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小説『エミリーキャット』第7章・ナイトメアの誘惑

そして心の中でこう呟いた。『あの人もそう言ってくれた、でもそうじゃなかった…』
彩は目まぐるしい想いに耐えながら思わず瞳を閉じた。 
慎哉の思いもよらぬ身の上話を、自分があの森に入ったことから聴くことになったが、そのせいで彩は決して慎哉には知られてはならない重い秘密を自分が苦しみながらこれからも独りで、ひっそりと背負い続けなくてはならないのだと悟った。 
自殺を考えるほど悩みの淵を孤絶して歩いてきた彩だったが、その先で出逢った慎哉が生きる歓びを再び教えてくれた希望の光そのものだったのだ。 
『シンちゃんを失いたくない…!
私も不倫をしていたと、もし知ったら…
そしてその人との間に出来た子供を堕したと、知ったなら…
きっとシンちゃんは私を軽蔑して、更には憎むようにすらなるかもしれない』
彩は身震いした。
『私は愛する人に自分の本当の苦しみを打ち明けることは決して出来ないんだわ、一生。』
『…彩、今何を考えてる?』
慎哉の言葉に彩は、はっとして現実に引き戻された。
まるで昏い森の中を一瞬、独りで彷徨(さまよ)っていたかのような、強い心細さをおぼえた。 


『時々彩が近くに居るのにひどく遠くに居るように感じてしまうことがあるんだ、何故かな?』
『…』彩は咄嗟に言葉にならず、ただ唇だけで微笑んだ。
だが瞳は深い哀しみを宿したままだった。
慎哉は彩の肩を抱き寄せて言った。
『彩にも何か辛いことがあるのなら言って欲しいんだ』
『乳癌の再発を怖れているだけよ』
『大丈夫だよ全摘にまで彩は挑んだんだ、彩の躰はもう後は回復に向かうだけだよ、
それだけ彩が頑張ったんだから、神様は彩に後の人生にはご褒美をくれるさ』
『…神様…』彩はその言葉に怖れを感じて、思わず目を閉じて慎哉の胸に逃げるように顔を埋めた。
慎哉は彼女の真の怯えには気づかないまま彩の髪を優しく撫でながらふいに話頭を転じた。
『ねぇ彩、もうその例の森には絶対行かないって俺と約束してくれないか…?』
『するわ、行かないわ、私どうかしてたのよ』
『どうしてかな俺、彩はまたあの森へ行ってしまいそうな気がするんだ』
慎哉はまるで銀色の輪を輝くように滲(にじ)ませた艶やかな黒髪に覆われた彩の小さな頭のなめらかな感触を下顎と手のひらで心地好く感じながら囁いた。 
『行かないでくれよなその森に…特に森奥にあった花屋なんかのことも、もう彩の中から追い出してしまって欲しいんだ。』
『心配しないで行かないわ絶対に…私はシンちゃんのほうが大切なんですもの、あの花屋さんのことなんか…もしかしたら夢だったのかも、気分が悪くなってどうかしてた私が見た幻だったのかも、』
彩は心の中で自分に言い聞かせた『そうよあれは幻、本物じゃない。』
しかしそう自分に言い聞かせながらも、森も花屋も確実に在ったのだともうひとりの自分の声が遠くでした。 
それでも構わない、私にはもう関係の無いことよ…。
彩は閉じた瞼の奥であの花屋の猫がピンクグレーの床を駆け足で遠去かってゆく様を、まるで光を見た後の残像のように見た。
そしてその奥でそっと扉が開くのをまるで目覚めたまま見る白昼夢のように見た。

  空色の扉はあの絡繰り時計の扉のように内側から開かれ、その僅かな隙間から猫は甘えたような声で、嬉しそうにひと声鳴くとその中へと入って行った。 
扉が再び閉ざされる音と共に彩は、はっと我に返った。 
“今のは何?夢?”
覚醒しながらなんとなく浅い夢を、たゆたう時が人にはある。
あぁ夢だなぁと気づきながら見る夢、 
覚めようとすればすぐに覚めることの出来る現実と夢とのギリギリの世界。
今にもぱっくりと両側に向かって固いコンクリートの壁を露(あらわ)にする為に花弁のように剥がれ落ちる壁紙のジョイント部分で見るような浅くて深い夢、意識の水面下すれすれの淡い脆弱な薄羽蜉蝣(うすば・かげろう)のような、その世界でとる操舵輪(そうだりん)は夢の内容をコントロールすることは難しくても、イヤになって目覚めようとすればそれだけは容易かった。  
しかしそんな風に働く鈍い意識下で見る夢は時として妙に鮮烈な時がある。 
不確実なのにまるで確実であるかのようなのだ、驚くほど色鮮やかな仮面を着けて水面からさながら艶冶な人魚のように浮かび上がってくる。

その豊潤な血色に染まった肌色も、真珠色から薔薇色へと脈打つように輝く鱗も、水飛沫(みずしぶき)を上げる大きな尾びれも、総てそれらは濡れ色に輝く臨場感と生命感に生々しいほど溢れている。 
慎哉の腕の中で眠ったその夜に、訪れた彩の夢は一枚の絵の前に立つ自分自身の夢だった。 
森の中で辺りには、虹色に輝く光の帯が木の間隠れのいたるところから円錐形に射し込み、小鳥の囀(さえ)ずりが聴こえた。

そのさんざめく光の森の中にイーゼルに立て掛けられた絵が一枚。
その絵と向かい合う彩は、キャンバスを見ていながら、その絵がどんな絵であるのかが何故かどうしても解らない。 
見ようと目を凝らせば凝らすほど、絵の中は靄(もや)のような白い何かが流転し、どうしてもその見たい対象が彼女の意識の中に画然(かくぜん)としたフォルムを成して起き上がってこないのだ。
半分覚醒しながら見る夢は鮮烈で、さながら絞りたてのミルクのように濃くフレッシュだが、同時にもっとよく見たい、知りたい肝心なディテールは、妙に吝嗇(りんしょく)でいつも必ず靄が、かかっている。  
夢ってそんなものだよと朝食を食べながら慎哉と彩は語り合った。
そしてふたりは慎哉の車で同じ職場である新宿の画廊へと向かった。





(To be continued…)

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