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【青森県五戸町】ごのへ郷土館と帰ってきたディーゼル機関車

 青森県の五戸 (ごのへ)町には、ごのへ郷土館という郷土館がある。

 五戸町でも八戸 (はちのへ)市にほど近いここは、2014年に廃校になった豊間内 (とよまない) 小学校を利用した郷土館だ。

ごのへ郷土館外観

 五戸町には1929年から1968年までの間、南部鉄道という鉄道が通っていたのだが、1968年の十勝沖地震で壊滅的な被害を受けたことにより廃線となってしまった。
 それでも南部鉄道の痕跡は今でも五戸町のバスターミナルに五戸駅の名称が残っているなど、廃線になって久しいながらも往年の五戸町を象徴する存在として地元の人々に語り継がれてきたという。
 そして2022年、かつて南部鉄道で使われていたディーゼル機関車DC351が里帰りを果たし、旧校庭に展示されこの郷土館の目玉展示となっている。

展示されているDC351。
先日再塗装が行われたとのことでピカピカだ
DC351の背面。
この後ろに客車や貨物車などを引いていたらしい
DC351の隣には駅舎を模したスペースがある。
農作物の生産が盛んなシーズンには
地元の人の作った野菜などが売られているらしい

 さて、この車両が帰ってきた経緯というのが少し複雑だ。
 実はこの車両、地震の1年前に京都府の加悦鉄道に売り渡されたものだった。加悦鉄道は1985年鉄道運行を終了し、その後は加悦SL広場にて展示されていた。
 しかし2020年に加悦SL広場は閉園。保存されていた車両は京都府内外へと譲渡・移設され、それぞれの場所で保存される運びとなった。
 その内DC351の保存に名乗りを上げたのが、かつて南部鉄道を有していた青森県の五戸町だった。

DC351の経緯を説明するパネル

 帰ってきたとはいえ、里帰り当初は野晒しの状態だったそうだ。しかし少しずつ工事が進み、遂に先日保護と展示を兼ねたプラットホームが完成した。
 そしてそれを祝う催しとしてが2023年の12月16日に行われた。

完成したプラットホーム。
この中に車両が入るのはまた後日とのことだった
イベントということでキッチンカーも来ていた
五戸町とその周辺は馬肉食文化が盛んな地域であり
馬肉汁は地元の人もよく食べる正真正銘の名物だ。
こちらが馬肉汁。
馬肉の他にキャベツや糸蒟蒻、高野豆腐などが
具材となっている甘めの味噌ベースの汁物だ。
真ん中になってくるのは南蛮味噌という唐辛子入りのなめ味噌。
山形県が有名だが、青森県の南部地方でも作られており
定番のおかずとなっている。

 イベントの前に、郷土館の中を見学する。この日はイベントということもありかなりの人入りだった。また、土曜日であったが近隣の幼稚園の子どもたちも遠足に来ていた。

ごのへ郷土館入り口
帰り際に気づいたが干し柿が吊るされていた。
都市部ではなかなか見なくなった光景の1つだ
豊間内小学校時代の看板と
DC351をモチーフにしたキャラクターの像
郷土館には珍しくお昼にはカフェも営業している。
また、先ほどの駅舎の中には彫仏師の工房もあるらしい
イベントということで送られた立派な花も玄関に飾られていた
南部駒踊りの展示と
合掌土偶のレプリカ
南部駒踊りの奉納の様子を模したジオラマ
簡易的な顔はめパネルもあった
五戸まつりの展示。
南部駒踊りは現在この五戸まつりでも披露されるらしい
五戸まつりの様子の写真
地元の方の制作された見事な吊るし飾り
小学校時代のゆかりのスポーツ選手などの展示。
その上に飾られているのは地元のアーティストの方の作品
駅舎で活動されている方の木彫り細工
五戸町のマスコットキャラクターおんこちゃんのぬいぐるみ。
そして石に描かれたDC351の絵。
因みにおんこちゃんをデザインしている姉妹ユニット
東京ハイジも五戸町出身の方とのことだ。
五戸町とゆかりのある映画作品の展示。
こちらは黒澤明監督の「夢」に登場した
五戸ばとりという工芸品についての展示。
八甲田山のロケの一部は五戸町の旧倉石村で行われたらしい

 ここまでは1階の展示。
 メインの展示室は2階にある。校舎は3階建てだが3階は使われていないようだ。

古い小学校を改装した施設ながら
ちゃんと車椅子の昇降設備がある
2階に上がって右手の部屋には機織り機などがあった。
こちらは展示品ではなく、毎週土曜日の午前中に
南部菱差や南部裂織などの手工芸体験を開催している
「綾の会」で現役で使用されているものらしい。
入って左手、まずあるのは古代の五戸町に関する展示だ。
こちらは五戸町の薬師前遺跡で発掘された土器棺の展示。
実際に発掘されたものは現在隣の八戸市にある
八戸市博物館に所蔵されており、こちらはレプリカ。
しかし埋葬されていた状態がよくわかる。
実物は副葬品を含め国の重要文化財に指定されている
五戸町に現存している遺跡の地図。
かなりの広さのものも含め
たくさんの遺跡が残っているのがわかる
狩猟に用いられていた落とし穴の解説と
弓矢のレプリカ
実際に出土し、復元された土器の数々
そしてこちらの石冠。
用途や素材など一切が不明であるが
この郷土館のマスコット的存在  (?)らしい
この石冠のグッズまで作られている
こちらは奈良時代の竪穴式住居である中崎遺跡の展示
時代が下り、明らかに縄文土器とは
土器の質感などが変わっているのがわかる
こちらは実際に触ることができる縄文土器片
続いては中世の五戸町の展示ゾーン
五戸町も含め、青森県南東部から岩手県北部に見られる
「戸」のつく地名についてのパネル。
一戸から九戸までがある中で四戸が現存しないことも含め
様々な説が唱えられている。
(因みに地名としては現存しないが苗字としての四戸は現存し
新郷村ではこの苗字を掲げた店舗が数件見られた)
古文書などについての展示
五戸町の耕地面積を記した資料のレプリカ。
オリジナルは現在は盛岡市の岩手大学に保管されている。
アクセスの都合やかつての南部藩としての繋がりのためか
青森県の南部地域は同じ青森県内の弘前市よりも
岩手県の盛岡市とのつながりの方が強い地域だ
1803年の集落名などの資料。
もちろんレプリカではあるのだが
実際にめくって読むことができる
嘆願書なども展示されている
五戸のかつての名産だった紫根についてのパネルと
五戸を管理していた南部藩の地図。
「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれただけある
領地面積だ。
入り口にも展示されていた南部駒踊りのパネルや
かつての五戸町で見られた馬と1つ屋根の長方形の住居
直屋 (すごや)のパネル。なお直屋は五戸町のみならず
同じく青森県南部地方や岩手の県北部でも見られたらしい
鞍の骨組み。
かつての五戸では各家庭にあったのだろう
続いては五戸の産業のコーナー。
写真の登場に現代に近づいていることを感じる
かつて盛んだった養蚕についてのパネル
今でも使えそうなほど状態がいい生糸を紡ぐ道具。
丁寧に使われれていたのだろう
繭の品評会が行われたいたことを紹介するパネル。
当時は日本の各地で盛んに養蚕が行われていたのだろう
こちらは農具。
使用する季節ごとに区分されており
こちらは春から夏の間に使われていたものだ
こちらは収穫期に使われていた道具
そして北東北の農業の歴史を語る上で
避けては通れないのが度々発生した飢饉だ。
特に太平洋側はやませの影響を受けやすく
八戸市などでは当時の悲惨さを物語る石碑などが見られる。
ここ五戸町も相当の被害が出ていたのだろう。
この辺りが馬産地として有名なのは、農業生産が
不安定だった背景もあるのかもしれない
こちらは「南部せんべい」という青森の南部や岩手の北部の
小麦粉から作る薄焼き煎餅のための焼き型。
有名なもので言うとせんべい汁に入れられるのがこれだ。
起源については諸説あるが、こちらについても米の育ちにくい南部藩で
そばや大麦といった雑穀の粉を焼いて食べていたのが
原型という説がある
そしてこちらは徳利。
今年生産を終了してしまったが、五戸町では「菊駒」という地酒が作られていた。
現在は八戸酒造が菊駒の生産を引き継いでいる
そして近代の五戸町のコーナー。
展示の大部分を占めるのはもちろん南部鉄道に関するものだ
南部鉄道の説明パネル。
当初は電気鉄道の予定だったが費用などの問題で
ディーゼル車が使われていた。
つまり鉄道ではあるが電車ではない。
南部鉄道で使われていた道具
実際に南部鉄道が走っていた場所の地図。
五戸町の中心部から現在の八戸駅まで走っていた
時刻表。尻内は現在の八戸駅の場所だ。
こちらが当時の路線のジオラマなのだが
ボタンを押すと
車両が
ちゃんと
走る!
しかし十勝沖地震により大きな被害に遭い
復興することなく南部鉄道は失われた。
実際に被害を受けた線路の写真
南部鉄道廃線のお知らせの交付
幻となった五戸から八戸の海岸部まで延伸する計画
こちらも第二次世界大戦で立ち消えとなった
南部鉄道を秋田の十和田あたりまで延伸する計画。
現在の大館市の辺りは秋田市よりも
青森県の弘前市と繋がりが強い地域と言われているが
これが実現していればこの辺りの感覚が
また違っていたかもしれない
南部鉄道を引き継ぎ、現在も現役の南部バスの
記念アイテムたち
明治から平成にかけての五戸町の歴史のパネル
階段から降りる途中に展示されていたタコ。
ちいかわかと思いきやLINEのキャラクターだった。
豊間内小学校が廃校になったのは2014年と10年前なので
時期的に廃校直前の時期に小学生が作った凧だろうか


 さて、そうしているうちにセレモニーが始まる。
 開会式が行われたのは完成したばかりのプラットホームだ。

テープカットの様子。
このプラットホームはDC351の展示・保護はもちろん
こうした屋外イベントの会場としても活用されるらしい

 鉄道関係者や利用者の方からの直接お話を聞く際は、郷土館の室内に移動した。

講演が行われたのはかつての小学校の面影を
色濃く残す教室の1つ。
広い教室ではないとはいえ、地元の人と思わしき人々で
あっという間に部屋はいっぱいになっていた

 戦争へ行く兵隊を見送った話、とれたりんごを売る為に尻内まで行き、そこから乗り換えて陸奥湊 (八戸市の沿岸部にある地域)に行った話。貨車の連結部分の高さが180cmほどの高さにあったので、助走をつけて操作の際は助走をつけてジャンプしていたという元職員の方のお話。当時南部鉄道と共に生きていた方だからこそ聞ける、貴重なお話ばかりであった。

 戦後の好景気でオートバイが普及するまでは徒歩か自転車が移動の中心であったが、当時は道路が舗装されておらず陥没もしばしばあったという。
 もちろん自動車も現代ほど普及しておらずトラック輸送も一般的ではない時代、そういった中で安定して多くの人や物を運べる鉄道路線には本当に多くの人が助けられていたのだろう。

 八戸から魚の行商が来るので電車が来る頃に合わせて駅に買いに走っていたというお話や、対して五戸からはりんご以外にも南部せんべいなどの菓子を八戸で売っていたというお話、現在も五戸町に店舗を構える寿司屋の「東寿し」の人が魚を仕入れに行く姿を見ていたというお話もあった。
 当然だが地方にはスーパーマーケットもない。あまりにも多くの前提が現代と違う時代の話は、やさり実際に当時を生きた人から聞かないと分からないと感じた。

 そして十勝沖地震の際のお話。
 ある方は直後は八戸で仕事中だったという。道が崩壊し、電車は勿論徒歩ですら難しい状況だった為に同じ便に乗ろうとしていた人たちでトラックに乗って帰ったという。
 ある方は地震の直後、鉄道が陸橋から垂れ下がる姿を見たという。その姿は強く印象に残っており今でも近くを通るたびに脳裏をよぎるという。
 ある方は丁度南部鉄道で運行業務に当たっていた。ちょうど駅に着いた瞬間に地震があり、自分や乗客はホームに載っていたので幸い怪我がなかった。しかし目の前でホームが壊れていく姿や、電車とホームがぶつかる様子を見たという。
 地震の際は特に志戸岸というごのへ郷土館近くの地域の被害が大きく、鉄道被害が大きかった他に山崩れに親子が巻き込まれて子供だけが生き残ったということもあったという。

 なお、今の志戸岸のバス停の上に駅があり、そのあたりには天満宮がある。そしてこの天満宮近くには路線跡や南部鉄道に関する看板があるらしい。その看板に載っているのはDC351の先輩の蒸気機関車とのことだ。

 後に南部鉄道を振り返る記事が地元の新聞に載り、この際に6番までの南部鉄道の鉄道唱歌が掲載されたことがあった。しかしこの際に「歌詞が自分の記憶と違う」という意見が多数届き、本当は歌詞が10番まであったことが判明したこともあったという。

 さて、話の最後に実はプラットホーム脇の駅舎はかつての志戸岸駅に似てないという話があった。実際に当時の駅を再現したのがこのようなものだったらしい。

時代を考えると相当に立派な駅だった様だ。
現在の愛され方も含め、当時の活気が伺える

 そしてこの後には、地元の方による三味線の実演やクイズ大会、RABラジオのパーソナリティとして活動されているシンガーソングライターの古屋敷裕大さんのライブなどが行われた。

地元の方による三味線と歌唱、踊り実演の様子
最後に飛ばされた大輪の花火。
今回はプラットホーム完成の式典という形だったが
今後もイベントを開きたいと考えているとのことだ。
今回は冬場で足場も悪かったことなどから見られなかったが
郷土館に併設されている植物公園も面白いという。
今度は暖かい時期にも来てみたいと思った

ごのへ郷土館
住所:青森県三戸郡五戸町大字豊間内字五ケ久保3-1
開館時間:10:00〜17:00
休館日:毎週月曜、年末年始(12/28〜1/3)
入館料:無料
アクセス:南部バス「ごのへ郷土館」前下車
    八戸駅より自家用車で15分

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