いていきながら「ずっとそこにいろ!」と叫んだ。
 坂道を走ると耳にぶつかる風の音がボコボコ鳴り、背中にこびりつくマネキンの感触を力任せに手で払うと腕がつりそうだった。坂を下った先の道には信号のない横断歩道がいくつもあり、高架や歩道橋の下はどこも薄暗く、黒い水たまりには吸い殻が浮いていた。私は人気のない高架下で立ち止まり、足元を見た。歩道には剥がれたタイルを部分的に補修した跡があり、歩道と車道の境目に設置された縁石はひび割れ、パイプ柵は歩道側にぐにゃりと曲がっていた。静かな高架下でじっとしていると、自分が誰かに見られているような気がする。そう感じるのは、タイルや縁石の亀裂の奥から、マネキンの目が光っているように感じるからかもしれない。
真上を電車が通過する音を聞きながら、首筋のべっとりとした汗を指で拭うと、舌の裏側にざらざらとした粒が二、三転がっているのを感じた。色のイメージはなんとなく銀っぽい……と思うとマネキンの目を連想して思わずペッとその場に粒を吐き出した。しかし、貼りついたように取れない。直接口の中に指を入れて取ろうとしていると、目の前にゆきがいた。
「なんで君ちゃんがこんなとこにいるの」
「ゆ、ゆきこそなんで、こんな所に」ゆきの声は低く、昨日と明らかに様子が違った。私はゆきと自分を落ち着かせようと、話していない間もずっと微笑みがちな表情のまま固まっていた。
 ゆきは普段から白と黒が基調の似たような服を着ているけれど、今日は昨日と全く同じで、着替えていないように見えた。
「きみちゃんには知られたくなかったな」と言ってゆきは左手に握っていた白いチョークを煙草を吸うように口に咥える。
「このテンションでいるのを見られたらどうしようもないよ」言い、ゆきはその場にしゃがみ込んで、汚れたタイルに向かってチョークで印のようなものを書き始めた。
「ここは明日になれば壊れてるよ」
「彼氏に壊してもらってるんだ。印したところを夜中に。そしたら、こんなつぎはぎだらけの道になるでしょう。それがいいよね」
「私が歩く道はもっと汚れているべきなのよ。そうしないと映えないでしょ」ゆきはホームレスが眠るために積んであるダンボールの上に座った。
「そしてこれね」と、今度は私に向けて言っている訳でもなく、歩道のタイルがはがされて窪んだところに鞄から小さな女の子の人形を取り出して、その窪みに押し付けた。
「ふふふっ」
「おやすみなさいね」と言うとゆきは割れた何枚かのタイルをその人形の上に被せた。
それは、私が今日考えていたこととそれほど大きな違いはないと思った。子供の代わりにアスファルト、人形。愛いしたいものがゆきにもある。でも、そんなやり方では。
「いろんな所に私の息のかかったものがないと、一人で生きていたってつまらないだけよ」
「そうだね」
「きみちゃん」
「なに?」
「今日のこと、人に言っちゃだめよ」
「いい?」
「うん……」
「あの」
「なぁに」
「昨日とついさっき、コーラの自販機の隙間に、マネキンがあったけど、あれゆきがやった?」
「そうよ」
「そう」と私が言うと、すぐにゆきが、
「ねぇ」と言うと立ち上がって、私の腕を掴んで高架の壁に押し付けてきた。後頭部と鉄の柱が強くぶつかったが、その程度で痛がってよい状況ではなかった。
「私がやってること、きみちゃんどう思うの?」と聞いてきたが答えを待たずに話しだした。
「誰にでもできることじゃないのよ、勘違いしないで、最低なことを進んでやっていくことに対して、私は純粋なのよ。君ちゃんの旦那さんになる人だって私みたいに夜な夜な何かしているかもしれないよ。それをどうやって否定する? 結婚しても所詮他人なんだよ。こっそり調節してるんだよ」
私はゆきに近づいて目を見た。白目に血走った線がいくつもあり、うるんだ瞳は宇宙から追い出された天体のようだった。私は目を逸らしたくなったが、ゆきが私の目の動きも許さない程強く見ていたので、ゆきの瞳に向かって私は言った。
「ゆきのやってる事は否定しない。でも、そのうち限界が来る。少なくとも私は人形を自分の子とは思わない。お互い、違う方法で、最良の方法を見つけられればいいんじゃないかな……。私は否定しないよ。だって今日のゆきがいるから昨日のゆきがいた訳でしょう、どっちも同じ私の好きなゆきだよ」
 私の腕を抑えるゆきの腕の力はいつの間にかほとんどなくなっていた。私が歩いても彼女は追いかけてこなかった。高架下から一度出てしまったら、もうゆきと話すことはなくなると思った。

 私は歩道からホテルの車寄せへ何食わぬ顔で入っていき、ドアマンに会釈をしてロビーに入った。すぐにカウンターを目指して歩いて行き、
「今夜空いてますか?」と言うと、
「はい、何名様の……」
 と返ってきた。後は自動的に行われるので、神経は休まった。羽つきのボールペンで名前を書いたり、手続きを待っている間にカウンターに置かれているホテルのロゴの置物を指紋をつけたり、意味のない動作で心を落ち着かせた。鍵を貰ってエレベーターホールに敷かれたベージュと茶の縞模様のカーペットを見ているとランプが点灯し、ドアが開くと誰も乗っていなかった。
貰いたてのキーを鍵穴に通す音はなめらかで、これから立てるあらゆる物音は一人分なのだと気づいた。ポロッと丸い音をたてて鍵が開き、ドアは私を向かえ入れるように開いた。私が一歩足を踏み入れようとした瞬間に入口の電気が点灯し、細長い廊下の奥に見えるデスクとローテーブルの角が、入口の明かりによってぼんやりと照らされた。ドアが閉まると私は寝室までの短い廊下をゆっくりと歩いた。歩いている間に頭の中に想像される清潔なシーツや布団のイメージが、私の衣服と肌の隙間にすべり込み、そっと誰かに包まれていくような心地がした。それはニット帽の男かゆきかひゅーいかマネキンかは知らないけれど、私は今自分の頭に浮かぶ全てを無視したい。
 デスクの近くにランプのスイッチがあったが、点けずにすぐ右側のベッドを見た。真っ白な布団と枕だけが皺もなく彫刻のように佇んでいた。私は今朝から着ていた黄色いジャケットを脱いでデスクの椅子の背もたれにかけ、ベッドカバーの上にそのまま背中から倒れてみた。天井と部屋全体を見て、カバーをめくって中に潜ろうとした時、入口の明かりが自動で消え、同時に寝室も真っ暗になった。
私はこんなところで何をしている。その私は、私たち、であるべきでないのか。ドアが閉まって登っていく床には私の両足二本しかなかったのはどうなんだ。違うでしょう。あと二本足りない。彼の肩にすぐ触れられる距離にいるべきでしょう。あなたは今どこで何してるの?
 私は何も言わずに立ち上がってデスクのランプを点ける。
 じっとしていると、私は「もの」が持っている時間を感じ始める。椅子の持つ時間、ベッドが私に強いる時間。昼間のアンティーク雑貨屋で私を追い詰めた柱時計や不気味な人形の持つ時間。ホテルにあるものは不気味ではないが、限られた時間と空間は、私が安息できる場所ではありませんと間接的に言っている。
 部屋にいても結局落ち着かないので、廊下と部屋を出たり入ったりもしてみた。ずらりとドアが並んだ細長い廊下に人の気配はなく、マカロンの空き箱の中にいるようで、やがて酸素がなくなっていくような気がした。廊下が換気されていなかったら……そうではなく、私の心の状態次第で、吸える空気の量が決まるのだと思う。
 呼吸にてこずる自分から解放されたい。ひゅーいの手を左手の小指一本でもいいから、どこかでぎゅっと繋がっていたい。私は廊下と部屋を隔てるドアの真下についているステンレスの板を人指し指でなぞった。そこからひゅーいの心とつながってはいないだろうか。今、境界にいる私たち。触った指先と、指先を見る目との間にはしる嫌な緊張が、乗り物に乗って窓から風景が後ろへ流れていく時に背中が感じるさみしさに似ている。そしてこの感覚は、部屋に戻ってからの静けさと同じなのだろう。
 シャワーを浴びていると誰かの背中が目の前にあればいいのにと思った。同じ釜の飯を食べるような感覚で、同じ浴室のシャワーを浴びる相手という、一人だと思い詰めがちな孤独を平穏に変えてくれる人。バスルームは廊下よりも明るく、シャワーもマンションのそれよりも勢いがあり、飛び散るお湯はキラキラしているが一人では何の意味もない。バスタオルで髪をいい加減に拭いて、ベッドに転がると、シーツに濡れたままへばりついていく自分の細い髪が、トラックに轢かれてぺしゃんこになったままアスファルトにへばりついたパーカーように見え、みすぼらしさに笑ってしまった。
 私は起き上がり、髪を乾かすと、着替えもないので脱いだ服をそのまま着て、上の階にあるバーに移動した。夜景の見える窓際に座り、ビールとピクルスを頼むと、また新しい空間に自分の体が置かれたことを実感する。目の前の黒い枠にはめこまれた分厚いガラス窓から見える夜景と、心の中に今もいる、高校生だった時の学生服姿の私が、空に向かって、窓の向こうに見える半透明の階段を駆け上がっていく。これは私が大人に成長していくから高校生の残像が上へ行くのではなく、時間切れになって学生時代を回想できるチャンスが減っていっているというメッセージかもしれない。ひゅーいは、地面を歩いているのに、空へ続く階段を一歩一歩登って行くような人だった……。彼は陰が薄くて暗い人だから空に向かおうとしているのではなく、きっと私と同じように、階段を上っていく過去の自分の背中がちらついて前に進めずにいるのかもしれない。
 ピクルスをフォークで刺して食べた。ビールは冷たくて柔らかい口当たり。ピクルス、ビール、ひゅーい、私。問題をつまようじで刺して食べてしまおう。という、ユーモアで解決できればいいのに。イカフライもエビもぺろりとそこに含まれる問題ごと美味しく頂いたら少し寝て、家の周りをジョギングして全部燃焼できればいいのに。

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