大人になったものだ

せっかくお題があるので振り返ってみたい。

大学進学のため18歳で上京した。
あの頃の自分は、政治や経済の事も知ってる真面目でやればできる大器晩成の逸材だと思っていた。いや、半分は無理やりそう思っていた。

なぜなら志望校に入れず、遅くまで募集があった私大に何の情報も無く滑り込んだからだ。
受験の時に「こんなヤツらと一緒とか無理だわ」と思い、
入学しても「勉強全然してない奴らめ。うるさいな」という思いが、受験失敗のコンプレックスとないまぜになって、仲間とは距離を置いていた。

それは在学中仲間と親しくなってもどこか心の隅に居座り続けて、
4年生になるとそいつが爆発して学校に行きたくなくなった。
引きこもりというわけではない。なぜならアルバイトは物凄く頑張ってたし。

結局留年。
しまいには「お金も無いから辞める」だの「除籍?退学手続きしなくていいからそれでいい」と開き直った。

アルバイト先の年上のお姉さんの先輩に諭された。
「理由はあとからつければいいから卒業だけはしなよ」と。
尊敬する先輩の言葉だったので本当にただひたすら学校に通った。
研究についてた教授はよその大学に移籍してたのでひとりぼっち。
身近に指導してくれるはずの先生がいなくなったんだから卒論の評価もボロボロ。よく卒業できたと思う。あるいは追い出されたのかなと思った。

あの自信と葛藤は何だったのだろう。
上京した時の自信はいつの間にか消えていた。
遊んでばかりで出席票だけ出したり教本を丸写しのレポートを出す仲間が優評価を取り、真面目に書いて時間切れの自分が可という評価。上手くやったヤツが良くて、正直者はバカを見るのか。

そう思ってたしそういう要素もあったけど、一人で必死にとにかく学校に通った最終年は、ほとんどの講義が優評価だった。中には一年生の時に履修する必修科目もあったがそれも優。喜ぶというよりあっけなく感じて笑ってしまいそうだった。

俺は誰と競っていたのだろう?何と競っていたのだろう?
誰と比べて逸材で、誰と比べて真面目だと思ってたのだろうか?

目に見えないし、向こうも見ようとしていない世間の目と戦ってたんだろうなと思う。随分大きな相手と戦ったものだ。滑稽にも思う。ドンキホーテ。


現在。
「勉強は自分のやりたい事をする近道を通るためにするんだよ。ああ、方程式なんて使わないだろうね。でもその発想がいつか活きるし、教養になるんだよ。できる所からやってみようぜ。」
勉強嫌いの中高生にいつも声がけしている。

「なに、滑り止めの大学しか受からなかったからへこんでるのか。わかるなあ。でもな、そこで何をするかが重要だぞ。4年間をしっかり学びに使えば大学のラベリングよりも良い評価がされるのがその先の世界だから。」
受験の失敗を嘆く受験生を励ましている。

きっとそれは生徒の役に少しは立っているだろう。
でも、学生時代の苦みがこういう言葉を言える自分にしたんだと思うし、そうなる努力ができたと思う。

そして、アドバイスはそのまま自分のこれからのあり方についても当て嵌まるんじゃないかと思う。

大人になったものだ。
いつか来る死んじゃう日まで、学び成長し続けると心に決めたんだ。

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